第72話 ノゾム
愛おしく思ってしまうのだ。愛おしく思いたいわけではないのに、そう思ってしまう。本能的なものなんだろう。予め人間の、それも女性が母親になる時に発動するようにインプットされていたような、そういうもの。抗うだけ無駄だし、むしろ逆らおうとすればするほど苦しくなっていくだけ。
子供を出産し終え、しばらくしてユメの体調が整い、幼いノゾムも落ち着いてきたところで病院から退院することとなった。
家に戻り、1人増えた日常を再び送る。
母親として子供の育児。オムツを変えたり、夜泣きの対応をしたり、赤ちゃん用の食事を用意したり……。それと夜遅く帰ってくる夫を支えたりする。
ユメはなりたくなかった人生を着々と歩んでいた。
女性らしさとは自分らしくあることだ。自分のために努力して、自分を愛してくれる人を見つけ一緒にいること。
それに比べて母親らしさとは誰かのために生きることだ。そこに自分らしさなんてものはない。家族のため、子供のため、身を粉にして働かなくてはならない。母親という職業、主婦としての労働に対価が支払われることはない。そこには無償の愛とかいうものが求められ、報われることなんてない。母親であり続ける限り、幸せにはなれない。
こんなの無理。耐えられない。
一度母親に相談したことがある。
「確かに大変かもだけど、そのうち幸せに思えるわ」
なんの参考にもならなかった。母はもう駄目だ。その時の母はまるで洗脳された人のように写った。母のことを怖いと思ったことはなかったが、この時は不気味に感じて怖かった。
息子は日を追うごとに大きくなっていく。今も息子のために身を粉にしていることに変わりはない。気付けば幼稚園に上がっていた息子。行事のこととかママ友のこととか色々とやることも増えた。産んだ時は、この子の人生は私が支配するんだなんて思っていたが、今じゃ支配されているのはどっちか分からない。息子は言うことを素直に聞いてくれないし、それでも息子のためにやらなきゃいけないことは多いし、それでも心の中にある息子を愛おしく思う気持ちは消えてくれない。この気持ちさえなければ、私は私らしく生きられるのだろうか?
例えそんなことを思っていても、翌日には結局また同じように生きている。
いつまでこんなことをしなきゃいけないんだろう。
そしてノゾムはいつの間にか小学校に行くことになった。そのまま中学校、高校へと上がっていった。
「母さん、僕さ、大学行ってこういうことしようと思ってるんだよね」
そう言って見せられた大学の資料。
「うん。いいんじゃない。お母さんは応援するわ」
既にノゾムは自分の未来について考え始めている。とくに反対することもない。どこでもいいから早く勝手にいなくなってくれ。
夫とは子供の成長は早いね、なんて話し合うこともあったが、そんなことは一度も思ったことはない。1日1日が長くて、辛くて、苦しくて、ずっとずっとずっと、早く終わらないかななんて思ってた。でも後数年。ノゾムが高校を卒業すれば、きっと大学では一人暮らしを始めるだろう。そしてそのまま社会人になり、家には帰ってこなくなる。ようやく子育てなんてことはしなくてよくなる。夫の仕事も相変わらずだし、その時は家で1人。ようやく、私の時間を持てる。
そんなことを思っていた。しかしある日、信じられないことが飛び込んできた。
ノゾムが死んだらしい。事故だった。信じられなかった。受け入れられなかった。だって朝はあんなに元気だったし、学校の後に塾に行くのめんどくさいとかそんなこと言ってたし。
だけど現実だった。抗えない、変わらない現実だった。ノゾムの遺体を見せられ、葬式をして、よく分からないまま日々は過ぎていった。
力が入らない。まるで自分が自分じゃないみたいだ。
全てが慌ただしく、台風のように過ぎ去っていった後、もう何も出来なくなっていた。
ノゾムはどこへ行ったの? どうして死んでしまったの? だってあの子はあんなにも元気だったのに。どうしてあの子が死ななきゃいけなかったの?
考えても答えはでてこない。もう何も考えられない。疲れた。
「母さん、お腹空いたんだけど。今日の夜なに?」
ノゾムの声が聞こえる。ノゾムはもういないはずなのに。
「僕さぁ、今度あれ欲しいんだよね。お金出してくんない?」
どこにもいないなら声が聞こえるはずもない。
だからきっと、ノゾムは生きてるんだ。どこかにいるんだ。そう、今はきっと隠れてるだけ。うん、だって声が聞こえるもの。
「そうだ。こんなところで寝てる場合じゃなかった。ご飯、作らないと……。あれ? ここはどこだ?」
気付いたら知らない場所にいた。家も街も何もない、本当に知らない場所。
バサバサバサ……。
大きな、何か羽ばたいている音が聞こえる。
「鳥……?」
太陽を背にしていてよく分からない。まるで影のように黒い。そしてその鳥は、太陽を背にしたまま、こちらに近付いてきた。
鳥は思ったより大きくて、そして黒くはなかった。
「初めまして、かな。私の名前はフギン。神の代理をしている。ユメ、でよかったかな? 突然なんだが頼みごとがある。私の巫女になってはくれないか?」
本当に突然だった。突然すぎてなにがなんだか分からない。だけど、心の中から声が聞こえてきた。
「巫女? いいね! 面白そうじゃん! せっかくだしやってみようよ、母さん!」
ノゾムがそう言うなら、せっかくだし、やってみようかしら。
「うん。いいよ。ボクはユメ。フギンだっけ。巫女っていうのがどういうのかは分からないけど、いいよ。面白そうだし」
そうしてユメの巫女としての日々が始まった。
ユラユラと揺れる炎に映し出されたユメの過去。まるで走馬灯のように、まるで幻想のように、その場にいたヒメとユメに見せた。
「はぁはぁはぁ……。これは……」
ユメの息が荒くなる。自分の過去を見て、今の自分に戸惑う。
「……あなたも、苦しんでいたのね」
「苦しんでいた? 違う! ボクは、ぐぁぁ……私は……」
ユメが頭を抱える。頭痛が治まらない。現実を直視させられ、幻の中にいる自分との折り合いが付かなくなってしまった。
今までの人生を忘れていたのか、それとも思い出さなかっただけか、あるいは目を反らし続けていたのか。とにかく今の自分を説得できない。不都合な真実。
しかもそれを、ヒメにも知られてしまった。
ユメは必死になって剣を抜こうとするが、変わらずヒメに突き刺さったまま抜くことが出来ない。
「クソッ! どうして抜けない!」
「抜かせるわけないでしょ! あなたはここで、自分に向き合うのよ!」
「やめろ! 見せるなそんなもの!」
「いいのよ……。もう、そんな……自分に嘘つかなくて、自分から逃げなくて」
「うるさい! 分かったようなことを言うな! そんな、分かりやすい言葉なんかにするな! ボクの! 私の! 心を! 理解しようとするな!」
ユメの叫びが城内に響く。彼女の一人称からも分かるように、彼女の心が混乱の中で分離し始めている。
真実を見つめてしまったことで、今までユメが発していた言葉が、意識が、ユメのものなのか、それともユメの中にあるノゾムのものなのか、分からなくなってしまったのだ。
苦しむユメに、剣を伝ってヒメの体から出ている炎が延びる。さらなる苦しみがユメを襲う。




