こうして歴史は繰り返される
十五歳で世界を救った勇者が、還暦を迎えた。
勇者は王位を譲り、賢帝としての役目を降りることにした。
平和になった世界に満足したから、かと思いきや。
「おかしい……」
長閑な田園地帯に建つ小さなコテージのウッドデッキで、かつては勇者として名をはせた男は、バスケットいっぱいに収穫したインゲンの筋を取っていた。が、すぐに作業を止め、プラプラと力なく手を振る。
「田舎暮らしって、もっと楽なものだとばかり思ってたのに。結構、体力勝負なんだな。あぁ、指が痛い」
剣をペンに持ち替えて四十五年。毎日のように玉座を温め続け、雑事のすべてを使用人に任せていた男は、寄る年波以上に、すっかり筋肉がやせ細っていた。
『隠居生活も楽ではない、と分かったかね?』
「誰だ!」
男は、とっさに壁に立て掛けていた鍬を手に取り、声のした方へ向いて構える。しかし、それとは正反対の方向に、青い肌で尖った耳をして黒い翼と尻尾を持つ魔物が現れる。
『ヤレヤレ。往時は聖剣を片手に果敢に立ち向かってきた少年も、今では只の老人ではないか。ようやく復活したというのに』
「ハッ! まさか、封印が解けたというのか」
『言ったであろう? 吾輩は、必ず蘇ると。それより、役に立たない鍬を捨てた方が身のためだ。手を離したまえ』
「クッ」
男は、眼光鋭く睨みを利かせたまま、足元に鍬を置き、両手を挙げて振り返る。
「倒したければ、倒せ。どうせ、老い先短い命だ」
『倒す? クックック。笑止千万だな』
「何がおかしい?」
『吾輩は、取引にやってきただけである。貴様と戦いに来たつもりは、さらさら無い』
「取引、だと?」
『あぁ、そうだとも。吾輩と契約を交わし、地下世界の帝王として、もうひと花咲かせないかね?』
「断る、と言ったら?」
『フッフッフ。今日のところは、大人しく引き下がろう。だが、明日も必ず勧誘に上がるぞ? どこで何をしてようと、吾輩は貴様を見失うことが無いとは、経験として覚えているであろう?』
「チッ」
男がゆっくりと両手を下ろしながら舌打ちすると、魔物は、口角を上げてギザギザの歯を見せながら、優しく語り掛ける。
『やっと長話と署名から解放されたというのに、暮らし向きは苦しいままではないか。吾輩と契約すれば、巨万の富も、強大な権力も、永遠に近い若さも手に入るぞ? どうかね?』
「その手は食わないぞ」
『財産を国庫に預けたまま、王位も無く、身体も著しく衰えているというのに、何が気に入らないのかね?』
「どうせ、うまいこと言って洗脳して、手駒にしようとでも思ってるんだろう?」
『おやおや。それは、勘違いも甚だしい。吾輩は、あくまで社会経済を発展させたいだけである。よいかね?』
魔物は、尖った黒爪の指を一本立てて注目させると、立て板に水と説明しながら、徐々に距離を詰めていく。
『闇の王がいるとなれば、討伐隊が結成される。討伐隊が結成されれば、買い手の増加に合わせて、鍛冶屋が大きな武具を作るようになり、宿屋は大部屋を用意し、市場は肉や魚の仕入れを増やす。儲かった職人や商人は、その儲けの一部を遊興費に回す。街が破壊されれば、大工が儲かるだろうし、不安が増せば、教会の信者も増えるだろう。こうして社会の金の巡りが良くなり、世界経済は景気が上向いていく。――とまぁ、こんな具合だ』
「その陰で、家族を失ったり、恐怖に怯えたりする子供がいるんだぞ」
『そんなもの、余った金で孤児院を立て、しかるのち、討伐隊の訓練生にでもすれば良かろう。ひと房の麦を得るには、ひと粒の麦を蒔かねばならない。最大多数の最大幸福には、少数派の犠牲がつきものなのであろう? この世は、弱肉強食によって成り立つのである。さぁ、どうかね? 吾輩と契約すれば、人間生活のセセコマシサから解放されて楽になるぞ?』
魔王は、吐息がかかるほどの距離まで男に近付くと、一度、ニコリと蒼い目を細めたあと、カッと目を見開く。男は、慌てて目をそらそうとしたが、朱色の眼光に目を奪われる。そして、金縛りにあったように気を付けの姿勢で硬直すると、そのままバタリと床に倒れる。
『残念ながら、初めから貴様に、拒否権など無かったのだよ。長期戦で、百年と生きられない人間風情が、吾輩に勝てるわけなかろう。フッ。それでは、根城に帰るとしようか』
魔物は、冷凍マグロのようにコチコチなった男を小脇に抱えるや、翼を広げて遥か大空へと飛び立った。
後日、コテージに手紙を届けに来た郵便配達員は、ポストに刺さっている禍々しい色の封筒に驚き、腰を抜かしたそうである。それから世界がどうなったかは、語る必要も無かろう。