092:楔 三
差し伸べられたその手を、忘れようはずもない。
顔も声も覚えてる。
あたしが初めて恋をして、ことあるごとに思い出す、今となっては懐かしい人──山野くん。
「でも、なんでここに」
目を白黒させてあたしは呆然と呟いた。
「なんでって。連休始まったから帰省してるんだよ」
「連休?」
おうむ返しに呟いて慌ててカレンダーを確認する。
──カレンダー?
「えっ、うそ。やだ、ここお店!?」
「基本的にいつもお店でしょ? そのまま就職って前言ってたし」
「たしかに言ったけど……や、そうじゃなくて、そうじゃなくて」
あたしは立ち上がって自分の姿を確認した。ジーンズにコック服、髪を結わえて足元はお店用の靴で……手にはさっきのトング。
な──なんで?
だってあたし、さっきまで……
「ちょっとサトコー、焼き上がったの並べとけって言ったじゃない、あんたいつまで売り場でぼーっとして……あらっ! 山野くんじゃない、しばらくねえ」
……だってあたし、さっきまで。
「こんにちは。おひさしぶりです」
「聞いたわよ、いま東京の大学なんですって? なになにどーしたの、帰省中?」
母が厨房から顔を出し、思考が途中で遮られた。「そっかーもう五月に入ったのねぇ」なんてニコニコしながらこっちに来ると、「お茶でも淹れといで、わざわざ寄ってくれたんだから!」と耳打ちする。
「でも──でもあたし、それどころじゃ」
「なに言ってんの。これが最後のチャンスかもしれないんだから、しっかり捕まえときなさいって」
「チャンスって」
「そうそう、ついでにオーブン開けてきてよ。さっきタイマー鳴ったから」
あ、うん。
曖昧に返事をしてあたしは厨房に引っ込んだ。握ってたトングを洗い場に置いて、溜息一つ。それから首を傾げる。
なんだろう……なんだっけ。すごく大事なこと考えてたはずなんだけど。
「なんだろ……もやもやする」
ぶつぶつ言いながらオーブンを開けると、中ではアンパンが焼き上がっていた。
可愛らしいまん丸フォルムをトレーに乗せれば、甘い匂いに鼻先をくすぐられる。
ああそうだ、アンパン作れるようになりたいって言われてたのに、まだ何も教えてない。落ち着いたらマンツーマンでパン教室をしなくっちゃ。
あれ、でも──
「……誰と?」
おかしいなあ……なんか、スッキリしない。
首を傾げながら売り場に戻ると、母と山野くんはまだ世間話をしていた。イートインスペースに腰掛けてとっくり語り合う態勢になっている。
アンパンを並べながら聞くともなしに聞けば、おかーさんはいつものように言いたい放題だ。
「いろいろサトコに聞かせてやってよ。朝から晩までお店ん中で、運動不足だわ世間から置いてかれるわ、まだ十八だってのに」
「でも偉いですよ働いてるんだから」
「あーそう言ってくれるの山野くんだけよぉ。いーえ働いてるったって見習いだもの、ぺーぺーよ、ぺーぺー。で、どうしたの今日は」
「これから高校のやつら何人かで集まるんです。松尾さんにも連絡行ってると思うんだけど」
「ですってよサトコ! 予定あんなら早めに言ってちょうだいよ」
「へっ、そうなの?」
そうなの? じゃないわよまったく、ぼやっとしてるんだから。さっさと上行って支度しな、だらしないカッコで行くんじゃないわよ──
矢継ぎ早に繰り出される母の言葉に追い立てられ、しぶしぶ階段を上がる。お茶は結局淹れそびれてしまった。
なんか、おかしい。
なんか、変だ。
だってあたしはさっきまで……さっきまで……
「……何してたんだっけ」
まあ、思い出せないんじゃしょうがない。
部屋に戻ってスマホを見れば、たしかに『今日は何時に集合』と連絡が入っていた。メンツを確認すればあたしと山野くんの共通の友人ばっかりだ──あ、ちょっとわくわくしてきたかも。迎えに来たのが山野くんだってのが少しばかり気まずいけれど……
だいじょうぶよね、たぶん。
あたしたちがぎくしゃくしたのは一年近く前のことだし、相手は大学、こっちは一応社会人。お互い大人になったんだから。
もう十八歳。
二年もすればハタチだし、だいたいあっちなんか十五で成人だし……
「……あっちってどっち?」
うーん、と唸ってあたしはもう一度首を傾げた。
一体どうしちゃったんだろう。
仕事中なのにボーッとするし、何だか地に足がつかないというか……気が緩むにしたってちょっとヒドイ。
頭をぶんぶん振ってほっぺをぴしゃぴしゃ叩き、あたしはお出かけの支度に取り掛かった。
──さて、何を着て行こう。
いっつもTシャツ、ジーンズにスニーカー。けど、それじゃいくら何でも味気ないかな。とはいえあんまりめかし込むのも変だろうから、ちょっとキレイめの上着を羽織るくらいにしとこうか。
荷物はそんなになくてもいいだろう。リップクリームにハンカチ・ティッシュ、あとはお財布くらいかな。
あ、そうだ腕時計つけてこう。みんなは時計がなくても時間がわかるみたいだけど、あたしの体内時計はそんなに正確ではないし……
「……誰? みんなって」
首を傾げながら荷物をショルダーバッグに放り込み、あたしはパタパタと階段を下りた。
「お待たせー」
一階に下りると、母とお喋りを続けてた山野くんがこちらを向いた。
ばっちり目が合い、心臓がドキンと跳ねる──ま、気のせい気のせい。そんな気がしたってだけだろう。
久しぶりだから緊張してるんだ。少しだけ。
遅くなるんなら連絡しなさいよーという母の声を背に、こうしてあたしたちは連れだって店を出た。
「山野くん、自転車で来たんだ」
「うん。後ろに乗る?」
「いいよぉ、また警察につかまったらやだし」
あたしが苦笑いすると、山野くんも同じように笑った。
「あったねそんなこと。ちょうどこの道だったっけ」
「そうそうこの河川敷。お花見の帰りに怒られて、『名前と学校名を言いなさい!』って」
待ち合わせの場所まで、川沿いの道をのんびり歩く。
心配してたような気まずさはなく、意外なくらい普通に──ちょっと高めのテンションで──喋れてる。
不自然じゃない。だいじょうぶ。
「大学でもお花見したんでしょ?」
「うん、新歓の時にね」
「お酒飲んだりするの?」
「先輩はめちゃめちゃ飲んでたよ。酔っぱらって川に落ちてたし」
「やだあ、ほんとにそんな人いるんだ」
あはは、とあたしはまた笑った。
「あたしもこないだ河に落ちてね、すごい大変だったんだ」
「松尾さんが? 酔っぱらったの?」
「違うってば、悪いやつが火矢を飛ばしてきたから河に飛び込んで避難したの。そしたらそこに龍が棲んでてね、齧られるかと思っちゃった」
──火矢? 龍?
何言ってんだろう、あたし。
眉をひそめて首を傾げたけれど山野くんはいたって普通だ。
隣で自転車を押しながら「大変だったね、でも無事で良かったじゃん」なんて、ごく一般的な反応が返ってきた。
「うん……まあ無事は無事だったんだけど。そのあともけっこう大変でね」
「それはそうだよ、日本が一番だって」
「うーん、まあそれは確かにそうなんだけど……」
その後の言葉が続かない。
日本が平和なのは当たり前。もう何十年も平和そのもの。それというのも、個人の幸せをすべて押し込め、天下泰平に人生を捧げる人がいたからで……いや違う、これは民主主義やら先人の努力やら、そういうものの賜物だ。
……やめやめ、難しい話で空気を重くしたってしょうがない。話題を変えよう!
「でも山野くん、なんでわざわざお店に来たの? 連絡ちゃんと来てたから、あとで確認して参加するなり断るなり」
「──松尾さん、おれさ」
あたしの言葉を遮って山野くんがぴたりと足を止めた。
「おれ、大学出たらこっちで就職しようと思ってるんだ」
思わぬ発言にあたしも足を止めた。
「──へっ?」
「もちろん入学したばかりだから、だいぶ気が早いってわかってるけどさ。でも今言わなきゃ松尾さん戻って来ないと思って」
「へ? は? ど……どこから?」
「だから今日、迎えに来たんだ」
あたしは口をぱくぱくさせた。
もしかして、もしかしてあたし、いま山野くんに迫られ……
「こっちで生きて行こうよ、松尾さん。
ここで生まれてここで育ったんだから。お店継いで、ずっと続けるつもりでしょ? もしも嫌じゃなければ手伝わせてよ」
「で、でも──えっ、山野くんパン屋になるの? 大学は?」
「学生のうちは遠距離だし、職人になるのは難しいだろうけど。でもおれ、松尾さんのこと好きなんだ。あんな中途半端な別れ方して、ずっと後悔してた。
もう一度きちんと話したいって思ってた」
山野くんの表情がよく見えない。木漏れ日がそよぎ、逆光が眩しくて目をすがめる。
「……迎えに来たら、だめだった?」
あたしは首を横に振った。
そんなことない。
そんなこと、決してない。
だって中途半端な別れが心に引っかかって、くよくよ気にしてたのはあたしの方なんだから。
心底嫌いで別れたわけじゃない。
お互いに未熟だから上手くいかなかっただけで、きっと今ならだいじょうぶ。あたしだって多少は経験を積んだのだ。これでも、それなりに色々あって……
……色々、何があったの?
喉に引っかかった魚の小骨みたい。
なにかが絡まってほどけない。
山野くんが何か言っている──だからこっちを見てよ、松尾さん。ここで生きて行こう。ここで幸せになろう。ここで働いて、暮らして、いつか家族になって──
その声が聞こえない。意味が飲み込めない。
あたしは逆光に翳るシルエットから視線を外し、彷徨わせた。
川面に陽光が跳ね返り、まぶたに刺さる。せせらぎに小舟が行きかう。遠くの鉄橋を電車が渡り──
違う。
もっと大きな河だった。
橋がかけられないほどの広い河。橋がないからゴンドラで行き来して、船頭さんの舟歌を聴いて、襲われて水に落ちて……違うそうじゃない、落とされたんだ。
強い腕に抱えられて、放られて、「がんばって泳げ」って言われたんだ。
だから必死で泳いで、だけど足をつって、大きな龍があたしを押し上げて……
「きゅー!」
あたしは目を見開いた。
知ってる、今の声。そう思うと同時に、頭の中で早回しの映像が流れ始める。
白亜の城。
満天の星。
碧のお堀。
流れる大河。
咲き誇る花。
小さな手。
幼い指。
胸に挿す花の枝。
黄色とピンクの花吹雪。
歩き出す二人。なにごとも──なにごとも、無かったように。
立ち尽くすしかできない。
あたしはどうしてここにいるの。
「松尾さん?」
覚えてる。忘れてなんかない。
振り返るなと叫ぶ声。
横顔を照らす真っ赤な夕陽。
眼差しが熱い。
大きな手を差し伸べて、あたしを招くのだ。
ぜんぶ、ぜんぶ、覚えてる。
揺れる幌馬車。
やさしい甘さのお団子。
右手でぐいと弓をひく。
矢を左手でかたどって。
その指先をあたしに向けたのは──
「松尾さん? どうしたの、急にぼーっとして」
「……ごめん」
絞り出した声は弱くって。
あたしの目の前にいるこの人は、誰なんだろう。
ここはいったい何処なんだろう。
この時間は、いったい何なの。
「ごめん……ごめんね、山野くん。あたし行かなくちゃ」
「何処へ」
「さっきまでいたところ」
「何故」
キレイめの上着は消えてなくなった。ショルダーバックもどこかに行った。
あたしが羽織ってるのは汗と涙と土で汚れたよれよれの上着で、胸元には不吉な名前の白い石。背中に背負ったのは預かり物の魔法のリュック、そこから小さな龍が顔を出してきゅーきゅー騒いでいる。
ありがとう……ありがとね。
あたしを正気に戻してくれて。
「何故だ。ここはあなたの場所なのに。あなたが生まれた場所なのに」
「うん。わかってる」
「ここで暮らすのがあなたの幸せだと」
「うん。あたしもそう思う」
「ここなら側にいられると」
「うん……ごめんね。ごめんなさい」
きらめく水面も、河川敷も、遠くに見える鉄橋も、みんな消えた。表情が見えないのは逆光のせいじゃない。あたしを捉えた暗闇のせい。
もしかしたら、これは気遣いなのかもしれない。
幸せな景色を見せて、あったかもしれない未来を見せて、怖いことのない日常の中にいられるように。
ぬるま湯につかって一緒にふやけて、いつかとろけてしまうことだって、きっと出来た。
でもそれは死ぬのと同じだ。
鬼の術に飲み込まれて、殺されるのと同じだ。
でもだいじょうぶ。あたしは戻れる。
自分の手を見てみればいい。
あたしは何も落としてなんかいなかった。掴んだ神器はまだここにある。
一張りの弓──つがえる矢はきっと、この幻の闇の外。取りに行こう。みんなもそこに居る。
「ねえ“楔”……山野くんのフリなんてしなくていいんだよ。あんたが憑りついたその人と、そのまま喋れた方があたしは嬉しい」
持ち方は見せてもらったから知っている──あたしは左手で弓を持ち、空の右手を弦にかけた。
楔が哀しそうにするから胸が痛い。
あたしは矢のない弓を正面に向け、ぐいと弦を引き絞った。
「さよなら、山野くん」
そして放つ。
バチン──!!
破裂するような音とともに、空気の鳴動とともに、あたしを捕まえていた闇がはじけて消えた。
山野くんの面影が表面から剥がれ落ち、楔は眠るように目を閉じる。そしてゆっくりと倒れ込み──その途端あたしの体からも力が抜けた。
今、あたしは別れを告げたのだ。
生まれ育った故郷に。
送るはずだった人生に。
忘れようもない、初恋の人に。
さよなら。
さよなら、山野くん。




