十三
大きな湾のただ中。湾の右手にそびえる山々の尾根から、太陽が最後の光を水面に投げかける。東の空からは早くも星々が上ってきていた。そして、次第に陽の光は山の向こう側へと消えてゆく。月のない夜、海は不気味に真っ黒であった。
彼は懸命に櫓を操り、舟を湾の外へ向かって進める。海に波はなく、あたりは静まり返り、ただこびとの漕ぐ櫓が立てる水音だけが響いていた。
王妃は天を仰いだ。天球いっぱいに星々が輝く。
そのただ中を、流れ星がきらめいた。
「私が小さなころから見守ってきて下さった星々。今そなたたちは私の死を告げているのです。」
初めて言葉を交わしたあの日から、彼の心を捉え、耳を奪ってきた優しい声が、今決然たる凛とした響きを持って彼の鼓膜を打った。
王妃は舟を漕ぐ彼に向き直った。
「そなたたちが私の死を告げるのならば、私はそれを甘んじて受け入れましょう。」
王妃は、今宵彼が自分を連れ出した時から、全てを悟っていた。
彼は不意に漕ぐのをやめると、懐から赤い紐を取りだした。初めて契りを結んだあの日、王妃自ら彼に差し出した、あの胸紐だった。
彼は王妃に歩み寄り、その首に紐をかけた。
彼の眼からとめどなく涙がこぼれ落ちた。王妃もまた、とめどなく涙を流していた。
「私はあなたを愛していた……。」
流れ落ちる熱い涙とは裏腹に、ことさら静かな声で彼は言った。
「私はあなたを愛していた……。」
もう一度、静かな声で繰り返す。しばしの沈黙ののち、突然、彼は激しく熱いまなざしで、王妃の瞳をまっすぐに見据えた。
「あなたも私を愛していると思った……。」
「愛していました……。」
王妃が悲しみに満ちた声で答える。
「分かっておりました……。」
彼は顔を伏せた。そして再び顔を上げる。
「ですが、全ては遅すぎました。あなたは王の帰還を知るや私を捨てたのです。」
わずかな波の音だけが聴こえる。
「私は蔑まれて生きてきました。あなたに出会って、ようやく人として扱ってもらえたのです。」
王妃は彼の眼を見つめたまま答えない。
「だが、あなたは私を棄てた。」
うつむいた彼の眼から涙がこぼれ落ち、王妃のローブを濡らす。
「私は絶望しました。今や、あなたの死だけが、私に安らぎを与えてくれるのです。」
王妃もまた、下を向いてとめどなく泣いた。
彼が両手を顔の前に挙げる。
「この手。あなたを愛し、あなたを愛撫したこの手で私はあなたに死を下す。私は永遠に己を呪い続けるでしょう。」
彼の声が震えた。王妃が決然とした声で答える。
「赦しは請いません。ですが」
王妃は優しい声で続ける。
「私は私の所業を悔いています。どうか、どうか、私の死があなたを苦しめませぬよう……。」
言い終わると、王妃はゆっくりと両の眼を閉じた。彼の両の手に力がこもり、少しずつ、確実に王妃の生気を奪ってゆく。
王妃はほほ笑んだ。彼は王妃の唇に深く口づけをする。
こと切れた王妃を、彼は静かに見つめていた。物言わぬ彼女を抱きあげる。
彼の胸に、あらゆる想い出が蘇った。初めて言葉を交わしたあの日、彼女の優しい笑い声、生き生きとした話しぶり、深く青い瞳、初めて触れた頬、口づけ、愛撫、恍惚。共に過ごしたあらゆる時間が蘇った。
彼はもう一度、その閉じられた赤い唇に口づけし、柔らかい頬を愛撫した。
暗い海の中に、ゆっくりと王妃の身体が沈んでゆく。波間に消えてゆく王妃に、彼は最後の視線を投げかける。
(ああ、俺は……。)
こびとは思った。
(俺はすべてを失ってしまった……。)
彼女への想いに、今にも彼の胸は張り裂けそうだった。
(この胸が張り裂けたら、真っ赤な血が噴き出すだろう……。噴き出した血は、俺がどこにいても、彼女の亡骸の元へ流れてゆくだろう……。)
彼は天を仰いだ。
喉も潰れんばかりの叫び声が水面に響き渡った。波に乗って、小舟は静かに湾の外へと流れ出す。
王妃とこびとの姿が隠れてからひと月ほど経ったある日、王国の北の浜に、誰も乗っていない小舟が打ち上げられた。
(完)