095:がれきの鬼神 二
あたしの肩の上で、小さな龍がびくりと震えた。
その向かいでポッポちゃんがスッと首を伸ばしそのまま硬直する。
──ふにゃあ、ふにゃあ──
「コジマ、静かに。何か聞こえる」
コズサ姫が顔を上げて「しッ」と唇に指を当てた。
きょとんと手を止めたコジマくんに対し、耳に手をやり辺りに視線を配っている。
──ふにゃあ、ふぎゃあ、ふにゃあ──
「皆聞こえぬのか。アルゴはどうじゃ。若いのは?……サトコどのは」
「あ、はい……聞こえます。ふにゃーふにゃーって、なんか小っちゃい生き物みたいな……」
「さっきからずっと声を涸らして泣いておる。屋敷のどこぞにおるのであろうが──もしやあれは」
あたしは眉をひそめた。
なんか……どんどん大きくなってるような、そんな気がする。
気のせいだろうか。
例えるなら、眠りが浅いときに聞く目覚まし時計の音のよう。誰かが気づいて止めない限り、いつまでもジリジリと鳴り続け、「ああーもう!」ってなるかんじの……
──ふにゃあ ふにゃあ、にゃぁぁ、ふぎゃあぁぁ──
「あれはもしや──生まれたての」
そのとき、静かだった中庭に異変が起きた。
玉砂利の隙間で、溶けて散らばった鬼の灰がぞわりと動く。
ハッとコジマくんが膝を立て、魔法の杖に手をかけた。
小さな龍が怯えたようにきゅーきゅー騒ぎだし、ポッポちゃんはニュッと首を伸ばしたまま動かない。
レオニさんとアルゴさんの視線が一瞬交錯し、その場の全員が蠢く鬼の灰を注視する──そして、
『……ぁぁ……ぁぁァ……』
もう聞こえないと思った声が、風雨に混じって耳を撫でた。
ざわりと背筋に悪寒が走る。それを誤魔化そうとあたしは無理やり笑って見せた。
「ははは、まさかねぇ。だってさっきやっつけたんだし、今のは気のせい、気のせいで」
『ぁぁぁ……ぁぁあ吾子やぁァァ……』
「サトコさんレオニさんこっち来て、ポッポちゃんは僕の袖! みなさんファタルの龍の足元に!!」
ひええ、やっぱり気のせいじゃなかった!
短い距離をコジマくんの方に駆け寄れば、ファタルの龍がのそりと動き皆を巨体でかばうように陣取った。
びょうびょうと風が吹き、建物がみしみし音をたてる。そのとき、
──ふぎゃぁぁ、ふにゃあ、んぎゃあぁぁぁ──
轟音とともに、空気が大きく渦を巻いた!
優しかった雨がつぶてとなってあたしたちを叩く。祭壇を崩し、木端に変えて上空へと巻き上げる。バリバリと砕けるような音は、屋根の瓦が剥がれるせい。
首に巻きついていた小さな龍が「ぴっ!?」と悲鳴を上げながら飛んでいく。ファタルの龍が咥えて捕まえなければ、そのままどこかへ行ってただろう。
「コジマくん! ど、ど、どーすんのこれ、このまま外にいたらあたしたち」
「だめです、中に入っても建物ごと吹き飛ばされちゃう!」
「じゃあどーすんのよぉぉ」
「ファタルの龍に掴まって! 龍が竜巻にやられるってことはない筈だから!」
轟音に混じって鬼の声が聞こえる。咆哮のような、慟哭のような、哄笑のような、怨々と轟く絶叫がこだまする。
『吾子や、ああ、ああ……吾子やぁァァ』
天変地異だ。
完全に天変地異だ。
屋敷の壁は崩れ、柱は折れ、瓦は屋根から剥がれてがしゃんと割れる。それを竜巻が吸い上げて、徐々に、徐々に──ひとつにまとまり形になっていく。
あたしたちの目の前で瓦礫の山は風に巻き上げられ、人に似た形を作りはじめていた。
「……祟り神か」
手ができる。
脚ができる。
中庭を囲む渡り廊下の床板が剥がれ、風に巻き上げられて祟り神がまた一回り大きくなる。
暴風吹きすさぶ中コズサ姫はアルゴさんの体に両腕をまわし、あたしはレオニさんにしがみつき、コジマくんはとんがり帽子のつばをおさえ、鬼のシルエットが育つのを呆然と見つめていた。「うそでしょ」と呟く声も、とどろく雨風で聞こえない。
『恨、めし……やぁァ……ァぁぁ吾子の……いの、ちィィ』
「ねえ、これ──これ放っといたらまずいんでしょ、コジマくん!」
「そりゃあもう非常にマズイでしょうね!! 肉体を滅ぼしたことが仇になって、憑りついてた鬼神が野放しになっちゃったんです。自分の家屋敷バラして仮初の器を作ってますけど、出来上がったら恨みを晴らそうと動き出しますよっ」
恨みを晴らす。その言葉にコズサ姫が御顔を上げる。
「コジマよ。それはつまり、あの瓦礫の山が誰ぞに襲いかかるということかッ」
「まあそーゆーことです! 若武者、パン屋の小僧、魔法使い──その次世代であるコズサ姫、サトコさん、そして僕。この三人は間違いなく狙われます。都に来てるお師匠様も見つかり次第襲われるでしょう。ファタルの龍のことはどうやら眼中にないっぽいですね。それから……」
「それから、なんじゃ!?」
「それから、僕らが知らないけれど鬼の恨みを買ってる人物です。この屋敷の魔法使いが鬼に変じた、その原因を作った人物です!」
アルゴさんとあたしの目がバチッと合った──同時に思い出したのは、あの部屋で見た死せる女のこと。
背筋に寒気が走ってあたしは大きく身震いし、アルゴさんは苦しげな呼吸とともに言葉を絞り出す。
「……この屋敷の主は娘を亡くしている。おそらく、ほんの数日前のことだ……異様な死に様であった。鬼に身をやつすも已むを得まいと思えるほどの。娘の死に関わった者は、確実に祟られよう」
「しかし隊長、それは」
「──大王様じゃ」
掠れる声でコズサ姫が呟いた。
「大王様をお恨み申すと、鬼は口走っておった。エードの姫に恨みはないが、大王様をお恨み申すと」
「ひいさま」
「ここの娘御が何故死んだかわらわは知らぬ。大王様とは関わりなきことと思うておる。それでも彼奴はそう申したのじゃ……大王様を、お恨み申すと!」
姫様の瞳が大きく揺らぐ。
誰かの喉がごくりと鳴る。
その音が強風にかき消される。
「ひいさま」
それでもアルゴさんの声だけはしっかり聞こえた。
「お気を強く、確かになさいませ……いま出来ることをなさるのです」
その眼差しには力があった。
コズサ姫をしっかり見据え、一言一言を噛み砕くように、アルゴさんは言って聞かせる。
「御所に向かうのです。
龍の洲を統べる王の中の王、それが祟られたとあっては御輿入れどころでは御座いませぬ。それどころか天下騒乱の元ともなりまする。
典医どのが都のお偉方を訊ねたのなら、それはやはり御所でありましょう。ここに弟子ひとりでは心もとなくとも、典医どのと宮仕えの魔法使いどもが加われば調伏するも可能と存じます」
「えーちょっと隊長さん、僕を使えない人材みたいに言うのは」
「行かれませ、ひいさま──あなた様でなければ出来ぬことに御座います」
アルゴさんはそれをどんな気持ちで言ったのか……あたしには、量れない。
それでもコズサ姫はわずかな逡巡のあと、頷いた。
「そうするッ」
アルゴさんも頷いた。
「なれば早い方がよう御座いましょう」
「うん」
「行かれませ。さあッ」
「うん!……アルゴよ、おぬしは」
「動けるようになり次第、参りまする──弟子、レオニ! ひいさまをよく御守りせよ!」
「はいッ」
「サトコどのも共に参れ! 御所の守りは何処よりも固い、コズサ姫の供連れなれば締め出されることはないはずだ!」
「は、はい!」
大怪我したアルゴさんを置いて行くのは躊躇われる。
だけど行かなくちゃ。この中庭を出て、屋敷の敷地を抜け、危険を知らせるために西の御所へ。
一番後ろ髪引かれてるのは、姫様だ。ファタルの龍の巨体にそっと手を触れ「アルゴをなにとぞ、お頼み申す」と頭を下げた。
「行こうッ」
決意とともに、あたしたちは立ち上がった。
振り返って鬼神を見れば、まるで小山のよう。あいつを本当になんとかしなきゃ、なにも解決なんかしないのだ。
だから今ここを後にする。
──はずだった。
「場所はポッポちゃんが知ってます!」
風に逆らってコジマくんが叫んだ、その瞬間──いっそう強い風にあおられ、体がふわりと宙に浮いた!
「ぎゃっ……」
「サトコどのっ!」
「あああまだ庭を出てもいないのにーーー!?」
だけど、すぐに気がついた。
あたしじゃない。浮いたのはあたしじゃない。風に連れ去られそうなのはあたしじゃない──あたしがしがみついている、レオニさんだ!
それに気づくと同時に、「ハッ」と魔法使いの弟子が目を瞠る。
「わ……わかった! 僕わかっちゃった!」
「なに!? なんなの!?」
「鬼が集めてるのは瓦礫じゃありません! あいつが一生懸命集めているのは“自分に連なるもの”なんです! 長年過ごした自分の家をバラして壊してかき集め、仮初の体の材料にして、他に使えそうなものを探した結果が“楔”ですよ。楔を刺したレオニさんもまた“鬼のもの”だと、そーゆーことなんです!」
なんですって──あたしは強風に逆らい、無我夢中でレオニさんにしがみついた。
「冗談じゃないわよそんなの! コジマくん手伝って!!」
「りょーかい!」
「わらわもッ!」
あたしたちを引き剥がそうと風が唸りを上げる。
振り払おうとするレオニさんの手を無理やり掴み、コジマくんが片方の足を捕まえ、コズサ姫は腰のあたりにぶらさがった。
四人揃って宙に浮きかけ、レオニさんが顔色を変える。
「い……いけません姫様、先をお急ぎください!」
「馬鹿を申すな! そういうわけにいくものかッ」
「コジマさんも、自分のことはいいですから!」
「なにゆってんの、そんな薄情なことできるわけないでしょー!?」
「サトコさんっ!」
その時いっそう強く風が吹き荒れた。
「離すんだ、サトコさん」
あたしは首をぶんぶん横に振った。
「は……離しませんっ」
「離せ、あなたまで取り込まれる!」
だって、ここで離したら。
ここでこの手を離したら。
レオニさんは鬼の材料にされ、二度とは会えないだろう。言葉を交わすことも、肩を並べて笑うことも、二度とできない。
なんのために鬼の幻を振り切って戻ってきたかわからなくなってしまう。
そんなの、絶対に嫌だ!!
「だめ! 絶対離さない……離すもんかッ!!」
決意を言葉にすれば、自分の声に背中を押される。屋敷を瓦礫に変えて巨大化した鬼神に向かい、あたしは大声で叫んだ。
「絶対、絶対、離さない! あんたなんかにレオニさんはあげないんだからーーー!!」
『……ならばァァ……おまえをォォ……連れて行かんンンン』
──ごう──
「へっ?」
耳元で風が唸った。
またも体が宙に浮く。
あたしの手は捕まえていたレオニさんからアッサリ外れ、虚空を彷徨った。
驚いたような姫様の顔、目を丸くするコジマくん、少し離れたところでアルゴさんが半分口を開け、金色の龍はどっしり構えて動かない。その角のあたりで小さな龍がオロオロしている。
──それが視界に入った、その一瞬後。
あたしの体を暴風が思いきり巻き上げた!
「ぎゃ……!」
「サトコさん!?」
「うそ、うそ、ぎゃーーーーーッッ」
「サトコさーーーん!!」
木の葉のようにぐるぐると、あたしの体は宙を舞った。
サトコさん、サトコさん、と叫ぶのは誰だろう。
レオニさんだろうか。
レオニさんだと嬉しいな。
そんな場違いな考えが脳裏をよぎり、いっそう高く巻き上げられて──
巨大化した瓦礫の鬼に取り込まれ、あたしは意識を失った。