093:鳴弦
声が聞こえる。
嘲るようでもあり、憤るようでもあり、ほんのわずかに疲れたような……そんな声。
『残るは姫よ。そなただけじゃ』
あたしはハッと目を開けた。
戻ってきた。そうだ、戻ってきたんだ。
両目が少しずつ闇に慣れ、あるいは周囲にまとわりついた闇が消え、人影がぼんやり浮かび上がる──祭壇の炎がぱちりと爆ぜた。
『おほほ、怒れる姿もうるわしや……憎かろうのう、口惜しかろうのう。
頼れる近衛士、異界の友、忠義一途の御守役、足元にバタバタと倒れておる。ここで吾が首取らいでは腹の虫がおさまるまい。ほほほほほ』
「……その方の首など、欲しゅうない」
『申せ!』
半身を起こして目を凝らせば、炎の向こうに誰かいる。長柄の武器を握りしめた小さな女の子──向かい合って睨み合う、鬼。
額に二本の長い角。
手にした魔法使いの杖だけが、人間だった時のかすかな名残。
『吾が憎いとそう申せ。その首落とすとそう申せ。大王様への手土産に、この首呉れてやるわいな!』
「要らぬッ、そんなもの!」
そっと視線を巡らせる。
立っているのは小さなコズサ姫、ただ一人。あたしの真後ろにはレオニさんが横たわり、少し離れた血溜まりでアルゴさんがかすかに呻く。
『よきかなよきかな、嫁入り道具に鬼の首……ほほほ、さぞや驚かれよう大王様は!
げにおそろしき女よと、必ずや思し召されよう。さすれば閨への御呼びはかかるまい。形ばかりの后であれば、とても御世継は望めぬのう……重畳、重畳、まことに重畳!』
「なんたる言い草じゃ……!」
『それでも御子は産まねばならぬ、心を他所に置いたまま!
おうおう可哀想な姫よ、己が宿命に押しつぶされてそなたの心は真っ二つ……心開けぬなら体も開けるまい。務目は果たせそうにもないのう、エードの姫よ! あな楽し、あな嬉し、おほほほ!!』
コズサ姫の表情は凍りつき、握った鉾を振るえない。
それを見て鬼は嗤う。エードの姫を血祭りに上げるのが、心も体も痛めつけ暗闇のどん底に突き落とせるのが嬉しくてたまらない……そんなふうに。
このままでは姫様がやられてしまう。
なんとかしなきゃ。
だってそのために戻ったんだから。
「……嗤うなッ……!」
あたしは暗闇の中、軋む体を動かした。
「我らが、エードが、其の方に何をした。何の恨みがあってこのような」
コズサ姫が苦しげに呻く。
鬼は高笑いをやめ、束の間の静寂が中庭を包む。
『……恨みなど』
その時あたしは自分がまだ弓を握っていることに気がついた。
──矢は。
矢はどこなの!?
『エードの姫に恨みなど。思うたように生きられぬこと、あはれなりと思いこそすれ』
「ならば何故じゃ!」
あった、あれだ!
息をひそめて目を走らせたその向こう、地に落ちた矢筒から覗くのは美しい矢羽。よかった、ここからでも手が届く──引き寄せれてみればその数三本。
狙うべき敵は、ひとり。
『そうよのう』
そわそわしながら息を飲む。乾いた唇を湿らせる。
鬼は気づいていない。姫様も気づいていない。ただ一人アルゴさんだけが浅い呼吸の下、ちらと目の端であたしを見た。
その唇がわずかに動く。
『しいて申さば、大王様をお恨み申さん』
──やれ。
「何故じゃ──大王様が、いったい何を」
『ほほほ、言えば惨めになるでのう』
「わかるように申せ!!」
あたしは小さく頷き、ひとつ身震いした。そうだ、やるんだ。今しかない。
震える指で矢をつがえる。渾身の力を込めて、固い弦をぐいと引き──そして放つ!
バチン……!!
『ほォ』
それから、ガタガタ震えながら次の一本を手で探った。
『呪いの淵より戻ってきたか』
やばい。
やばいやばいやばい。
勇気を振り絞ったあたしの一射は、狙った的を大きく外した。まるで見当違いの方へと飛んでいき、どこに落ちたかわからない。
──外してしまったのだ。
鬼がゆっくりこちらを向いて、潰れた両目をあたしに据える。
『侮っておったぞパン屋の娘。か弱き市井の娘と思うたに』
そりゃそうだ、弓なんてド素人もいいところ。触るのだってさっきが初めてなのだ。
だけどここで負けるわけには絶対いかない。
せめて、せめて言葉だけでも、強く出なければ……!
「ふ──ふんだ、この根性悪! な、な、なんでも思い通りになるって思ったら、大間違いだわよっ」
『そうかそうか、そうかもしれぬ。根性悪か。ほ、ほ、ほ』
「ひ、ひ、姫様の心を折って、西の大王と上手く行かなきゃいいって思ってるみたいですけどねっ! あたしでさえギリギリ折れてないもんが、どうしてそう簡単に」
『そうかそうか──なれば情けなどかけず、先に息の根止めてくれよう!』
ヒェッ、と悲鳴が喉に張り付いた。
『甘き夢にとどまりおれば良かろうものを!! 楔も役に立たぬのう……ひとたびの鳴弦にも耐えぬとは!』
二本目を、二本目をつがえなきゃ……早く早く早く!
指が震えて、腕がしびれて、狙いが定まらない。座り込んだまま後ずされば、倒れて目覚めないレオニさんにぶつかった。
祭壇の炎を背に鬼が迫る。手にした魔法の杖を、血に濡れた短剣に持ち替えて──
『さて、どのように致そうかパン屋の娘よ。なるべく痛いように致そうか。見るに堪えぬ無残な最期がよかろうのう……見ておれ姫よ! そなたのためにこの娘は』
「ひえぇェェ」
『此処で命を散らすのよ! そなたと出会うたばっかりに!!』
あたしの名をコズサ姫が叫ぶ。
ギラリと光る刃を振り上げ、鬼が早足であたしに迫る。
一瞬後に襲ってくる激痛を予感し、あたしはきつくまぶたを閉じて──だけど刃物は振り下ろされず、
びしッ
と短い音がした。続いて二度、三度──びしッ、びしッ、と繰り返す。
「な……なに、なんなの……?」
あたしは恐々と目を開けた。
鬼はもう、こっちを見ていない。見えないはずの目であいつはアルゴさんを睨んでいた。
『動けるのか』
血に濡れたその体をアルゴさんは起こしていた。両の眸に炎が映り、ぎらりと光る。
『動けるのか、エードの近衛の大将よ!』
アルゴさんは答えない。
膝をつき、片手で傷を押さえ、もう片方の手に掴むのは──自分の血で染まった玉砂利だ。
そして肩で苦しげに息をして、わずかに腕を動かしたその直後。
びしッ
『ぐ……ッ』
短く呻いた鬼の手から短剣が落ちた。
『……おのれェ』
「アルゴ!」
『おのれェェ今度こそ取り殺してくりょうぞ!!』
そこから先は一瞬だった。
左手に弓、右手に矢を握ったまま、あたしは呆然とそれを見ていた。
鬼が全身をばねにしてアルゴさんに迫る。
そこにコズサ姫が駆け込み、鉾を両手に立ちはだかった。
だけどその鉾を、異形の手に掴まれ奪われる。
穂先が姫様を向く一瞬前に、アルゴさんが小さな体を突き飛ばし────やだ。
やだ。
やだやだ嫌だこんなの、ぜったい嫌だ!
『これで終いじゃ!!』
無我夢中で、金縛りに抗いながら、あたしは体を動かした。
左に弓。右に矢。
つがえて。
狙うんだ。
震えるな。
震えるな。
今度こそ。
今度こそ。
今度こそ──そのとき、背中に温度を感じ──次いで、矢が放たれた!
──バチン!!
『がッ……!』
鬼が呻いた。背中に矢羽を突き立てて。
『……おのれ!』
背中が暖かい。
座り込んだあたしの両手を弓矢ごと、大きな手が掴んでいる。
耳元に短い呼気。
ばくばくと胸が騒いでいる。痛いくらい。後ろから回された強い腕、あたしの手をつつむその指先。堪らず、あたしはその名を呼んだ。
「……レオニさん」
『おのれぇェェェェ』
「レオニさん!!」
鬼がふたたびあたしを睨んだ。祭壇の炎を背に、奪った鉾を手に迫りくる。
だけど。
だけど怖くない。胸が熱くて涙が出そう。
『役立たずめが! 役立たずめが!! この、この、この』
背中を抱くように回されたその腕が、最後に残った矢を素早く掴む。
即座につがえ、あたしの手の上から弦を引き、ぎりりと絞って──そして放つ!
『この役立たずの楔めがぁぁァ』
──バチン!!
至近距離からの一射で鬼の体が大きく傾いた。
胸に突き刺さる矢の勢いを殺せず、鬼はそのまま後ろに──燃える祭壇に倒れ込む。
『があァァァぁああ!!』
咆哮が天を貫いた。
『許さぬ、許さぬ、許さぬぞォォ!!』
髪を、服を、火が包む。全身に炎を纏った鬼が、火の粉を巻きあげて舞い狂う。
あたしは腰を抜かし、息も出来ずに見つめていた。片手に弓を掴んだまま。後ろから声を掛けられるまで、ずっと。
「……下がって、サトコさん」
あたしはハッと振り返った。
「下がって下さい。姫様と隊長のそばに」
「でも」
「下がるんだ! この程度で鬼が斃れるとは思えないッ」
「でもレオニさん!」
やだやだやだ、離れたくない。
楔が打たれたとき、霊廟で逃げ惑ったとき、良くないことはいつだって離れた時に起きたんだ。
繰り返したくない。
これ以上悪いことがあったら耐えられない!
「一緒にいますっ、絶対離れない!」
「な……だめだ下がれ! あなたを守り、鬼を討ち、エードの近衛士として散るのなら」
「ぎゃーやめて! 散るとか言わないで! 絶対だめーーーっ!!」
言い合うあたしたちに鬼が一歩を踏み出した。
腰を抜かしたあたしをレオニさんが背に庇う。そして鬼が落とした短剣を握り、立ち上がって低く腰を落とし──
そのとき、闇夜に白いものがひらりと舞った。
それは真っ白な羽根だった。
まるで時が止まったようにゆっくりと、あたしの目の前に落ちてくる。小さな龍が「きゅー」と鳴き──あたしは空を見上げた。
くるくる くるっぽー
「ポッポちゃんっ!」
リュックから小さい龍が顔を出し、そのままあたしの肩、首、頭へとしゅるしゅる上る。きゅーきゅー、きゅーきゅー、何かを呼ぶように鳴いている。
そしてあたしの耳にもたしかに聞こえた。
──ごわあ──
大きな大きな生きものが、空気を震わせるあの音に混じって。
「……サー…………さぁぁ……!」
あたしは白い鳩の羽根を手に、ふらつきながら立ち上がった。
「サー……コ、さぁぁん……!」
空の彼方に一際大きな光る星。
その光がどんどん大きくなる。近づいてくる。
声を限りにあたしも叫んだ。
「コージーマー、くぅぅぅん!!」
それから大きく手を振った。
夜空の彼方、黄金の龍がこちらに向かってやってくる。その背に乗った魔法使いが、ぶんぶんと両手を振っていた。




