096:龍は見ていた
ゆらゆら揺れる。
ゆらゆら揺れる。
あたしの意識はぼんやりと覚醒をはじめた。
なんだか前にもこんなことがあったような……そうだ、あれはたしか舟の上だった。
──広くて深いネト河の あっちの岸とこっち岸 おまえに会いに舟を出す──
覚えてる。忘れてない。これはネト河渡しの舟歌だ。
あたしはゆっくり目を開けた。
ゆらゆら揺れる宝石のような光は、水面に揺れる星明かり。上の方には木の葉のような小さなゴンドラが浮いている。
あたしはうっとりと目を細め、水の中からそれを見つめていた。
──深くて暗いネト河を 櫂を頼りに漕ぎ進む 忘れもしないあの岸へ──
水の中からっておかしくない?……なんて頭の片隅で思うけど、不思議と戸惑いも不安も感じない。
だってこれは現実じゃない。
夢や幻みたいなものだろう。
きっとあたしは、誰かに何かを見せられているのだ。
誰に? 鬼に? それとも何か、別の……
──誰も渡れぬネト河を 俺とおまえで漕ぎ進む 星よ照らせよこの小舟──
ゴンドラの上には寄り添うような二つの影。
櫂を握った男のひと。座って遠くを見つめる女のひと。あたしの知らない人たちだ。
女のひとは俯いて、片手をそっとおなかにあてる。
男のひとが何か声をかけ、二人は互いに微笑んだ。
あの舟唄の世界そのもの。
許されぬ二人の道行きを、ネト河の主もこうして水中から見守ったんだろう。
──星空映すネト河に 抱かれて流れる木の葉舟 誰も許さぬ泥の舟──
水中で短く息をつけば、ごわあ……と音がしてあぶくが視界を遮った。
あの二人、どんな気持ちで舟を出したんだろう……
希望に満ちていたと思いたい。幸せになれると信じて、幸せになろうと決意して、二人で出発を決めたのだと思いたい。
胸が苦しくなってあたしはもう一度息をついた。今度は深く、ちょっと長めに。
ごわあ……
──誰も渡れぬ河なれば 誰も咎めはせぬだろう 泥の小舟の行く末を──
二人の顛末をあたしは知っている。
みんなで乗った渡し船の船頭さんに聞いたから。
結局上手くはいかなくて、女のひとは連れ戻された。そのまま遠くにお嫁に出されて、それっきり。男のひととは二度と会えず終い。もちろん、生まれた赤ちゃんとも離れ離れで……
その先を目指して、あたしはゆっくり泳ぎはじめた。体をくねらせ小舟とは逆の方向へ。
あっちの岸とこっちの岸、かあ。
女のひとはあっちの岸よりずっと遠くに嫁がされ、つらいつらいと泣き暮らした。ネト河のもっと上流の、青い山脈のその麓で。
あたしはそちらに向かって泳いでいく。
つらかっただろうなあ……とても正気じゃいられなかっただろう。だって、ただの失恋とはわけが違う。
──叶わぬ恋に身をやつし 腕よりまなごを奪はれて ざんばら髪を振り乱し げに恐ろしき鬼となる──
神楽になって残るくらいだもの。
嫁ぎ先を飛び出して、走って、走って、走り抜けて……ついにあの滝に辿り着いたときは、もう人間をやめていた。
目が血走り、口は裂け、額からは二本の鋭い角。
恨み、悲しみ、妄執に、頭のてっぺんから爪の先まで食い尽くされて。
──牛馬を喰らい 赤子を攫い 男を惑わす鬼が棲む──
つらいのは我に返ったその時だ。
涙を流し、拳をきつく握りしめ、爪の食いこんだ掌が真っ赤に染まる。その手で顔を覆って、項垂れる。
あたしにはどうすることもできない。
滝壺の底でとぐろを巻いて、只々眺めているしかできない。
──若武者これを討ち取りて ここに葬りたてまつる げに哀れなり 哀れなり──
だからおじいちゃんたちがファタルの山中をウロウロしてた時、彼女はわずかな期待をもって待ち構えたのだ。
これでもうやめられる。
終わりにできる。
だけど、ぐらぐら煮える怒りもあった。
絶望もあった。
あのひとは、赤子は、どこにいる。一目会いたいと望むのは、そんなにも罪作りなことなのか。
心のままに生きたいと願っただけなのに、どうしてこんな。
どうして、こんな……
──我が身は鬼となり果てて 遠き月日を思ひけり 吾子のあしたを思ひけり──
あたしはさらに上流へと遡る。
途中で奇妙な三人連れとすれ違った。
剣を佩いた大柄なひと、とんがり帽子をかぶって杖を握った背の高いひと、それから背負子に山のような荷物をくくりつけ、眉間にシワを寄せて何やら怒っているひと。
ああ、あれは若い頃のおじいちゃんだ。
「俺には正気の沙汰とは思えねえや。生まれてもいない孫の許嫁を今から決めるだと? 子どもだってまだまだ小せェくせによ、ちゃんちゃら可笑しいぜ」
その時のおじいちゃんは、あたしよりも何個か年上のようだった。
髪が黒いし肌にハリがある。なつかしいべらんめえ口調はそのままに、剣を佩いた大柄なひとをジロリと睨んだ。
「てめえの人生じゃねェんだぞ! 他人に連れ合いを決められるなんざ、俺ァまっぴら御免だね」
「少々口が過ぎるぞ、シゲよ」
「だいたい孫が女とは限らねェだろ。男ばっか生まれてくるかも知れねェだろ。そうそう都合よく事が運んでたまるかってんだよ!」
「天命なれば必ずや姫を授かろう!!」
おおお、とあたしは少しのけぞった。大柄な人のその声は、銅鑼を叩いたような轟音だったのだ。
だけどおじいちゃんは動じない。
眉間に深いシワを刻み、下からその人を睨みつけた。
「けッ、おめーの天命に巻き込まれるその姫サンが気の毒でしょうがねェや。まるっきり人身御供じゃねえか、笑わせやがる。だからおめーはバカだってんだよ!」
大柄な人は「なぬッ」と唸って目を剥いた。その顔ときたら、地元のお寺にある仁王様に瓜二つ。
ああ、間違いない。
このひとこそが先のエード国王。すなわちコズサ姫のおじいさん。今はファタル霊廟奥の院に眠る“先代様”そのひとだ。
「シゲ!! そこに直れ、素ッ首刎ねてくれる!!」
「なんでェやるのかこのヤロー上等だッ!!」
「まあまあ若様もシゲさんも、ここはお互い引いて下さいませんかのう。どうですじゃ、このマーロウに免じて。ふぉっふぉっふぉっ」
にこやかに笑うマーロウさんだけは今とたいして変わらない。
白く長いひげに、とんがり帽子と魔法の杖。それからのんびり細められた菫色の瞳。
睨み合うおじいちゃんと先代様の間でにこにこ笑っている。
「若様の血を引くその姫が、若様の天命をも引き継いだと致しましょう。しかし、それをどのように全うされるかは……その時次第ということもございましょうよ。ふぉっふぉっふぉっ」
するとおじいちゃん、もう一度「けッ」と吐き捨てそっぽを向いた。
「俺ぁ子どもや孫の将来に口出しなんか、ぜってェしねえけどな!
どんなヤローを連れてくるのか気にはなるかも知れねェけどよ、てめえで選んでてめえで決めやがれってんだ。パン屋になれとも言わねえし、『誰それと一緒になれ』なんて口が裂けても言わねえよ!」
「市井の娘なればそれもよかろう! だがシゲよ、余はエードの」
「知ってらァな!!」
おじいちゃん、おじいちゃん。あたし、そのお姫様と一緒にいるの──聞こえないのを承知で水中から話しかける。
すごく気のいい姫様で、うちのパンを喜んでくれたんだよ。
メロンパンが好きだって。
あたしが初めて龍の洲にきた三歳のとき、お忍びでお店に来たんだって。
「てめえのガキがいま三つ、西の大王のガキは生まれたばかり。そいつらに子どもが出来たとすりゃあ、そいつぁ確かに同世代だよ。けど歳が近けりゃいいってもんでも無ェだろが!」
ああ、同じだ……
あたしと姫様が三つのとき、西の大王は生まれたばかり。歳の違いまで、まるでなにかの符丁のように。
ねえ、おじいちゃん。
あたしたちはどうして龍の洲に来たんだろう。今も、十五年前も、おじいちゃんにとっての『今』この時も。
どうしてなのかな。
誰かに呼ばれたわけでもないのに。
「てめえの人生、てめえで決めろ! おめーが言えねェなら俺が言ってやらあ!!」
おじいちゃん。おじいちゃん。
話したいこといっぱいあるよ。聞いてほしいことたくさんあるよ。教えてほしいことが山ほどあるよ。
だけどわかってる。
これは現実じゃないってわかってる。
目を閉じて水に潜ったあたしの耳に、小さな泣き声が聞こえてくる。
──ふにゃあ ふにゃあ ふにゃあぁぁ──
生まれて間もない赤ちゃんの声だ。その声がするほうへ、あたしはどんどん潜っていった。
それは“龍の通路”の最奥だ。
あたしよりも大きな龍に、あたしよりも小さな龍。みんなそわそわ落ち着かない。
奥の奥の一番奥では、おそろしいほど巨大な龍がうっすら瞼を開けていた。
まるで大地そのもの──長い体の一番端は、地平の彼方まで伸びている。
見えているのかいないのか定かでない目を僅かに開き、横たわる古龍の正体にあたしはすぐにピンときた。
伝説の地の龍だ……
周りを行き交う大小の龍も、神話の古龍に比べたらほんの一本のヒゲ程度。
薄く開けた眸でどこを見つめているんだろう。
きっと、ここではない遠いどこかだ。
天だろうか。
一緒になれなかった天の龍のいる遥か彼方を、この龍はずっと見つめているんだろうか。
ずっと。ずっと。
永い、永い、永い時間。
──ふにゃあ ふぎゃあ ふにゃあ──
遠くかすかな産声に、地の龍の眼が仄かに光る。ほんの僅かに巨躯を震わす。
ごごご、と響くのは地鳴りの音だ。あたしが、おかーさんが、おじーちゃんが、龍の洲に来たときと同じ音。
ああ……地の龍はこの声の主を気にしてる。
龍の血を引く赤ちゃんが生まれるたびに、そっと薄目を明けて耳をそばだてて。
「西の大王のご先祖はね、天の龍だと言われてるんですよ」
本当かどうかわからない、ってコジマくんは言ってたけれど、きっと本当にそうなんだ。
いろんな子がいただろう。
泣いてばかりで心配な子も、寝てばかりで心配な子もいただろう。
初めて笑うその時までは、あれこれ心配で気を揉むもんだ──そう言ってたの、おかーさんだったかな。
──ふぎゃあ ふにゃぁ ふにゃぁぁ──
それにしてもこの声ずっと聞こえてる。
ねえ誰か、抱っこしてあげて。
あやしてあげて。
お母さんはどこ。お父さんは。
炭を塗りこめたような闇の中、あたしは視線を巡らせた。
「吾子や……」
そしてしゃがれた声がぼそりと耳を打ち──セピア色の走馬灯が始まった。
まるで、古い映画のよう。
映写機は胸元の“鬼の眼”だ。
あたしがいるのはネト河でもなきゃファタルの滝壺の底でもなく、瓦礫で出来た特等席。そこに埋もれてひっくり返り、混乱した頭の中は疑問符だらけ。
夢か現か幻か、なにがなんだかわからない。
たった一人の観客さえも、現実は待ってくれない。
映し出されたのは、一組の父と娘──




