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死前硬直

 死前硬直


挿絵(By みてみん)


 冷たい。


 かじかんだ私の手は、柔らかい粘土を覆っていた。


 冷たくて冷たくてたまらないのに、身体は内側から熱がこみ上げてきて、額には汗が滲んでいる。


 急がなくては。急がなくては。


 粘土が、私の体温で乾いてしまう。形にならないうちに、どうしようもないくらい歪んだ姿のまま固まって、元に戻らなくなる。


 そんな姿は、粘土にとって他に類を見ないくらい、屈辱だろう。


 もちろん、私にとっても。


 だから急がなくては。


 そんな作品は見たくない。誰にも見せたくない。醜態を晒している暇などない。


 完璧以外、私は望まない。



 たとえその思想が、人間には不可能な領域にあるものだとしても――。


  ● ● ●


 古くなった木造校舎の、黄ばんだ窓ガラスが大きく音を立てて震えた。


 外を吹き荒れる木枯らしが、ぶつかっては行き場を失い、空中を漂う力を失って消えていった。


 廊下の窓越しに、広いグラウンドが見渡せる。廊下と並行に植えられた、監獄の鉄格子の如く立ち並ぶ銀杏いちょうの木々の間から、サッカー部の練習風景が垣間見える。


 犬みたいに、夢中でボールを蹴り転がす、大きな子供たち。


 賑やかで、楽しそうで、何より清々しい。


 私の大嫌いな風景だ。


 くだらない玉遊びから目を逸らし、私は廊下を進んだ。


 外の寒さに比べれば、暖房器具の全くない校舎の中も、それなりに暖かい。私は首に巻いていたマフラーをとり、鞄に押し込んだ。厚手のコートも脱いで腕にかけた。少なくとも今は、不要なものばかりだ。


 狭い木張りの廊下が、踏み抜く度に悲鳴を上げた。


「年寄りはもっといたわるものだ」と、訴えかけられている気がした。


 今にも倒れそうな、古い校舎だ。鉄筋の新しい学舎が隣に建っているため、現在は使われていない。私が卒業する頃には、取り壊されるらしい。


 つまり、その日が訪れるまで、この校舎は私にとって貸切の別荘みたいなものだ。なんとも快適で、気分が良かった。



 一人だったら、もっと良かったのに。


 目的の教室へ足を踏み入れた。


 美術部の部室。


 ひとたび迷い込めば、絵の具の油と粘土の混ざり合った独特な芳香が鼻腔びこうをくすぐり、まるで不思議の世界へと迷い込んだ感覚に陥る。


 きっと、アリスが不思議の国へ迷い込んだときも、今の私と同じ気分を、存分に味わったに違いない。


 コチコチ鳴る、懐中時計の音と共に、ウサギに誘われ、癒しと非凡と快楽の世界へ。


 なんて羨ましい。私がいる世界とは、大違いだ。


「やあ、小林さん。今日はいつもより、遅い到着だね」


 ガリガリ、ガリガリ。


 私のウサギは、石を彫る。


 端正な顔立ちの男子生徒が、木製の丸椅子に腰掛け、自身の背丈ほどもある大きな石膏を、ひたすらに彫刻刀で削っていた。


 手を休めもせずに、滝山は落ち着いた声で語りかけてくる。爽やかで社交的な挨拶は、他者を見下す皮肉の塊だ。


「今日は掃除当番だったの。けれど、私がどれだけ早く来たって、あなたはいつも、先に来ているもの。なんら不都合はないでしょう? 滝山くん」


 私は無表情に、嫌味を返した。


 滝山ウサギは手を止める。そして私を見つめて、憎らしいほど爽やかに笑った。


 ● ● ●


 私は小林こばやし沙耶香さやか、十六歳、高一。


 ウサギの陣取る、美術部の不思議な世界に迷い込んだ、何の魅力もないアリス。


 中学の頃から、彫刻造りが好きだった。何の変哲も無い無機質な塊をこねたり削ったりして、自分の求める美しい姿に変えていく。その過程に、ずっと快感を抱いていた。


 私の通っていた中学には美術部がなかったから、高校に入って部の存在を知ったとき、チャンスだと思った。静かな空間で、誰にも邪魔されずに作品が作れると喜んだ。


 顧問に入部届を提出し、この旧校舎へ初めて案内してもらったのは、桜の舞い散る季節。


 その時から、すでにウサギは教室に居た。まるで、私が穴に落ちる瞬間を待っていたかのように。


 ウサギの名前は、滝山たきやま恐平きょうへい。一つ上の先輩だ。


 美術部員は、こいつ一人。私が入ったから、今は二人。


 眩しいほど光沢のある、さらさらの黒髪。見ていると吸い込まれそうな真っ黒い瞳。どこからどう見ても日本人の特徴を有しているのに、その雰囲気と第一印象は、西洋の豪族を思わせた。その爽やかな笑顔が、錯覚を引き起こすのだろうか。


 滝山は美術と名の付く分野のものなら、すべてこなした。水彩、油絵、水墨、版画、切り絵、粘土細工。自前のパソコンを使ってグラフィック・デザインとやらまでやってのけ、私をこれ以上ないと言わんばかりに驚かせた。


 まさに完璧。他に言葉が思いつかないくらいだった。


 私が彫刻をすると言った時から、滝山は彫刻しか作らなくなった。まるで私の創作活動に合わせるために、全ての技術を極めて待っていたのか、とさえ思えた。その訳の分からない行動に、私は苛立ちを覚えた。馬鹿にしているのか、と。


 滝山は、先輩だからと敬語を使われることを嫌った。だから私は、滝山にタメ口をきいている。そのほうが、私も楽だ。


 私は知っているから。私はプライドが高く、人に負い目を感じる言動を最も嫌う性格だと。


 私は一心不乱で彫刻を作った。


 まずは、木。三十センチ四方の立方体の木を削り、人の顔を浮かび上がらせた。


 その顔に、モデルはいない。私が頭の中で思い浮かべた、私が最も美しいと思う人間の想像図を完璧に彫り上げて見せた。


 完成したときの私の優越感は、凄まじかった。幼稚園児が東大に合格するような、果てしなく有り得ない偉業に歓喜した。


 だが、滝山という男は、私が費やした半分の時間で、私の描いた最も美しい人間像を、私以上に完璧に作って見せた。空想と現実に若干なりとも差があるのと同じで、私の作品の人物は、鼻の高さや目の位置、唇の厚みなどが微妙に狂っていることに、冷静になればなるほど気付かされていった。


 なのに、滝山の作品は、私のイメージした理想の人間そのものだった。まるで、私の頭の中から、手掴みで相応の人物を連れ出してきたのでは、と思えるほどの、完成度。


 私の高尚なプライドを、滝山はズタズタに切り裂いた。他の芸術は到底足元に及ばなかろうとも、彫刻だけは、絶対、誰にも負けないと確信していたのに。目の前の、完璧男にも。


 私は震えた。怒りに、嫉妬に、絶望に、恥に。


 屈辱の出来事から半年。私は来る日も来る日も部室を訪れて、作品を作り続けた。木だけにとどまらず、粘土、石、発泡スチロール。削れるものは、全て削った。でも、どれを作っても滝山には敵わなかった。


 私が奮闘している間、滝山は必ず、この教室にいた。平日も、休日も、夏休みも。


 なぜか必ず、私が来るより先に教室にきて、私が校門をくぐって外に出るまで、ずっといた。まるで、この教室が自分の邸宅だと言わんばかりに。


 まさか、本当にあの教室に住んでいるのだろうかと思った時もあった。休み時間に、こっそり校舎の外から教室を覗いて見たが、その時はいなかった。


 ● ● ●


 さらに時が流れて、冬になった。


 今から約一週間ほど前。滝山が突然、提案をした。


「小林さん。僕と、彫像作りの勝負をしないかい?」

「急に、何を言い出すの?」


 私は鼻で笑った。勝負をしたところで、どうせ今の私が、滝山に勝てるはずがない。


 余裕の滝山は、ほんの遊び半分な気持ちで言い出したのだろう。


 ふざけるな。私は彫刻を〝遊戯〟だなんて、思った時は一度もない。


「あなたのお遊びに付き合っている暇はないの。作りたければ、一人で作ればいいでしょう」


 私は忙しいのだから。滝山の、馬鹿げた話を聞いている暇なんてない。腕を磨き、確実にこいつに勝てると確信が持てるまで、作品を比べるつもりもない。


「まあ、そう突っねないで。芸術家は孤高の存在かもしれないけれど、時には誰かと競い合って、互いに刺激を受けて新しい作品を作っていくものだ。普段と違う感覚で作業をすれば、突然、いい閃きが浮かぶ場合もある。決して、無駄ではないと思うよ?」


 滝山は笑いながら、せっせと何かを掘っていた。どうやら固めた粘土を削って、加工しているみたいだった。


 自分から話を切り出しておいて、それに集中せずに別の作業を始めるなんて、ずいぶん余裕があるらしい。舐められたものだ。


「いいわよ、受けて立つわ」


 やるからには、本気を出す。私を誘った浅はかな行動を、後悔させてやる。


「ありがとう。せっかくだから、本格的なものが作りたくないかい? ――石を使って、僕たち自身を作ろうじゃないか」

「私たち自身?」

「そう、等身大の、自分の像を作るんだ。より完璧な像を作れたほうが勝ち。分かりやすくて、いいだろう?」

「ふざけないで、いい加減にしてよ!」


 カッとなり、私は勢い任せに壁を拳で叩いていた。怒りで血が沸き、血圧が一気に上がる感覚が分かった。


 滝山は、なぜ私が腹を立てているか、気付いた素振りはない。その飄々とした態度が、更にはらわたを煮え繰り返させる。


「あなたは、どれだけ私を馬鹿にすれば気が済むの? あなたと私が、それぞれ自分の像を作る。それが何を意味するか、分かって言っているの?」


「何を意味するんだい?」


 きょとんとした顔。余計に腹が立つ。こんな屈辱的な話を、全て私にさせる気か。


「だから、元が違うのに、完成した像の美しさなんて、比べ物にならないのよ。あなたみたいに均整の整った人間と、私みたいな地味で何の特徴もない、劣った人間の像を競いあわせたって、意味がないでしょう!? この世界は、美しいものが勝つのよ。勝負するまでもなく、私の敗退は決定しているわ」


 今まで溜め込んでいた、たくさんの不満や劣等感、あらゆるものを、一気に吐き出した。


「あなたは、私から全ての自信を奪おうとしているの? 私が美術部で作品を作ることに不満でもあるのかしら、それで私を追い出したがっている、そうとしか思えないわ」


 思いの丈を、全てぶちまけた。正直、すっきりはしない。自分の汚点を自分で認め、自分を汚しただけの言動に、余計腹が立ち、悲しくなった。


「意外だな、君がそんな考えを持っているなんて」


 滝山の口調は、本当に意外そうに聞こえた。不意を突かれ、私は何も言い返せず、固まってしまった。


「君は自尊心が強く、全てにおいて絶対の自信を持っているのだと思っていた。君が自分の容姿に劣等感を抱いているのだとしたら、大きな間違いだよ」

「何が言いたいの」


「例えるならば、君は俗世間を離れ、高みの丘に根を張る、一輪の野菊みたいな存在だ。タフで気高く、醜きもの、小さきものは決して寄せ付けない。だから自分の存在する場所がどこなのか分からず、一人怯えては迷いを溜め込んでいき、それが重石となって君の上にのしかかって、蕾を潰そうとする。だけど、その迷いが断ち切れたとき、蕾は突如として一気に花を開く。そんな姿を思い浮かべてごらん。とても美しいだろう? 君はまだ、蕾なんだ。他者の目を恐れるあまり、肝心な部分を覆い隠してしまっているだけなんだよ」


「私は、美しい……」

「他の多くに惑わされる美は、真の美にあらず。君はその真実を知っている。だから、孤高を貫いてきた。この世界に、君が信じる以上の美しさがあるとは、僕は思わない。迷いを断ち切ることができたなら、君は世界で最も気高く、美しい存在になれる。それをモチーフに像を作るんだ、敵うものがあるはずがない」


「そう、なのかしら」


 気がつけば、私は滝山との勝負を受けて立っていた。


 ● ● ●


『滝山と石像作りで勝負することになった。あいつは絶対、私を馬鹿にしている。滝山だけには負けられない……』


 入部してからの私は、来るたびに日誌の記入を怠らない。ほとんどが、その日起こった出来事に関する愚痴なのだけれども、今日は意気込みの垣間見える、前向きな文章を綴れたと思う。


 この日誌が誰かに読まれている可能性は、大いにあった。ずっと部室に置いてあるわけだから、私よりもここにいる頻度の高い滝山が盗み見できる確率はほぼ一〇〇%だし、顧問の逆瀬川がたまに見回りに来て、その時に見つけて読んでいてもおかしくはない。もちろん、私の個人日記ではなく、部活の日誌なのだから、誰が読んでも文句は言えないのだけれど。


 だから逆に、こう言った敵意を垣間見せる文章を書いておけば、あいつを威嚇できると考えた。


 滝山が一人こっそり、この日記を見る。私の意気込みと気合が伝われば、何かしら、彼の作品作りに影響を与えられるのではないだろうか。


 一通り書き終え、ふぅと一息。顔を上げると、教室の窓に反射した私の顔が映った。さっきまで頭の中に広がっていた妄想的な充実感は、そこに映る別の世界の私によって打ち消され、沈殿する砂の如く、心の底へと沈んでしまった。 


 鏡を見るたびに思う、些細な悩み。


 私はブスだ。地味で、醜く、暗い。


 現実世界において、長所が何一つない。


 髪を染めたこともなければ、髪型も昔からずっと同じの、お下げ髪。ピアスを開けた事もない。制服は買った当時のまま、スカートの丈は規律通りの長さ。個性的な着こなしも、した経験はない。化粧もしないし、万年黒縁の分厚い眼鏡。周囲から人気のある男の子と話をするなんて夢のまた夢、女の友達すら、片手で数えられるほどしかいない。


 日々、コツコツと学校から課せられた課題を、合格ライン程度にこなし、成績はいつも中の中。好きな科目も嫌いな科目も存在しない。美術だって、彫刻が好きなだけで、授業そのものを頑張る気は皆無だった。


 私は、平面的な女だ。


 今風の女子高生たちとすれ違うたびに、自分が気後れしていることがはっきりと分かる。自分に負い目を感じる。誰かに後ろ指をさされている気がして、日々が緊張の連続だ。


 強い圧迫感が、とても苦しい。だが、そちらの世界へいまさら足を踏み入れるなんて、気が引ける。


 もし急に私の外見が変わったら、それを見た誰かに、「あいつは本当は羨ましがっていたんだ」「今までの自分を恥ずかしいと認識していたんだ」と思われるかもしれない。その憶測に、とてつもない恐怖を感じていた。


 変化を受け入れる行為は、自分自身を否定することになる。今まで私が培ってきたプライドが、全て崩れていく気がする。だからどうしても、一線を踏み越える勇気がもてなかった。


 滝山は言った。高みにいるからこそ、下界の数多あまたの薄い美に惑わされるのだと。


 自信を持て。君は美しい。


 彼が言ったからなのか、それとも、心のどこかで私も思っていたのか。


 素直に、思い切ってみようかと思えた。


 以来、来る日も来る日も鏡を覗き込み、私という存在を脳のフィルムに焼き付け続けた。


 美化なんてしてはいけない。そのまま、そのままの姿が美しいのだと、私は私に言い聞かせた。


 重複学習、とでも呼ぶのだろうか。次第に、私は私がとても美しい存在なのだと思い始めた。


 鏡を見るたびに、うっとりする。私は世界で一番美しい。きっとこの世のどこかで、意地悪な継母が魔法の鏡に映った私の姿を見て、怒り狂っているのではと、想像してしまうくらい。


 白雪姫だって、こうも美しくはいられなかっただろう。


 さしずめ、私は原石姫。


 宝石は磨き続けられる度に、誰かの手に触れられ、穢れていく。たとえ見た目が最高に輝いていたって、その中は犯された醜い汚物の塊。


 私は違う、誰にも触れられず、一人孤高の世界で憂いてきた、全てにおいて美を超越した存在。


 その気持ちを胸いっぱいに広げ、新たな世界を空想しながら、私は美しい自分の姿を石に投影するべく、彫刻を彫り始めた。


 ● ● ●


 時が流れた。寒くて長い、眠りの季節が終わりを告げ、次第に春の目覚めが近づいていた。


 黙々と石を彫る先客、滝山を尻目に、私は自分の席に腰を据えた。側にある、画材や美術用品の詰まった棚から、金槌と石削り用の大きな彫刻刀を取り出す。側には、顧問に頼んで注文してもらった、大きな石膏の塊がそびえ立っている。等身大の私の像を彫るために、充分な質量だ。


 石には、白い布が掛けられている。それを取り除くと、中から出てきた石はほとんど削られ、人の形を形成していた。知識のない人間が見れば、もう完成品ととれそうなくらい、綺麗に仕上がっている。


 細かい部分を修正しようと、石に彫刻刀を突きつける。だが、その手は、それ以上動かない。この体勢をとるたびに、どうしても頭が真っ白になり、何もできなくなる。


 これ以上、作品を修正できない。本能的に、体が拒んでいた。


 だって、こんなの、私じゃないもの。


 頭の中に、しっかりインプットした鏡の向こうの私。そのままに作ったはずなのに、目の前の石の私は、明らかにデッサンが違っている。


 私はいつしか、気付いてしまった。いくら私が美しくても、その姿を具現化するだけの腕が、私には、ない。


 気付いたときから、彫刻を削る行為が無性に億劫になっていた。


 きっと、私が自分の技量の限界を悟りきってしまったせいだ。美しい私をかたどった石像が美しくなければ、私自身も美しくないと認識されてしまう。大きな矛盾が生まれてしまう。


 私が美しくないから?


 私に腕がないから?


 どちらにしても、恐ろしい。完璧主義の私は、どちらを肯定しても、きっと耐えられない。


 だが、こうして悩んでいる間も、時は止まってはくれない。


「――さて」


 小刻みに手を震わせる私の向こうで、滝山が、さり気なく立ち上がった。さっきまで彫っていた石像を白い布で包み、教室の端へゆっくり滑らせた。


「僕の作品は完成した。しばらくは、部室に顔を出さないようにするよ。君も集中したいだろうしね? 完成したら、連絡をくれるといい。楽しみにしているよ」


 素早く帰り支度を整えると、滝山はまっすぐ部屋を後にした。


 遠くなる、軋む廊下に響く足音。妖艶な笑みを投げかける滝山ウサギに取り残され、出口を見つけられないアリスは、閑散とした部屋で孤独に枯渇していった。


 震える手を下ろし、彫刻道具を机に置く。立ち上がり、石像の首を掴んだ。


 ボキッ。


 指先に力をこめると、それは容易く、へし折れた。細い石の首は脆く、ワイングラス並に儚かった。その姿が空しくて、切なくて、どうしようもなく、たまらない。


「うわあああああああっ!!」


 私はお腹の底から声を張り上げた。同時に、石を強く抱え込み、横に振り倒す。石像は四等分ほどの大きさに砕け、大きな石の塊や小さな石の塊に分離し、辺りに散らばった。


「何よ、何なのよ、この野郎、このっ、このっ!!」


 壊れた像を、さらに踏みつける。罅の入った石が、さらに細かく砕け、白い砂煙を立てた。原型なんて、既に留めちゃいない。


「ぎゃあああああああああ!!」


 発狂と言うのだろうか、私が今、しているのは。


 身体は、暴れたくて暴れたくてどうしようもない。喉は叫びたくて叫びたくて仕方がない。なのに、頭はすっきり冷めて落ち着いていた。そんな頭で、叫び喘ぐ自分の状態を客観的に見据えるたびに、滑稽で、恥ずかしく、だけれど気持ちよかった。


「はあっ、はあっ、はあっ……」


 衝動が収まったころには、私の分身は見る影もなかった。部屋一面、白い石原。頭は既に平常心をとり戻し、掃除をしなくちゃと考えているが、身体は動いてくれない。


 私は一体、どうすればいいの?


 今まで、世界一の彫刻を作るために生きてきた私が、その夢を完全に失った。この世に存在する、美の基準レベルの高さに、ひれ伏すしかなかった。


 滝山の顔が脳裏に浮かぶ。整った完璧なあの顔が、私を嘲笑う。肩を竦め、残念だと表情を消す。


「君には失望したよ」「所詮はその程度が限界だったわけだ」「奢り高ぶるのも大概にしなよ」

「己の技量を量り違える好意は、大罪に他ならない」


 とんでもない屈辱だ。実際に彼が言ったわけではないけれど、その声が、その台詞を、余すところなくリアルに再生した。私の頭の中にある深層心理が、事実を告げていた。滝山という男の姿を、声を、感情を借りて。


 暗闇の中、私は頭を抱えてしゃがみこんでいる。それを取り囲むたくさんの滝山恐平。軽く見渡すだけでも五人以上。


 そいつらが口々に言うわけだ。同じ台詞を、異なる言い回しで。散々聞き飽きた、私への嘲りの言葉を、何の躊躇もなく、残酷さを極めるかの如く、坦々と、坦々と。


 何とかならないの? 今回だけでいい、これを最後にしたっていい。あいつに勝つ方法、あいつの嘲笑を見ないで済む方法、この勝負を切り抜けられる方法は……?


 煮えたぎった頭の中で、迷いと雑念という名の食材が、お玉でかき混ぜられるみたいに渦を巻いて回転する。


 気持ち悪い。あまりの激しい嘔吐感に、口を押さえたほどだ。


 蹲っていると、足元に日誌が落ちてきた。無意識に拾い上げ、パラパラと中身を流し読む。


 私の書いた愚痴や報告で、ほとんど埋まっていた。


 だが、一番最後のページに、見覚えのない字で、知らない文章が綴られていた。


『一つだけ、君が誰にも負けない素晴らしい芸術作品を作り上げる方法がある。君自身が、真の芸術として昇華するのだ。もし君が望むなら、目的を果たしてあげよう。心の準備ができたなら、この文章の下に、了承の証として、直筆のサインを』


 随分と達筆な文字で書かれていた。


 瞬時に、誰が書いたものかは予想がついた。


 滝山だ。他に、誰もいない。


 文章までもが、腹の立つ言い回しだった。まるで、最初から勝負が決まりきっていると。私が負けると見越して、あえて敵に塩を贈る言葉を上げ連ねてくるなんて。


 しかも、サインを書けば、私は誰にも負けない芸術作品を作り上げられる? この世で、最上の人間になれる?


 そんな美味しい話が、あるわけがない。そもそも、たかが高校生が、どんな力で人の評価を上げられるというのか。


 くだらないと思った。


 だが、もし、この日誌に書かれた話に乗ってみて、何も起こらなかったら。


 滝山を口だけの能無しだと嘲笑える。奴の自信を打ち砕き、私のプライドを少しでも守れる。


 今以上に、状況が悪くなりはしないだろう。


 私は文章の下に、名前を書き込んだ。


 途端、書いた名前が急に浮き上がり、乾燥した土くれみたいになった。風もないのに、サラサラと砂粒となって、吹き飛んで消えた。


 直後に、同じ場所に『契約受理』と、意味の分からない文字が浮かんだ。


 何が起こったか、よく分からなかった。私は気味が悪くなり、日誌も教室もそのままにして、家に逃げ帰った。


 ● ● ●


 翌日。目覚ましの音で覚醒し、ゆっくりと上半身を布団から起こすとき、妙な気だるさを感じた。


 腕が、足が、頭が重い。少し身体を動かすだけで強烈な眩暈に襲われ、倒れる。朝は強いほうではなく、よく二度寝したり、起きて良くストレッチをし、身体に血液を回さないと起きられないときも度々あるが、今日ほど酷い時はなかった。頭に血液が回ってくると、一瞬、じんと脳が麻痺した感じの爽快な感覚に陥るが、今日の感覚は何とも気持ち悪く、一瞬吐き気を催した。


 起き上がるまでに、いつもの倍以上の時間を要してしまった。


 風邪でも引いたのだろうか。いくら春が近づいて、外より暖かいとはいえ、部室に暖房器具はない。そんな場所でずっと作業をしていたのだから、気付かないうちに体調を崩していてもおかしくはない。


 親に旨を伝え、私は学校を休み、病院へ向かった。


 近所の小さな診療所。患者はたいてい年寄りばかりだが、乾燥した寒い時期になると、抵抗力の弱い小さな子供が、母親に連れられて予防接種や診察に訪れ、多少賑わっていた。この時期が一番繁盛する時だろう。


 私も昔は良く病気に罹って世話になっていたが、中学校以来、風邪を引いていないので、ずいぶんご無沙汰だ。


「小林さん。小林沙耶香さん、診察室へどうぞ」


 若い女性看護師に名前を呼ばれ、待合室の端にある白いドアをくぐって診察室に入った。中にいた人物は、定年間近といった感じの、随分歳のいった医者。その人と向かい合い、丸椅子に座る。医者はカルテに書かれた名前と私の顔を、分厚い眼鏡越しに、しょぼしょぼした瞳で交互に見比べていた。


「お願いします」

「はいはい。ああ、小林さんのところの……随分久しぶりだね。最後にあったのは小学校のときか。先生のこと、覚えているかな?」


 さり気なく見せる、優しげな笑顔。口の両側に、皺と一緒に浮かび上がる、えくぼの窪みに、妙な懐かしさを感じた。随分老いているが、最後に訪れたときに見た面影が、結構、残っている。


「ああ、はい。今、思い出しました」

「そうかい。それはどうも。じゃあ、診察しようか。今日の具合は……?」


 私は今朝からの気だるさと、その原因は風邪ではないかと言う想定を細かく説明した。それを聞いて、医者は私の口の中を見たり、背中に聴診器を当てて診察を始めた。そして最後に、唸りながら首を傾けた。


「風邪の症状は見られないね。至って健康そのものだ。それでも身体が重いのなら、もっと別の病状の可能性がある。……一つ気になるんだが、手や足が必要以上に冷たく感じたりはしないかな?」

「はい、いつもより」


 私は冷え性で、たいていいつも足や手の指先は冷たいが、今日に限っては、手足だけでなく、全身がやたらと冷え切っている気がする。


「この、腕の部分を見てごらん。黒い、斑点のようなものが浮かんでいるだろう」


 目を凝らしてみると、確かに。腕全域に広がるように、小さな黒い点があちこちに見られた。


「内出血とは、少し様子が違う」

「何かの病気でしょうか?」


 尋ねるが、確実な返答には繋がらなかった。


「今のところは何とも言い難い。おそらく、血液が所々で冷えて、凝結してしまって起こるものだと思うが。とりあえず様子を見よう。一日経って、もし容態が悪化したり、異変を感じたら、すぐに病院へ来なさい」


 こんな小さな診療所では、できる治療は限られている。もし症状が悪くなれば、大学病院へ行って精密検査を受けなさいと薦められた。


 病院を出るとき、腕にちくりと痒みを感じた。袖をまくりあげてみると、手の甲や腕の外側、肘などに青紫色の斑点が、血管に沿って鱗模様みたいに大量に出ていた。何だか気持ち悪い。


 こんな斑点を、本で見た覚えがある。


 人が死ぬと、血液の流れが止まり、重力にしたがって地面に近い方向へと血が沈んで溜まるらしい。その血が固まり、表面に浮き上がって見えるものを死斑しはんと呼ぶ。変死などの場合、死亡推定時刻を割り出すために参考とされるらしいが、あくまで、死者の起こす現象には変わりない。


 これはそれに、良く似ていた。


 人は死んで死斑が出始める頃には、身体が硬直して固まってしまうと言う。


 それは死後硬直しごこうちょくと呼ばれる現象。


 私の体の重さは、それに似ているのかなと思った。


 でも、私はまだ生きているわ。呼吸もしているし、心臓だって、ちゃんと動いている。


 それでも私に、死人と同じ兆候が出ているのだとしたら。


 それはさしずめ、〝死前硬直〟と言ったところか。


 歩くのも辛い。重い足を引きずり、家路へ向かおうとする私は、今までに経験した経験がないほど、困難な道のりを歩いている風に錯覚していた。実際は、歩いて十数分の、平坦な道路のはずなのに。


 何十倍もの重力のある世界に迷い込んだみたいな、押し潰されそうな感覚。山登りをするときよりも、疲弊は激しい。一体何歩、歩いただろう。指で数えられそうなくらいしか進んでいない気がするのに、時間の経過が物凄く早く、顔も体も、汗びっしょりだ。激しい運動の後に似た疲労感。なのに、心拍数は上がらず、手足も冷たいままだった。指先が、硬くなってきた気もする。水分が抜けて、ミイラみたいにシワシワに、かつ、頑丈な物体に変化している感覚さえした。


 電柱やガードレール、目に付く支えとなるもの全てにしがみつき、ゆっくりゆっくり前進していく。その姿を不審そうに、また気の毒そうに横目で見ながらすれ違っていく人たち。その視線は、以前の私なら到底耐えられない屈辱の眼差しだっただろうけれど、今は周りの全てのものに対して気を張っている余裕なんて、ない状態だった。


 心臓の動きまで鈍くなっているのではないだろうか。そう思えるくらい、呼吸が上手くできず、苦しかった。


 このまま動けなくなったら、どうなるのだろう。そのままの体制で、固まってしまうのだろうか。やがて水分がなくなり、完全な石像みたいに。


 ―――石像!


 頭に浮かんだその言葉が、私に色々な思いを呼び起こし、人外的な知識を閃かせた。


 滝山との勝負。私には作れなかった、美しい私の、美しい石像。


 そう、私は勝負に勝たなければならない。こんな所で原因不明の病気にかかっている場合ではなかった。


 もう、石像は作れないかもしれない。ならばせめて最後に、私自身が石像になればいい。


 私が、私の人生において、最初で最後の、最高の芸術作品になってやる。


 決心した私のスローモーションな足は、しかし着実に家とは異なった方向へと進み始めていた。


 人目を忍び、古い木造校舎へやってきたときには、もう昼近くになっていた。まだ授業中なのか、周囲に人の姿はなかった。


 部室へ急いだ。急ぐといっても、亀の歩みくらい、とてつもなくのろかったが。今の私の精一杯だ。


 早く行かなくちゃ。私が動けなくなる前に、何としても部室に行かなくちゃ。


 そして最後の力を振り絞り、教室の扉を開き、中に踏み込む。


 誰がやったのか、部屋の中は綺麗に掃除、整頓されていた。昨日、私が打ち砕いてそのまま放置していた石の残骸も、危なっかしく投げ捨てていた彫刻刀も、見える位置にはどこにもなかった。日誌だけが、元の場所に戻されていた。


 顧問の教師だろうか。それとも――。


 気になりつつも、思考を寸断した。そんなどうでもいい憶測を、考えている時間が惜しい。


 私は、石膏を置いていた作業台の上に立った。その時点で、限界だった足が完全に動かなくなる。焦りや恐怖はなく、何とか間に合ったと、安堵感だけが体中に広がった。


 実にリラックスした状態。息をつく間もなく、今度は手を動かそうと、力を込めた。手はどのくらいの位置がいいだろう。時間との勝負に焦りを覚え、その手は両腕を前へ向かって広げた形で静止した。誰かを抱擁しようとするときに似た、自然な腕のしなり。開きかけの蕾が、今にも開きそうな、手の指の流れ。完璧だ。


 あとは、顔。ここが一番大事だわ。表情だけは考えなくても決まっている。美しい私を、最も美しく見せる方法。


 私は勝利する確率の皆無だった勝負を征し、滝山が悔しがり、うらやましがる顔を思い浮かべた。なんとも気分がいい。あの均整の整った顔立ちが、私への嫉妬で歪んでいく。


 ああ、たまらない。たまらなく素敵。そんな滝山の表情を想像すれば、もう笑わずにはいられない。


 きっとこの時の私は、この上ないほど、最高の笑顔で満ち溢れていたに違いない。


 今までに、心から笑える思い出なんて、なかったもの。


 でも、今なら笑えるの。


 勝利を確信した私に、敵などいないのだから。


 ● ● ●


 数時間後。私の身体は完璧に固まって動かなくなっていた。心臓も、血液の循環も止まり、氷みたいに身体が冷たくなっていた。


 なぜか、感じられる。意識ははっきりしていて、前を向いたまま、ガラスみたいになってしまった瞳から、ずっと辺りの景色を見つめ続けていた。


 遠くから聞こえてくる足音。聴覚も、まだしっかり働いている。


 部室に、誰かが入ってきた。静かに、音も無くスライドする入り口の開き戸。途端に外の風の音、部活


に勤しむサッカー部の連中の声が流れ込んできた。いつの間にか、放課後になっていたらしい。


「素晴らしい。ずいぶんな力作が完成したもんだ」


 石像になった私を見つめ、唖然とする男、滝山恐平。私に歩み寄り、色々な角度から私を観察している。


「完璧だ。小林さんなら、やり遂げると信じていたよ。特に、この笑顔。最高の至福を連想させる表現法は、残念ながら偽像しか作れない僕には真似できないな」


 滝山は少し離れた場所に立てかけてあるものに近寄り、上からかけられていた白い布を、はがし取った。


 それは、滝山が造り上げた、彼自身の石像。確かに美しい。完璧なデッサン、削り技術、全てをとって、汚点と呼べる場所が一つもない。


 でもやはり、確実に分かってしまう。


 あの石像には、本当の心がない。微笑んではいるものの、その笑顔から喜びや快楽は全く伝わってこない。


 だから、結局ただの石像に終わっている。だから、私には、敵いっこない。


 私の心の声に反応した気がした。タイミングよく滝山は振り返り、困った顔で笑った。


「君の絶対的な勝利の手助けができて、良かった。君は現在の姿を得る結果でしか、完璧な才能を開花させられなかったんだ。君は実力以上に、理想が高すぎたから。生きながらにして、高みに昇るなんて、絶対に不可能だったから」


 意味がよく分からなかったが、貶されている気もした。


 だが、もう悔しくもなんともない。私は勝ったのだから。負けた相手に何を言われようと、負け犬の遠吠えにしか聞こえない。耳を心地よく震わせる、最高の子守唄だ。


 もっと喚け、敗北者。何を言ったところで、お前は私の足元にも及ばないのだから。


 だが、素敵な負け声はもう、響かなかった。


 負け犬ならぬ、負けウサギ滝山は、また音もなく、教室を後にした。


 入れ違いに、また誰かが入ってきた。滅多にここへはやってこない珍客、顧問の逆瀬川だ。


 白髪交じりの髪を七三分けにして、分厚いメガネをかけた小太りの男。背は私と同じくらいで、いつも茶色い背広を羽織っている。時々、誰もいない時を見計らって、部室の様子を見にきているとは、なんとなく知っていた。


「ほお、随分と、素晴らしい作品だな」


 逆瀬川は私を見て、感嘆の声を漏らした。私と同じ目線の高さで、私をくまなく観察していた。


「いまどきの高校生は、中々レベルが高いな。今度、小林さんに会ったらコンテストの話でもしてみるかな」


 ブツブツと独り言を呟きながら、机の上の日誌を手に取り、目を通している。予想通りだが、やはりこの先生は、人目を忍んでこそこそ探る行動が好きな様子だ。日誌も読まれているとは予想していたし、普段ならちょっと嫌だなと思うが、最大の望みを成就した今、満足感に溢れた私の心は広く寛大になっていたから、たいして気にもならなかった。


「ん? この所々、抜けている文字は何だろう?」


 逆瀬川は不思議そうに日誌を読みながら、辺りをうろうろ歩き始めた。私の前をかすめたとき、中の紙面が見えた。


 確かに私の書いた文章だ。良く覚えている。


『  と石像作りで勝負することになった。あいつは絶対、私のことを馬鹿にしている。  だけには負けられない……』


 なぜか、滝山の名前の部分だけが、消えて白紙になっていた。


「この子はいったい、誰と勝負していたんだろう? この部には、小林さんひとりしか、いないはずだが……」


 首を傾ける逆瀬川。今、何て言ったの?


 私はついに、聴覚も機能を果たさなくなってきたのかと、自分の耳を疑い始める。私一人? そんなはずないわ。だって、初めてここにきた時も、この顧問が滝山の紹介をしてくれたのだから。


 私は初めて、滝山そのものの存在について考えた。何者だったのだろう。


 私の進むべき場所にいて、私のライバルとなり、更には、私の望みを叶えて、存在をこの世から消してしまった。


 人間以外の、何かだったのかもしれない。もしくは、本当に不思議の国からきた使者だったのか。


 訳が分からないまま、考える暇もないまま、私の終わりは、突然やって来た。


 ガシャーン!


 廊下の、部室の内側の窓を蹴破り、教室に飛び込んできた黒い影。それは驚く逆瀬川の側をかすめ、動けない私めがけて――。


 ガラガラッ。音を立てて、私は崩れた。意識が遠のく。動かない眼球が床を捉える。


 まるで大潮の日の海岸を見ているみたいだ。だんだん、満ち溢れてくる赤い波が視界を染める。こんなに大量の赤、初めて見た。でも、何だかとても綺麗で、一瞬、母なる海がこんな風に赤ければ、戦争なんて起こらなかったんじゃないかと思えるくらい、不思議と慈悲に満たされた感覚に陥った。


 私みたいな孤高の花の蕾が花弁を開くとき、きっとこんな勢いで花粉を舞い散らすのだろう。菊だって、きっと命をつなげるために、蜜蜂を引き寄せるために、香りを放つはず。


 菊は大抵黄色いけれど、白やピンクの花もある。


 だから、赤い菊も、あったら素敵よね。


 ● ● ●

「何だ!? サッカーボールが飛び込んできたのか。ああ、びっくりした」


 逆瀬川は胸をなでおろす。グラウンドで部活をしているサッカー部の誰かが、思いきった方向外れな一蹴を飛ばしてきたのだろう。元気が良くて結構だが、少し粗相が過ぎる。後で注意しておかねば。


 とんだ事故で、世界に一つの芸術品が壊れてしまった。残念に思う逆瀬川が、どうしたもんかと崩れた石像を見下ろす。


「なっ、何だこれは……」


 見る見る表情が歪み、真っ青になった。


 粉々の石像の破片から広がる、赤く、どろどろした水溜り。石像の破片から覗いた肉々しい残骸。


 直後。学校中に、男の悲鳴が響きわたった。

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[良い点] タイトルに惹かれて読みに来ました。 タイトルとは裏腹に序盤は部活動の日常とコンプレックスという若者の日常が繰り広げられており、どこにホラーの要素が?と思いましたが、徐々に滲み出してくる狂…
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