MEMORA D-5
第1話 沼の丘
電力会社が、すべての原子力発電所の運転を停止したその夏。
僕は足元に真ん丸い影を落として、路地をただぶらぶらを歩き、立ち並ぶ送電線の群れを見上げていた。
架空線が油照りの空にギラギラと輝いていた。
歩いても、歩いても、自分の足音しか聞こえなかった。
生垣をまわした家の玄関先で、巨大なひまわりが頭を垂れていた。
いくつか点在する集落を抜けると、とたんにめまいがするほどの広大な田園が広がる。カエルが鳴いていた。ふと立ち止まり、今歩いてきた路地を振り返る。
どこかでセミが鳴いていた。しかしそのセミの声が、並ぶ鉄塔が発する電波の音そのものに思えて僕は案外鬱屈していた。
町は平野の真ん中に位置していた。幹線道路から見放された、地続きの孤島。僕は路地を歩き、孤島にたった一つそびえる小高い丘を目指す。電力会社がこの町に大規模な変電施設を建設した際、住人にささやかなサービスをした。公園を造ったのだ。
公園はもともと存在していた沼地に造成された。だからいまも芝生や丘をぐるりと囲むようにして、浅く淀んだ沼が広がっている。ブラックバスが釣れるとヒロタカが喜んでいたが、僕はあの沼でフナ以外の魚を見たことがなかった。
のっぺりとした碧空に、何本もの腕木を伸ばした送電塔が天を突く。ひときわごつく背の高い鉄塔の列は、北の原子力発電所から電力を供給する超高圧線。その脇に寄り添ってつづく列は、変電所から出発した支線。
この町の空は幾重にも張られたクモの巣のように、架空線で分断されている。
僕は丘にかけのぼる。とたんに汗が全身から噴出す。太平洋高気圧が平野全体に熱気を送り出している。
頂にぽつりと置いてある木のベンチに僕は腰かけ、360度、首をめぐらせた。
集落、集落、鉄塔、集落、鉄塔、田園、鉄塔、雑木林、鉄塔、田園、鉄塔、鉄塔、沼、鉄塔、田園、集落、そして変電施設。
地平線が見えそうなくらい、はてしなく田園がつづいていた。幼いころから見慣れてきた、この町の風景だった。
日が傾き始めていた。
息苦しかった。
17基の原子炉すべてが沈黙しているというのに、背後の変電施設はセミの声に似た唸りを止めようとしない。
流れ出る汗を僕はそのままにしていた。
出口が見つからない。
第2話 マイクロ波通信塔
西の空は恐ろしくなるほどの夕焼け。町や田園が紅く染め上げられていた。
茜色、そんなことばでは物足りない。もっと、悪意を感じるほどの紅。そんな空だった。
どれくらいベンチの上で空や田園を眺め、並ぶ鉄塔の数を数えていたのだろうか。穏やかだった空の色が急変したとき、僕は水の匂いをかいでいた。風は、遠い雨の予感をはらんで吹きつけていた。
紅く染まっていた空が一気に色を失う。紫がかった雲が流れ、天気は南から一気に崩れ始めているようだった。僕は首をめぐらせ、変電施設のマイクロ波通信塔の向こう、田園を横切る鉄道が川を越える鉄橋のあたりを向き、見る間に広がってくる雨雲を目で追っていた。
水面に一滴、濃い絵の具をたらしたように。紫色の雲が赤い空ににじむ。
鉄橋を電車が横切る、その轟音。僕には雷鳴に聞こえた。鉄橋のそのさらに向こう、田園が地平にぼやけるあたりで、雨雲は裾を引きずっていた。一度、二度とストロボが焚かれる。稲妻だ。
僕は体ごとマイクロ波通信塔を向く。
鉄橋を過ぎた電車は、田園に点在するプラットホームを目指し減速していく。この町を抜け出す、僕にとっての唯一の手段。銀色の車体に、室内灯が明るい。風景は確実に光度を下げている。あの雲の裾がこの町に届くまで、そう時間はかからない。
けれど僕はベンチに座ったまま。
風の中の水分が、頬にはっきりと感じられるほどに濃くなっていた。誰かに吐息を吹きつけられているような、不快感。
雲が僕の頭上にもにじんだ。空に蓋がかぶせられた。眼下の農道の街路灯が、見ている前でいくつも点灯した。そして、鉄橋の向こう側が霞んでいた。
雨だ。
275kvの送電線が行き着く先、首都が昼間に吐き出した熱気が毎日この時間、この町に、近隣に豪雨を降らせるのだ。
鉄橋の手前側の農道、アスファルトの色が一気に濃くなった。
来た。
最後に一息、夕立の前触れが僕の頬に吐息を吹きかけた。
空から僕への第一撃は、半袖の制服の肩だった。そして、どれが第二撃なのか数える間もなく、気がつけば僕は夕立の中にいた。
集落を囲むように並ぶ鉄塔が、いまは雨の幕の向こうに霞み、送電線が見えない。だから並ぶ鉄塔はみな、何かの監視塔のようだ。
僕は濡れながらまだ、ベンチから立てなかった。
ストロボ。目がくらんだ。
轟音。身体が揺れた。
僕はまだ立てなかった。
第3話 中継基地局
四度目の雷鳴を全身で受けとめたとき、目の前で灯っていた街路灯が消えた。
開いた瞼にいくつもの雨滴が雫になり、視界がにじんだ。
僕は目を開く。にじむ視界に雨粒がくっきりと見える。
空は紫色。列になって灯っていた街路灯がすべて消えていた。
あたりはすでに夕闇にゆっくりと包まれはじめていた。
僕は立ち上がった。築山を離れ、停電した町に下る。風はなかったが、降りしきる雨粒が痛い。
見上げたとき、五度目の稲光が目を焼いた。僕はひとつ、ふたつと数え、みっつと呟き終らないうちに、足元から全身に雷鳴が駆け上ってきた。
公園を出て、僕は集落へつづく道を外れ、電車の線路へ向かった。
道は川になっていた。
履きなれたバッシューが水を吸ってぐずぐずになっていた。
沼地を歩いているようで気持ちが悪い。そうか、ここはまだ沼地なのだ。
公園を囲む沼に沿って農道がつづく。前方に鉄橋。
踏み切りは遮断機が跳ね上がったままで、電車は三十分に一本だ。
セイタカアワダチソウが雨に濡れる農道を、僕は線路沿いに進んだ。
停電は広範囲なのかもしれない。集落に灯りはひとつもなかった。
当然、街路灯も消えていた。
農道は百mほど向こうで、夕立の中に消失していた。
そのさらに彼方に、電力会社の送電塔が黒々と、しかし漠然と何本も立っているのが見える。
僕は進む。
やがて駅が見えてくる。プラットホームの屋根が、雨のスクリーンにモノトーンで沈んでいた。
町は深海底のようだった。出歩いているのは、僕一人に思えた。誰もいなかった。
地平も空も地面すらも、夕立に煙り、境界がはっきりしない。
そして、僕という存在も、雨に融けだして境界がはっきりしない。
寒かった。
夏だというのに、僕から流れ落ちる水滴が、僕の存在を溶かしてこぼれ落ち、側溝の水たまりに沈殿していくかのようだった。
僕は立ち止まり、両手で自分を抱きしめた。
雨脚は強かった。収まる気配もなかった。
僕は駅の前に立つ。プラットホームが一面だけの、ただの停留所。
屋根から伝う雨滴が樋を通して滝になる。その音が激しい。
と。
僕はプラットホームに幻を見た。
灯りの消えた夕暮れのプラットホームに、人影を見た。
第4話 プラットホーム
僕は立ち止まり、両腕で自分を抱きしめたまま、プラットホームを向いていた。
夕立に霞むプラットホームで、彼女が本当に幻のような気がした。
肩まで伸びた髪、それが雨に濡れて黒々としていた。
少女、だった。彼女は見慣れない制服を着、雨に濡れていた。
僕は顔をぬぐった。
灯りのないプラットホームに少女は立ち、その横顔にはまったく見覚えがなかった。
声をかける気はまるで起きなかった。
怖かった。
強まる夕立の中で、彼女の姿があまりにも現実から遠ざかっていたからだ。スカートから伸びる足も、夏服の袖から覗く腕も、白磁のように艶かしく白かった。
僕の呼吸や鼓動や、雨に融けかかっている僕の存在が、雨音や雷鳴にまぎれて彼女に知られず幸運だと、僕は本気で思った。
灯りはまだ沈黙したままだった。
僕は時計の存在を忘れていた。加速度をつけてあたりが暗くなっていくのにも気がつかなかった。
再び稲光。
僕は目を閉じた。こんどは数を数える間もなく雷鳴が轟いた。
そして、僕はそっと目を開けた。
彼女は、そこにいた。が、僕に背を向けていた。
電車は、来ない。
僕は声をかけられなかった。
プラットホームにはささやかながらも屋根があるのに、彼女は雨に打たれていた。彼女の髪から伝う雨滴や、紺色の襟からこぼれる水滴も、すべて見えた。
けれど、手を伸ばせば届きそうな場所にいる彼女は、後ろ姿だった。
寒かった。震えが来た。
僕は顔をぬぐった。雨は変な匂いがした。
平野の終わる場所。首都の匂い。
僕という存在が融けだしたあと、僕という入れ物には、いったい何が流れ込んでくるのだろう。
立ち尽くしていた。
彼女もまた、微動だにしなかった。
電車は来なかった。
遠くで雷鳴が聞こえた。稲光はなかった。そして唐突に、電柱にくくりつけられた街路灯が灯った。プラットホームから視線を外した。
僕は目がさめたような気がした。
雨脚が次の瞬間、やや弱まった。街路灯がまぶしく思えた。ずいぶん暗くなっていたのだ。
ようやく、帰ろうと思った。
寒かったのだ。
もう一度プラットホームを向いた。
少女がこちらを向いていた。
表情もなく、僕は射すくめられた。
交錯する視線。
僕は彼女から視線を外し、そして走った。
雨の道を、走った。
第5話 中継信号
水滴を全身から散らしながら、僕は線路沿いの道を駆けた。
プラットホームを見上げて感じていた寒さは、今はもうなかった。どれくらい走っているのか、走ったのか、自分でもわからないまま、走り続けていた。
集落は狭い。線路沿いに、僕は再び田園地帯にまろび出ていた。
立ち止まったとき、目の前にぼんやりとした灯りが立ち、僕を見下ろしていた。
線路沿いに立つ信号機。
縦に電球が並び、降りしきる雨を照らし、煙っていた。
息は切れていた。
肩が震えた。
水の底にいるような気分だった。呼吸が苦しい。
大きく息を吸い込み、瞼に当たる雨粒を感じた。
雷鳴はもう聞こえない。夕立はそのまま夜までつづく雨になってしまった。
喉が鳴った。
水の底から水面へ、僕は顔を出そうと懸命にもがく。まだ、遠い。呼吸が整わない。
と。自分の呼吸とは異質な音を、僕の耳が拾っていた。
すぐ横のレールが軋んでいた。
額に張り付いた髪を後ろになでつけ、僕は顔を上げた。首筋を一筋、意外なほどの勢いで水が流れていた。
遠くにヘッドライトが見えた。電車だ。
ヘッドライトは水の底から照らす深海魚の瞳のように妖しく、明滅する踏み切りのランプは鼓動のように見えた。
僕は空を仰ぐ。何度目だろう。
紫色だった空は、かすかな薄色に染まっていた。どこかの街の灯りを映す雲は低く、風のない夜だった。雨粒だけが、果てもなく降り注いでいた。
レールの軋みがリズムを刻む。左足に載せていた重心を右に移す。僕は電車を待つ。
やがて、ヘッドランプと警笛を響かせて、電車が僕の横を過ぎる。室内灯がまぶしく、僕は額に手をかざした。まるで手を振るように。
彼女が見えないだろうか。
僕は窓を追った。
後ろ姿の列。立っている乗客はいなかった。
水煙が僕の頬をなでつけていく。
彼女が乗っているのかどうか、通り過ぎ、赤いテールランプが尾を引く線路脇で、僕はわからなかった。
電車が過ぎると、雨音だけが耳に届く。
僕は雨に濡れながら、しばらくテールランプを見送っていた。次の駅はどこだろう。
はるか遠くで、電車のパンタグラフが火花を散らしていた。
夕立の稲妻の色と、ほんの少し似ていた。
僕は、雨を全身にまとって、歩き出す。
帰ろう、と。
第6話 踊る雫
鍵盤の上で、十指が駆ける。
開けたままの窓から、いくぶん涼しい風が流れてくるが、閉めたままのドアのこちら側は、空気が滞留していた。けれど、鍵盤の上をところせましと駆け抜ける指は、鮮やかな水の流れを奏でていた。
ヒロタカがピアノを弾く姿は、メディテーションに入った宗教家にも見えるかもしれない。そうでなければ、ただの酔払い。彼が酔った姿はまだ見たことがないので、想像するしかなかったけれど、おそらく燃えるほどのアルコールをヒロタカが飲んだとしても、これほどの瞑想状態にはおちいらないかもしれない。
身体をくねらせるようにして演奏をつづけるヒロタカの少し後ろで、僕は彼の指先をながめていた。目で追うのが難しいほどに、運指は速い。
首筋を伝う汗が冷え、あまり気持ちがよくなかった。僕は窓の外に視線を移す。
電力会社の鉄塔がどこまでも並ぶ。網膜に焼きつくような濃い緑色は田園で、ヒロタカの演奏は、出口のないこの田園の背後に静かに流れるBGMなのだ。
僕はそっと目を閉じた。
音楽室。それに隣接する個人練習室。僕らは放課後、そこにいた。
ヒロタカが弾き、僕は聴く。
僕が窓を開け、彼はピアノのカバーを開く。
音楽室は吹奏楽部が使っていたから、ヒロタカお気に入りのグランドピアノは使えない。代わりにアップライトピアノの鍵盤の上を駆け回る。
目を閉じたまま、僕は水の流れに浸る。
ヒロタカの指が踊るたび、緩急をつけ、僕の全身に心地よい水がほとばしる。
(ドビュッシーもいいけれど、俺はラヴェルが好きなんだよ)
彼が好んで弾くのは、モーリス・ラヴェル。今弾いているのは、「水の戯れ」。
どうやったら指がここまで動くのか、どうやったらこれだけ歌うように音を出すことができるのか。
ヒロタカは東京の芸術系大学受験を真剣に考えていた。
クラスの連中がギターを抱えて、プロのギタリストたちの運指を盗もうとしているあいだ、ヒロタカはひたすらピアノを弾いていた。
(よく動くね)
僕が訊くと、
(お前も弾いてみればいいじゃないか)
と答えにならない言葉をよこす。言っておきながら、彼はピアノの前に座ったきり、僕に席を譲ろうとは夢にも思わないらしい。
僕もまた、彼の前でピアノを弾いてみたいと思ったこともなかった。
「水の戯れ」が前奏のリフレインに入った。
ヒロタカの首筋にもまた、玉の汗が浮かんでいた。
午後四時三〇分。
まだ陽は高かった。
僕は目を開き、防音壁にもたれ、開けたままの窓からの風を受けた。
パレットで溶いたばかりの絵の具のように、田園の緑が濃い。
右ポケットからフェイスタオルを取り出して汗をぬぐったとき、左ポケットに入れていた携帯が短く鳴った。
Eメール。
そして演奏がやんだ。
携帯電話のディスプレイの向こうに、こちらをねめつけているヒロタカの双眸があった。
「わかってる。悪い」
「電源切っておけよ。授業中も入れたままか?」
「マナーモードにしてる」
「今鳴ったじゃないか」
「ホームルームが終わってから、メールチェックしたんだよ、そのとき」
「電車に乗るときは、電源切れよ」
ヒロタカはにこりともせずピアノに向き直り、思案するように右手を鍵盤の上に滞空させ、そして何本かの指で旋律をこぼす。聴いたことのない曲だった。
「はじめて聴いた」
「今はじめて弾いたんだ」
「誰の?」
「俺の曲だ」
「オリジナル?」
「さあね。今考えた」
4小節の主旋律。ヒロタカは右手で2回ほど同じフレーズをリフレインしたあと、左手が滞空した。次の瞬間、左小指が白い鍵盤の上にタッチダウンしたとき、すでにアドリブは曲の体裁を整えていた。
僕はメールを読まないまま、携帯をポケットにしまいこんだ。
第7話 磁極
僕は屋上にいた。
コンクリートの低いフェンスの向こうに、油照りの田園が地平線までつづいていた。
風がなく、じっと立っているだけで汗が幾筋か頬を伝っていた。
しゃがみこむ。
汗の雫が落ちて、ごくごく小さな水たまりがいくつかできていた。衛星写真から見たどこかの国の湖沼地帯のようだ。
だとすれば、この屋上は果てしない砂漠か、さもなければ湿地帯なのだ。
僕は立ち上がった。
ジェット機の爆音が遠く聞こえた。
午後の傾いた太陽は分厚く立ち込める人々の吐息の向こうに隠れて、ぼんやりとした繭のような形でけだるく浮かんでいた。夏の吐息は吹き込む風に似て、熱く、湿気を帯びていて、不快だ。
汗がこぼれた。
僕は目を細めて、果てしない田園をながめていた。
濃く、鮮烈で、パレットからといたばかりのような緑。まるで出口の見つからない広大な湿地帯が、フェンスの向こうに広がっている。
そうだ、出口がないのだ。
ジェット機の爆音が遠く聞こえていた。
首をめぐらせ、僕はのっぺりとした青空を見上げた。夏の吐息をつめこんだ青は、僕がよく知っているにぶい青だった。いったいどんな絵の具を溶けばこの色になるのか、僕は夏の空を見上げるたびに悩んだ。
爆音の主は、見えなかった。
よく晴れた真冬の空に、一筋のコントレイルを曳く飛行機を見かけることがある。飛行機マニアのリーチに言わせれば、この町の上空を定期航路が通っているらしい。その話を聞いて以来、爆音のたび、僕は空を見上げるようになってしまった。
(ここは、ただの通過点なんだよ)
誰の言葉だったのか、誰かの声がよみがえる。
ヒロタカだったろうか、それともリーチの言葉だったろうか、それとも担任のモリモトの言葉だったろうか。いや、あの能無し教師がそんな言葉を吐くわけがない。ヒロタカかリーチ、どっちかのセリフだ。
通過点。
僕はあの雨の夕方を思い出す。
プラットホームで雨に打たれていた、あの白い夏服を。
ピアノの音がまだ聞こえていた。
ヒロタカは今日、ずっとラヴェルの「水の戯れ」を弾きつづけていた。嫌いな曲ではなかった。むしろ好きな曲だったが、ヒロタカの鬼気迫る表情を横にしてあの曲を聴くと、息が詰った。奴は本気で芸術学部を考えていた。息が詰った。
息が詰る。
並ぶ送電塔を無意識に数えている自分がどうしようもなく無意味で無意識で無価値に思えた。
ああ。
胸から漏れ出す空気はなんだ。
声が出た。
ああ。
叫びたかった。
けれどやめた。
叫んだところで、喉からはじけた自分の声は、閉ざされた空の下で、この美しすぎる田園風景の前で、にぶく光る瓦屋根のつづくこの町で、きっと自分に戻ってくるだけなのだ。
そう考えると、夏空が青い色を塗ったただの蓋に見えた。ゴミ収集所に置いてあるゴミバケツの蓋なら、蹴っ飛ばせば簡単にすっ飛んでいく。けれど、僕たちの頭上にどっしりとのしかかる、この油照りの蓋だけは、どうやっても引き剥がすこともできない。
僕はコンクリートの上に仰向けでひっくり返った。
背中がとたんにじりじりとした熱さで痛くなる。
僕は出口を探していた。
口に出したことはなかった。ヒロタカに言ったところで、相手にもされないに違いない。奴は冷めていた。冷めながら加速する。それがヒロタカだ。クラスメイトから揶揄されようが、ピアノを結局止めようとしなかった。体育教師から説教されようが、球技に参加しようともしなかった。
(指を痛めるからさ)
目を閉じた。
すると、目の前に夕立前のあの色がよみがえってくるのだ。
重い雲と、雷鳴が。
あれは、きっと鍵だ。
ぼくはあれから、一度だけ下校途中、電力会社の開閉所からの一本道をだらだらと歩き、あの駅のプラットホームに立ってみた。夕立の日、後ろ姿と横顔を見た、あの夏服の白さを探しに。
暑い。
ジェット機の爆音が聞こえた。
第8話 開閉所
結局、放課後、僕はまたあの築山の頂上にいた。
ギラつく陽射しはいくぶんかげってはきていたが、それでも暑かった。
次から次へと汗がふきだしてくる。暑い。風が吹いてこなかった。いつもの夏だった。
冬になると、町は北の山岳から吹き降ろす風にさらされて、寒い。空っ風という奴だ。けれど、夏は風がなかった。
南から思い出したように吹いてくる風は、二千万人分の吐息と排熱で、生ぬるい。田園を渡る空気は高熱患者の吐く息のようにむさくるしく、セミと変圧器のうなりが拍車をかける。
屋上から練習室に戻ったあと、ヒロタカは古本屋のアルバイトがあると言って、「水の戯れ」を三回リピートしたあと自転車で消えた。ヒロタカがいなくなってからも、僕はその後しばらく練習室にいた。
ふたが開いたままのピアノの前に座り、僕の指は鍵盤の上を滞空し続けた。着陸ポイントがまったく見当たらなかったのだ。ふと気づくと右手の甲にも汗が浮いていて、全開にしてある窓からはまるで風というものが吹いてこず、室内は僕の体臭とヒロタカの残像がしっかりと居座り、ただでさえ暑さで消沈しがちな気力が霧散していく。暑い。
僕はまるで音楽というものに疎かった。聴くほうならまだ、弾くとなるとまったく勝手が違った。そして、奏でてみたい音楽も、僕の中には一曲として存在していなかった。音楽は、言ってみればヒロタカにとって鍵なのだ。この町から出て行くための、鍵だ。きっと僕はそのことがうらやましかったのだと思う。鍵を手に入れ、扉を開ける日を一日一日数えているヒロタカの姿が。
鍵。
僕は築山の上のベンチで、のっぺりと動きのない雲を眺めた。いつもの午後の展開だ。僕は学校がはけたあと、ここ最近一度として直接帰宅したことがなかった。自分にいいわけをして、いつだって寄り道をした。それでも、送電塔と送電線という巨大なフェンスに囲まれたこの町の中で、行く場所といったら、行ける場所といったら限られていた。ヒロタカが店員を務めるエアコンもない古本屋で、汗を流しながら何度も読んだマンガのページを繰るか、すっかり顔見知りの近所の喫茶店で、水を飲むか、あるいはここ、この公園の意外に高い築山にのぼり、夏の空気に突き出したこのでっぱりから、閉塞感でいっぱいの町を眺めるか。
最近、僕はすっかりこの築山が気に入っていたのだ。
隣町まで、いや、県境を越えてはるか地平まで、このあたりには起伏というものがまるでない。そんな平べったい町に住んでいて、このでっぱりは新鮮だった。考えてみれば、僕は高いところが好きなのだ、きっと。学校の屋上で町を眺めるのも好きだ。
好き?
僕はベンチの上で空を見上げ、自答した。それは違う。
高いところが好きなのではない。
僕は、こういうでっぱりの頂点に立つと感じられる、この町から抜け出せそうなこの感覚が好きなのだ。それだけだ。高いところが好きならば、それこそ仰ぎ見るような送電塔が何十本と建っている。それに上ればいい。けれど、僕は鉄塔には興味がなかった。
電車が過ぎる音が耳に届く。
抜け出すのは簡単だ。電車に乗ればいい。
僕らは、僕やヒロタカは、月に何回か、あの電車に乗ってこの町を抜け出す。
いちばん近い街までは、鉄橋を二つと駅を七つ数えれば到着できる。そこには閑散とした集落も、こんもりと黒々と茂る雑木林もない。アスファルトで固められた地面と夏の凶悪な照り返し、そしてさらにどこかへとつづく「可能性」の玄関があった。
あの街ですら、きっとまだ玄関口に違いない。僕たちはさらにその向こうに行ってみたかった。
帰りの電車を待つホームを、ひとつ渡れば快速電車がやってくる。夕立や二千万人分の吐息の発生源へ、僕たちは逃亡することができるのだ。
しかし、その電車に乗ってこの鉄塔に囲まれた町から名実共に僕や僕たちという存在を消し去るには、鍵が必要だった。新しい世界の扉を開ける鍵と、この閉塞された町の扉を閉める鍵が。
僕たちはその鍵を持っていなかった。だから、いつも快速電車が南へ向かっていくのを見送るだけだった。
けれど、ヒロタカはその鍵を、すでにポケットの中に持っていた。
うらやましかった。
僕は、首が痛くなるほどに空を仰ぐ。
青く、ところどころが茜色の空。真上を見上げれば、送電線は視界に入らない。僕らを囲みこんでいる鉄塔や送電線は、真上を向いていればわからない。
セミの声がいったん消えた。背後に満ちていたらしい変圧器のうなりがクロスフェードした。
電力会社がすべての原子炉の運転を止めて、もう二週間以上たっていた。
電力不足が深刻に叫ばれ始めていたが、僕らの町には何の関係もなかった。それでも毎日このでっぱりの頂上にやってくると、南から思い出したように吹き込んでくる二千万人分の吐息はしっかりと熱を持っていたし、毎日のように夕立が田園や集落を洗った。いったいどこの街が電力不足におちいっているというのだろう。
南の空がどす黒かった。
風が生暖かかった。
前兆だ。
また、雨がくる。
僕はポケットの中に右手をつっこんだ。
あたり前だけれど、そこに鍵などは入ってはいなかった。
第9話 停滞前線
僕は築山の頂上で、じっと南の方角をながめていた。
湧き上がる雨雲が、だだっ広い田園に点在する黒々とした雑木林や、かき集めたような集落の上空にゆっくりと張りだしてきていて、その雲の先端部直下ではすでに、灰色のカーテンが引かれるように雨が降り出しているようだった。それでも、僕のいる築山からはまだ彼方と言っていいほどに遠かった。
あいかわらず変圧器はうなっていたし、思い出したようにセミが鳴いていた。空のどこかにジェット機がいて、ターボファンエンジンの轟音がときどき降りてくる。僕はカバンを足元に置いたまま、最後にいつ瞬きをしたのかを考えていた。
セミの声、変圧器の音、ターボファンエンジンの轟音、快速電車の走る音、農道を過ぎる車の風切り音、風の音、鳥の声、誰かが発動機付きの草刈機で盛大に雑草を刈る音、そして、僕はポケットから携帯電話を取り出した。
ヒロタカに言われたきり、電源を切ったままにしていた。あのとき届いたメールも読まず、僕は電源を切っていた。
僕はもともと携帯電話が好きではなかった。自分から誰かにかけることはなかった。だからわずかな電話代で事足りた。どこにいても「誰か」とつながっているというのは、なんとなくうざったい。ヒロタカは携帯電話を持っていなかった。だからヒロタカは僕に言う。
(そんなに携帯が嫌いなら、持たなきゃいいんだよ。金の無駄だよ)
それ以上に、ヒロタカは携帯電話が鳴らす電子音を嫌っていた。
(その音が、俺やお前やその他大勢の音感を狂わすのさ)
感受性にひびが入ると吐き捨て、ヒロタカはあらゆる電子音を嫌悪しているようだった。
(YMOやクラフトワークはどうするんだよ、携帯の着メロとたいして変わらないぜ)
いつだったか、あまりに辛らつな意見が目に余り、僕はヒロタカについ言ってしまったことがあった。
(お前、いつの時代に生きてきたんだ?)
ヒロタカはあきれたように、彼独特の、唇を向かって右上方に吊り上げるようにして皮肉な笑を僕に向けた。質問に一度で答えず、しかも質問には質問ではぐらかす。ヒロタカの常套手段だった。
(生年月日は、君にも言ってあるじゃないか)
(そういう問題かよ)
結局、こういう調子で、ヒロタカは僕の目的地をたやすくダイバードさせる。
(彼らはいいんだよ。じゅうぶんに音楽さ)
あのとき、ヒロタカはコーラを一気にあおり、僕に答えた。
(なにが?)
(YMOやクラフトワークだろ?)
(ああ)
(俺が言っているのは、ズールやポンチとが派手に鳴らして喜んでる、あの電話機のけったいな雑音の話をしているんだよ)
(うん)
(意図があって、その音でなければ表現できない、それ以外にはありえない。そうやって作り出された音が、音楽なんだよ)
(うん)
僕はアイスキャンディをかじっていた。残りふた口くらいが溶け出して、水色のしずくがぽたぽたとアスファルトにこぼれ落ちていた。質問を振っておきながら、僕はヒロタカの回答がよくわからなかった。けれど、ヒロタカは僕を意に介せず、一人納得げにコーラの缶を空けていた。
分厚く黒々とした雨雲は、のったりとこちらへ、僕らの町に向かってせり出していた。あまりの量感とその雲の峰の高さが距離感を狂わせる。直下の風景が霞んでいた。すでに僕の頬をなでつける風はじゅうぶんに湿度を含んでいて、夕立が来るのはもう間違いなかった。
電源を入れなおした携帯電話は防水で、その機能性だけで僕はこの機種を選んでいた。落としても壊れにくい、水に濡れても壊れにくい。何でもすぐに落とすくせのある僕にとっては、この二点の機能は必要にして十分だった。ピロピロと短い電子音を鳴らしたあと、ディスプレイに文字。
『新着メール受信 Eメール 1件』
読まないままに電源を切ってあったメール。『ピッピです』。
『どうも。今日もこれからバイトです。暑くて死ぬ。今度数学教えてちょ』
ピッピ……樋崎からだった。練習室で受信してから一時間以上が経過していた。
彼女は僕に返事を期待していたのだろうか。
受信メールメニュー、返信、と僕は操作しかけて、やめた。
これからバイトです、に返事をすればいいのか、暑くて死ぬ、に返事をすればいいのか、今度数学教えてちょ、に返事をすればいいのか、あるいはそのすべてか、文節のどれかにか、僕は面倒になってしまったのだ。おそらく僕が返信したとして、ピッピが返信メールを読むのは日がすっかり暮れてから、夕立がひととおり町を洗ったあとに違いない。なにもいま返す必要もない。僕は再び携帯をポケットに戻した。
暑くて死ぬ、に返事をしてやればよかったかもしれない。実際、僕も暑かった。
ふと僕は、ピッピがファンだというミュージシャンの音楽を思い出していた。去年の学祭でだったろうか、ピッピがCDを持ってきて、模擬店のBGMに無理やり流していた。
確か、北海道のバンドだった。バンド名は忘れてしまった。けれど、そのバンドの旋律は、涼しげで少しだけ寂しかった。おそらくは、この蒸し暑く五気圧はありそうなくらいの濃密な空気が漂う町からはけっして生まれないだろう音楽だった。
(いいでしょ、ねえ、よくない? いいよね、あたしはまってるのよ)
語彙に乏しいピッピの賞賛がよみがえってくる。
僕は湿気を増して吹き付けてくる風を左頬に感じたまま、目を閉じた。目を閉じ、ピッピのお気に入りのバンドの曲を思い出そうと努めた。ことあるごとにピッピはCDを持ってきては強引に聞かせてくるから、簡単なメロディくらいはすぐに思い出せた。ヒロタカの「水の戯れ」ほどではないにしろ。
扉が見えたような気がした。
僕の耳の底にかろうじて残る、その北海道のバンドが奏でる旋律が、透明で薄っぺらい扉を想像させた。
鍵はかかっているのだろうか。
僕のポケットには、携帯電話しか入っていない。
僕は、もういちど携帯電話を取り出した。
『Re:ピッピです。/今度あの何とかいう北海道のバンドのCD貸してくれ。』
ただそれだけの返信。
一時気がつくとセミの声がやんでいた。変圧器はまだうなっていた。
僕は夕立を待っていた。
第10話 定点観測
このまま世界が終わってくれたら、きっとみんな幸せなのに。
僕は雨の予感をじっと感じながら、ピッピがいつかこぼした言葉を、耳の奥でこっそりとかき集めていた。
断片的に記憶の部屋の隅で丸まっていた言葉のひとつひとつが、雨の匂いにまじって僕の耳によみがえってくる。瞼を閉じるたび、あいまいだった輪郭がはっきりとしてくる。ピッピの横顔だ。
築山のベンチに座り、ここはいつもの定位置だった。背後の変圧器のうなりが変に心地よく感じている自分に多少の驚きを感じつつ、すると先ほどのヒロタカの言葉がまた耳のずっと奥底でよみがえってくるのだ。
携帯電話のバッテリーをいつ充電したのか、おぼえていなかった。
アンテナは三本。バッテリーはまったく問題なかった。
ピッピからの返事はまだ来ていなかった。
ヒロタカは携帯電話を持っていない。四六時中拘束されるのが嫌だと奴は笑っていた。誰に対して笑っていたのか、考えるだけで気が滅入る。ヒロタカはどこか冷めた視線で物を見るくせがあるようだった。だから必要以上にクラスメイトを遠ざけた。ただ、ピアノを弾かせたら右に出るものはいなかった。だから誰もヒロタカの冷淡さに異論を唱える人間はいなかった。けれど僕は、ヒロタカが付き合いづらい人間だと感じたことはあまりなかった。音楽さえ絶え間なく彼に与え続ければ、彼は常に機嫌がよかったからだ。機嫌がいいといって、ヒロタカが声を上げて笑うのを僕は見たことがなかったが、そのかわり声を上げて怒ることもなかった。
電車が過ぎていく。音だけ聞こえる。
思考がいくつもわかれて、とりとめがなくなる。きっとこの天気のせいだ。
朝は晴れていた。
夜の雨ですっかり洗われた大気は澄んで、目に刺さるほどの青だった。ところどころに浮かぶ雲の峰は高く、ジェット機の轟音が入り組んだ細い路地をくねくねと伝って僕の家まで届いた。軒先のひまわりには、もう水滴は一滴もなく、すでに気温はうんざりするほどに上がっていた。
起き抜けに僕は麦茶を飲んだ。冷えていた。痛いくらいに冷えていた。一息に飲んだあと、顔を洗った。居間からテレビの音が聞こえた。NHKの朝のニュースだった。父親がいた。姉がいた。母親は台所にいた。僕は廊下にいた。ニュースがくるくると入れ替わった。窓は開いていた。吹き込んでくる風はすでに暑かった。風鈴の音は隣家の窓辺だ。アジサイの花が青かった。居間の入口で、姉が声をかけてきた。
「おはよう」
僕は、応えた。何かをつぶやいたような気がする。自分に対する記憶など、この程度だろうか。
「早く食べなよ」
そう言ったのが姉だったろうか、母だったろうか。ふたりの声はよく似ていて、電話口でよく間違える。
朝食のメニューを思い出すのに、なぜ努力をしなくてはならないのだろう。そう、今朝の食事を、覚えていなかった。今朝の天気や、風の温度や、風鈴の音や、ジェット機の爆音や、ひまわりに水滴がついていなかったこと、空の色は憶えているのに、朝食のメニューを覚えていなかった。
日常が僕自身から乖離している。
そうなのだろうか。
携帯電話の充電をいつしたのかを覚えていないのも、同じだった。
きのうの夕立を覚えていても、僕は今朝の食事を覚えていないのだ。
あの雨の日、プラットホームで見た彼女の後ろ姿を覚えていても、今朝の家族の表情を覚えていない。
ポケットの中で携帯が鳴った。
Eメール。
取り出そうとして、コンビニエンスストアのレシートや糸くずが一緒に落ちた。
『新着メール受信 Eメール 1件』
ピッピからだった。
『数学の課題、あたしには難しすぎる。だめです。全然だめです。だから教えてちょ。CDいっぱいあるけどどれがいいの?』
携帯の小さなディスプレイに文字列。それがピッピが打ち込んだ意思のかけらなのだと、僕はいつも言い聞かせていた。電報の定型文のような短いメールの文章を、はたして相手がどんな感情をこめて打ち込んでいるのか、行間を読むにはあまりにも短すぎる。
どこか遠くで雷鳴。ジェット機の爆音に似ているが、それよりずっと低音が響く。
ふと意識を「ここ」に戻すと、とたんに変圧器のうなりがじっと響く。
鉄橋の向こうに、送電塔が並ぶ。さらにその向こうに黒々とした雷雲が湧き上がる。
夕立が来る。
僕はポケットから携帯電話を取り出したままだった。
レシートや糸くずは落ちてきたが、鍵は出てはこなかった。
左のポケットは、……結果は見えていた。
だから、僕は携帯電話を右のポケットに、取り出す前に入れていたポケットに、無造作に戻した。
返事は、あとで書こう。
ヒロタカの『水の戯れ』を思い出していた。
夕立が、来る。
雨に煙るプラットホームを思い出していた。
僕は、夕立を待たずに、ベンチから立ち上がった。