爪切り
パチリパチリと音がする。
彼が爪を切る音がする。
銀色を主張するまだ新しい爪切りを左手に持ち、小指、薬指、中指の順番に切りそろえていく。
彼の指は美しかった。
ほっそりとしていながら、一本一本が意思を持つかのように柔らかく滑らかに動く。そんな白く長い指先には今にも光がともりそう、なんて空想してしまうほど彼の指は魅力的だ。
それに加え、磨き上げられた真珠と同じようなツヤを持つ爪。淡い肌色の先に白が付随したそれはどんな宝石にも勝るとも劣らない輝きを放っている。
流れるような黒髪、整った顔立ちに染み一つない肌。それに加え、ギリシャ彫刻のような理想的な体形をした彼は美しい。私の貧相な語彙では言い表せないほど理不尽に、そして暴力的なまでに美しい。
故に私は思う。
彼は一つの芸術なのだ。神の手によって作られた完璧な彫刻作品なのだ、と。
彼は窓際のベットの上で爪を切っていた。
何故か。
当然のことだが完璧の形を保つためには余分な部分を取り去る必要がある。つまり、伸びて不要になった分の爪を切らなくてはいけない。これは彼に限らず万人に共通した習慣だろう。
しかし爪を切ることによって彼の美しい爪が分離し、あろうことか廃棄物のけがれた腐海の中へ捨てられ、有象無象と共に焼却されてしまうのは実に惜しい。だが切らなければ不完全な形になってしまう。だから仕方のないことなのだ。
彼は爪切りを持ち、その細指の先端に刃を食い込ませてゆく。
うっかり肉を挟んでしまうのではないかと思うと、ハラハラしてしまう。もし挟んだら、彼が痛みを感じてしまうのもそうだがあの芸術品のような指に傷でもついたら大変だ。
そして彼は左手に力を込める。関節が駆動し、目標が定まり、上下から刃が食い込み、少しずつ、少しずつ、切れ目が入り、傷がつき、その傷が広がり、刃の圧力は高まり、耐えきれなくなった角質は臨界点に達し――――
ぱちり。
あっけない音と共に、彼は指先から冗長になった部分を切り離した。
窓から入る光に手をかざし、小指から薬指、中指、人差し指、親指と順繰りに動かす。整え終わった彼の瞳は特に感情を示すこともなく、ただただ純朴な輝きを持つ爪を映すのみだった。
眺め終えた彼は爪切りを右手に持ち替え、さきほどと同様に小指から。
持ち手の下部を中指と人差し指で、上部を親指で挟み込み、優しすぎずかつ粗すぎず、絶妙な力加減で親指を沈めていく。
てこの原理によって爪切りの刃先は狭まり、子供のようにあどけなく子供のように無垢でちいさな爪は、その無駄な部分を容赦なく切り落とされ――――いつまでもくどくど爪切りを描写しているわけにはいかないのでここで一旦割愛させてもらう。
いや、なに。別に嫌がらせのつもりで爪切りの様子を長々と描写していたわけではない。彼の様子があまりにも美しく幻想的だった――といっても爪を切っていただけなのだが――のでついつい実況が止められなかったのである。
彼は何をしても驚くほど映えるのだ。ただ『彼は爪を切った』とだけ叙述すればいいものを、彼の眩しさのあまり、本能的にこの様をあらんかぎりの言葉を連ねて表現しなければ、という衝動に駆られてしまったためである。ただそれのみであって他に理由などない。
ちらり、と彼がこちらを一瞥する。磨き上げられた玉石のように鮮やかなブラウンの瞳に魅せられ、体が固まってしまった。ひょっとしたらひょっとすると彼はメデューサなのかもしれない。そうだ。彼の容姿が息を飲んでしまうほど完璧なのも、きっとそのせいに違いない。でも彼にだったら石にされてしまっても悪くないな、と妄想は加速していく。
「ねぇ」
彼がぽつり、呟いた。
「爪って――――なんで伸びるんだろう」
彼の潤った唇からなんの前触れもなく発せられた言葉は、意外にも平凡で月並みな言葉だった。まあ、高尚な言葉を投げかけられてもそれはそれで困るのだが。
「んー……生理現象の一環だわ。 ほら、体は古いものをどんどん吐き出していくじゃない。いつもまでも古い爪のままだったらきっとボロボロになって使い物にならなくなるわ」
「だったら最初からボロボロにならない立派な爪を生やせばいいと思わない?」
「ボロボロにならない爪……そんなものあるかしら?」
「そうだな、例えば歯のように固いのなら摩耗しないし、伸びる必要もないんじゃないかなぁ」
「もしそんな頑固な爪が生えてきたら色んなものを傷つけてしまうわよ。今の爪の方が固すぎず分厚すぎずで、ちょうどいいじゃない」
なによりそんな無骨なものは彼の指には似合わない。
「ふーん」
パチリ、と。
左手の爪も切り終えトントンと爪のかけらをゴミ箱の中に捨て、彼は両手を掲げた。眠たげな眼でそれらをひとしきり眺めたあと、彼の両手は下方へ向かう。伸びた手は靴下の端を掴んだ。
ああ、今度は足の爪を切るらしい。彼のことだ、きっと白い生地の下に隠されたそれも素晴らしく美しい芸術品に違いない。
ところが私の予想は醜く裏切られることになる。
脱がされることによって徐々にあらわになるきめ細やかな肌。くるぶし、かかと、土踏まず。布がはだけるにつれて、黄金比を踏襲した全体像があるがままの姿になりゆき、純白の肌と透明な空間との境界線が鮮明になってゆく。そして最後につま先が顔を出した。
が、姿を現したつま先は、これまでの彼の神がかった美しさとは程遠いものだった。
彼の指はいびつな形をしていた。
親指は外側の関節部分が大きく曲がり、赤くなった付け根部分が丸く不格好に出っ張り、親指本体は内側に折りたたまれるような形で人差し指に押し付けられている。それにともなって爪の形が歪曲し、白く濁っていて彼の爪本来の滑らかさや輝き、透明性はあらかた失われてしまっていた。
そして親指とは反対側にある小指の爪もである。腐りかけのバナナのように黄ばんで分厚くなっているのに加え、まだら模様に黒々と変色していて、どこか生理的嫌悪を感じさせるものだった。一方、親指と小指に挟まれた三本の指がそれまでの彼のとおり、きれいにまっすぐとその体を伸ばし美しさを主張していた。しかしそれゆえに両端の歪みがより一層引き立てられてしまっている。
それは彼には到底ふさわしくない、まるで病に伏した老婆のように醜い、醜いものだった。
「どうしたの? そんな目を見開いて」
そんな私の様子に気が付いたのか、彼がちらりとこちらを見やった。
「あ……爪が……」
「ああ、これ?」
彼はなんとも思っていないような顔つきで親指を撫でる。
「ガイハンボシって言うんだって、こういう指のこと」
「そう……」
「それで? 爪がどうかしたの?」
「ああ、いや、せっかく綺麗な指なのに、もったいないな、と思って」
「そうかなぁ。ま、これも僕の一部だから。人間どこかへこみがあった方が面白いよ」
パチン。
そうかしら。という言葉は飲み込んだ。
言わなかったが私は思う。
人間は不完全だ。
人間なんてへこみどころか穴ぼこだらけで、そのことはいつも私を失望させ、がっかりさせた。
子供のころから今まで何度も何度も期待を裏切られ、私は完璧を追い求めることを諦めかけていた。
そんなへこみに辟易し、絶望していた中で偶然出会ったのが彼だったのだ。
完全無欠の美貌。理想の中の存在。
私にとって彼は完璧だったし、夢のように魅力的な人物だった。
幼いころからずっと追い求めていたもの、さがし続けていたものが本当にあったんだと喜んだ。
彼は私の唯一の希望だった。
だった、のに。
だから、がっかりした。
彼の爪を見て、本当にがっかりした。
幻想が打ち砕かれ、夢は醒めてしまった。
うだるような悲しさが、水に落としたインクのように内側からゆっくりと、じわりじわりとにじんでゆく。
残念だった。
彼には頭のてっぺんから足の爪の先まで完璧でいてもらいたかったのだけれど。