第28話 生と死の狭間
「私に幸福を問うあなたは幸福なのでしょうか?」
「いや、それはどうだろう」
「やはり物乞いに対話を申し込むなどというのは苦痛でしょうね。あなたは先程まで私を見ていなかった。その方が都合が良かったからだ」
「そうだ。しかしそれは神の創造した世界の真ではない。だから見ることにしたのだ」
タレスと物乞いの対話は続く。誰にだって見たくないものがあり、その方が世界は美しく見える。しかし神は必ずしも世界の全てを美しく創造したわけではない。残酷で醜く、穢れたものも世界の姿であるのだ。
そしてそれを見ることは容易ではない。人は見たいものを見て、見たくないものを見ないからだ。タレスは自らにとって都合の悪いものも見ようと決意し、実行した。
その瞬間、タレスの見ていた世界は音を立てて崩れ始めた。
ガラスが砕け散るようにして世界は崩れ去り、タレスはその外側を知ることになった。そこは白く、広い。足元には砂のような灰が積もっており、タレスはその上に立っている。どこからか太陽の光が差し込み、どこまでも明るく照らしている。
そしてそこにムギンはいた。
「驚いたな。まさか自分から幻を抜け出すだなんて。気持ちよくなかったかい?」
「いえ、良い夢でした。だから目覚めることにしたのです」
ムギンは驚く。彼がタレスにとって心地良くなるように作り出した幻。人であれば、快楽と欲望に敗け、ずっとそこで生きていたいと願う。人生では味わえないほどの、幸福なもう一つの人生。
しかしタレスは、自らの哲学とそれを実行し得る精神によって、ムギンの幻を自らの力によって打ち砕いたのであった。
「なるほど、自己批判か。君がガルダの巫女の側にいた理由が分かった気がするよ。しかし君のような人間は初めてだ。せっかくだし、何か褒美でもあげようか? 望みはなんだい?」
「はっはっはっ! 神鳥様は面白い冗談を仰いますな。つい今しがた、あなたの幻から目覚めたばかりだというのに、私に欲しいものがあるなどと言われるとは! しかしせっかくです。神鳥とこうして話すことが出来る機会など、また訪れるかも分かりません。1つだけ、望みがございます」
「へぇ、聞きたいな」
「真実が知りたいのです。神が創造なされた、この世界の真理を。神鳥であるあなたであれば、それを知っているのではないですか? もしそれを知ることが出来たのなら、もはや未練はございません」
「ふむ、どうだろう。仮に僕が君の望む答えを知っていたとして、君は僕から聞くだけで良いのかい?」
「出来れば神にも聞いてみたいのですが、そもそも私は既に答えを私の中に持っています。言うなればこれは、答え合わせのようなものなのです」
「フフッ、なるほどね」
「私は見ての通り長く生きました。そしてずっと考えていたのです。この世界とは何か。私とは何か。何故生きるのか。私が出した答えを持って神に聞きたい。「これは正しいか」と」
タレスは既に自らの答えを持っている。しかしそれが本当に正しいのかはタレスには分からない。唯一分かるとすれば、それは世界の理と真実を知っている者、つまりは神様だけだろう。だからタレスは、神様に会って答え合わせをしたい。試験の問題を解いた後、それが本当に正しいのか、間違っていたのならどこで間違ったのか。ただただ、知りたい。それがタレスの願いであった。
ムギンはタレスらしいと思う。そして問いを1つ用意していた。そんなことを知ってどうするのか、と。しかし神鳥ムギンは、その純真なる心の中で、彼に問うことをやめた。分かりきっているからだ。どうもしない。ただ知りたい。一度持ってしまった疑問はどこまでも膨らむ。たったそれだけなのだ。
「そうか、なら望み通りにしよう。これが僕から賢者である君に対しての礼儀というものだ。しかし、神にお会いするということは」
「もうこの世界には留まれないのでしょう? 心配には及びません。初めからそのつもりでございました」
「それは......無粋なことを聞いてしまったね。だけどいいのかい? こんな嘘つきに任せてしまって。大事なことなんだろう?」
「はて、嘘つき? 私の目には、誠実な黒い鳥が映っておりますが」
「フフフ、ハーッハッハッ! そうか! いいよ! 今度こそ僕の敗けだ! さぁ、賢者タレス、君の願いを叶えよう!」
そう言うと、ムギンは翼を大きく広げた。その瞬間、辺りには風が吹き、その風は遥かな天へと昇っていく。
「おぉ、これが......」
タレスは徐々に身体の力が抜けていくのを感じていた。この風は神のもとへと続く風。ここから先は、肉体の必要はなく、魂のみが通ることを許される。つまりは死だ。肉体から解き放たれた魂を、神鳥は神のもとへと運んでくれる。真実はすぐそこまで来ている。タレスは静かに瞼を閉じ、そっと身体の力を抜いた。
タレスの肉体が倒れる。
「タレス。君の最後は見届けた。さぁ、行こう」
ムギンはタレスの魂を抱き、風に乗って天高く舞い上がった。
「あれ......」
気がつくとそこは、何もない、黒い空間だった。ヒメは突然のことに戸惑う。さっきまであんなに楽しく過ごしていたのに。
「ここはどこ? 皆は? ラズ?! ナビ?! ブライ?! どこにいるの!?」
皆いない。ヒメだけがただ1人、ここに突っ立っていた。辺りを見渡しても、周囲を歩き回っても、どこまでも続く漆黒の世界。始まりもなく、終わりもなく、前に歩いても進んでいるのかさえ分からない。
「皆はいないわ。ここにいるのは、あなたと私だけ」
ヒメの前に現れた、1人の女性。白い肌で銀髪、そしてボロボロになったドレス。
「ミオ......! どうしてあなたがここにいるの!?」
「簡単よ。ここは現実と夢の狭間。生と死の境界線。私達は、眠ったまま見ている世界だからよ」
「もしかして私、まだ夢の中にいるってこと?」
「まだ、ってことは、さっきまでのも夢だって分かってんだ」
ミオは知っていた。ヒメが幸せに浸っていたことを。失ったものを取り戻して、皆がいる。恐怖などなく、苦しみもなく、迷いもない。そんな世界に、ヒメはいた。
「当たり前じゃない。あんなに幸せなのが、現実なわけないでしょ。現実は確か、あのムギンって鳥と戦っていて......」
「戦っているのはあなたではなくて、あなた以外の皆。ヒメは見ていただけでしょ?」
「......ど、どうしたの? どうしてそんなに酷いこと言うの? ミオはもっと優しかったじゃない」
「嘘をつくことが優しいだなんて思わないわ。それにね、私はヒメに、早く楽になってほしいの。だってそうでしょ? 現実って、辛くて、苦しくて、生きているのが、嫌になるぐらい。だから変わってあげる。私がヒメの代わりに生きてあげる」
「なに言ってるの? そんなこと出来るわけないじゃない!」
「忘れちゃったの? ここは生と死の境界線。命の交換だってわけないわ」
「命の、交換? ミオって、死んだのよね?」
「えぇ、そうよ。私は死んだ。あなたの主に殺されたの。そしてあなたは生きている。あの鳥から貰った不死の力で、永遠に死なない体を手に入れている。ねぇ、ヒメ。死ぬのって、凄く痛いの。凄く苦しいの。だからちょうだい。その命と不死の体、私にちょうだい」
ミオはそう言いながら、ヒメに向かってゆっくりと近づいてくる。まるで別人のようなミオに、ヒメは何もすることが出来なかった。




