091:楔 二
風のような早さでアルゴさんを血溜まりに沈め、その人はニコリと笑った。
「良かった、また会えて……ね、サトコさん」
ほぼ同時にあたしの背後で悲鳴が上がった。
「なんたること……!」
中庭に繋がる渡り廊下の向こう、息を切らし、肩を上下させ、口元に手をやって──膝をついたアルゴさんを見て目を瞠る。
“楔”を追って今まさに駆けつけたのだろう。
ただ呆然と、コズサ姫は声を震わせた。
「なんたることじゃ……なんたることじゃ」
傷を押さえる手を、歯を食いしばる口許を、額に浮いた玉の汗を、白砂に染み込む真っ赤な血を──そして自分に瓜二つの幼い影と、その手に光る白刃を。
姫様の視線は一つずつ捉えていった。
何が起きたかわからない。ふらりふらりと前のめりに進み、だけど中庭に入れない。
それを見て鬼が嗤った。
『姫がふたり。姫がふたり……あな嬉し、あな楽し! その男を刺したは吾にあらず、おまえの供連れがしたことよ。ほほほ、エードの大将も目を白黒させておる……何の魔法が使われたのか見ておらぬでは無理もない』
鬼の手にはいつのまにか杖が握られていた。魔法使いが持つ曲がった樫の杖。それを高く掲げ、どん、と大きく砂利を突く。
『種明かしをしてくれようぞ──いざ、戻れッ』
──バン!!
空気が破裂し、祭壇の炎が巻き上がった。
あたしは思わず目をつぶり──次に見た光景に、今度こそ悲鳴を上げた。
「レ……レオニさんっ! ちょっとあんた、なんてことするの!?」
膝をついたアルゴさんが顔を上げ、後ろでコズサ姫が息を飲む。
あたしは倒れたレオニさんに駆け寄った。おそるおそる頬に触れれば、冷たいのか温かいのかわからない──指先が震えて、わからない。
「無理やり解いたでしょっ。コジマくんの魔法、無理やり解いたでしょ! バーン!!ってなるからダメなのに、なんてことするのよ……!」
なんたること、と再び呻いたのは誰だろう。
あたしは動かないレオニさんの頭を抱え、涙声で名前を呼んだ。
「レオニさん、レオニさん」
返事して。
お願い、お願い、返事して。
こんなところで、こんな形で、楔が刺さって魂を奪われたままなんて。
あたしを追っかけまわした揚句、通り魔のようにアルゴさんを刺して、鬼にバーン!!ってされる最期だなんて。
名前を呼びながら、あたしは泣きじゃくった。その後ろで──
「……許さぬッ」
コズサ姫が低く唸った。ぎりりと奥歯を噛みしめ、くり返す。
「決して許さぬッ!!」
──そして弾丸のように飛び出した!
砂利を蹴散らし、まっしぐらに中庭に駆け込んで、あたしの横を旋風のようにすり抜ける。
並んだ神器に手を伸ばし掴んだのは一振りの鉾。頭上に大きく振りかぶり、怒りを炸裂させながら迷うことなく鬼へと挑みかかった!
「わぁァァーーーーッッ!!」
『ほほほ、なんと剛毅な姫よのう……その体にその得物、さぞや荷が重かろう』
だけどその動きはどう見たってメチャクチャで──ゆらりゆらりと舞うように、鬼は祭壇を回りこむ。コズサ姫の鉾が届かない、ギリギリの位置に足を置く。
何も見えていないはずなのに。
『さあ、此れから如何するエードの姫よ』
嗤いながら。嘲りながら。呪いの言葉を降らせながら。
『頼りの近衛士たちがその有り様ではのう。おほほほほ』
「黙れッ」
『勝ち目など初めッから有りはせぬのよ。吾が楔を魂に穿たれ、姿かたちはそなたと同じ……そこの守役に何ができようか!
別人であると知っていようがいるまいが、己が姫を傷つけることなぞ死んでも出来ぬ。そういう男じゃ、ほほほほほ!』
「黙れ、黙れ、黙れーッ!!」
「ひいさまッ……!」
怒りに任せて鉾を振り回す姫様に、アルゴさんが声を絞り出す。
「御耳を貸してはなりませぬ……取り込まれまするぞ!」
額に汗が浮いている。
漏れる吐息に苦痛がにじむ。
力の入らない体で立ち上がろうとして、大きくよろめき膝をつく。傷を押さえる指の間からぼたりぼたりと血が落ちて、崩れるように倒れ込んだ。
鬼がそちらをチラと向く。
『まだ口が利けたか──姫の為ともあれば、呪いの淵からも戻ってみせる。大した男よ』
そして裂けた唇の端を持ち上げ、不気味に嗤った。
『果報者よのうエードの大将。臣下の為に武器を取り、命を賭す姫などそうはおらぬぞ。姫の手討ちに斃るるも、姫に仇を討たるるも、この上なき僥倖と言えようぞ……ほ、ほ、ほ』
アルゴさんを嘲りながら、それをコズサ姫に聞かせるように。
『なんと麗しく強き絆よ。たかが十年されど十年……重ねた時に縛られて、がんじがらめで動けまい。互いのために強うなり、互いのために弱うなる』
ぱちりぱちりと火の粉が爆ぜる。
姫様の表情が険しく歪む。
堪えているのを実感し、鬼の唇がいっそう引きつった──笑みの形に。
『しかしもうじき離れ離れじゃ──おお、かわいそうにのうエードの姫よ!
知っておるぞ。知っておる。
己が市井の娘ならばと、幾度も思い幾度も打消し、グッと堪えてきたのであろう。祖父の大願、己が生命をもって成就せんとはまことにあっぱれな心掛け……だが姫よ。本当にそれでよろしいか』
あたしの背筋に震えが走った。
これ、この流れ……さっきとそっくりだ。
アルゴさんが刺される直前、今まさに鬼の首を取ろうとしたときと。
『この男を置いて大王に嫁ぎ、龍の血を引く赤子を産む。それこそ己が務め、王の娘とは然ういうもの。
そう言い張るのであろう──だが姫よ。本当にそれでよろしいか』
そうだ。これがあいつのやり方なんだ。
言葉で相手を絡め取り、術に嵌め、生じた一瞬の隙を突く。
コジマくんが言ってた通り、ハーロウさんの鴉が言ってたとおり、言葉は一番簡単な魔法であり呪いだから。
痛いところを突かれて心が乱れる、その瞬間を利用するのがこいつのやり口なんだ。
なら次に、鬼が沈めようとしてるのは──コズサ姫だ。
「ちょ……ちょっと! 余計なことばっか言ってんじゃないわよっ!!」
なんとかしなきゃ。その一心であたしは声を張り上げた。
「な、な、何よあんたさっきから、コジマくんだって遠慮して言わないようなことズケズケと!」
耳を貸せば取り込まれる。
あたしにできるのは大声出して邪魔するくらい。だけどぜんぜん無意味じゃないはずだ。注意をこちらに引きつけて、その間に姫様が冷静さを取り戻せれば。
少しでもいい。少しでも──
「どうせまた油断させるなりなんなりして、何かしようと思ってるんでしょ! お、同じ手に何度も引っかかって堪るもんですか! だいたい何がしたいのか知りませんけどねっ、やり方がいちいち汚な」
『なるほどパン屋の小娘か──なんと喧しく煩いことよ』
鬼がこちらを向く。
勢い任せに怒鳴り散らしてたあたしはウッと息を飲んだ。
角が……角が伸びてる。さっき見たときよりも確実に長い。炎に照らされたその姿は赤く、霊廟で潰された両目は固く閉じたまま。
その両目から涙のように、淀んだ闇がにじみ出す。
『なるほど、吾が使い鴉が仕損じたのはおまえのせいであったわえ』
訝しげにコズサ姫が眉をひそめた。
『ほほほほほ……吾の中で鬼が哭いておる。その昔あの滝のもとで吾を討ったは、若きエードの王と異界より参りしパン屋の小僧であったなあ。
忘らいでか。忘らいでか。
やつらの血を引く娘が二人、こうして吾の邪魔をする。不思議な巡り合わせよ、おほほほほ……』
鬼が笑う。高く細く。
不気味な哄笑が辺りを支配する。それが突然止んだとき──あたしははっきりと理解した。
『させるものか』
鬼がいま、攻撃の矛先をあたしへと転じたこと。
『“境界”で仕損じたのも無駄ではなかったのう。楔よ動け、その娘はおまえに呉れてやる』
そしてあたしの腕の中で「うーん」と小さな声がした。
ごくりと息を飲み、恐る恐る目だけを動かし、ぎょっと息を飲む。
──レオニさんがあたしを見ていた。
「う」
「……サトコさん?」
「うわあぁぁーーー!!」
レオニさんはゆっくりと体を起こし、あたしは立ち上がって飛び退いた。
大げさだと笑わないでほしい。
だって……だって、体を起こした“レオニさん”の影が、両手を伸ばすように広がったのだ!
奥の院の舞台を取り囲んだあの黒いもやのように。
鬼の両目から滴り落ちる炭色の闇のように。
まるで、あたしを捉えようとするかのように!
「サトコさん、これは──いったいなにが」
「なにがって……なにがって」
「あの、どうして離れるんです?」
「うわあぁァァ待って! ちょっと待ってこっち来ないで!!」
訝しげに眉をひそめ、あたしに向かってレオニさんが一歩を踏み出した。
あたしが一歩下がれば、また一歩。
これじゃあの時と同じだ。厨房で無理矢理迫られ、パンピールを突き付けられたあの時と!
「来ないで、だなんて……どうしてそんな悲しいことを」
もちろんあたしだって言いたくない。言いたくないけど、言わずにはいられない。今まで倒れてた人が普通に起き上がって、普通に喋るってのがまず怖い。
しかもその背後で本人の影が両手を広げて迫ってくるのだ。
冷や汗をにじませながら視線を巡らせ、あたしは祭壇の方に手を伸ばした。武器だ武器、武器が要る。なんでもいいから、とにかく急場を凌げるものを……
並んだ神器を指先が探り当てる。あたしはそれを手探りで掴み、引き寄せた。
「武器なんか」
だけどその手を、上から「ぐわし!」と掴まれる。
男の人の大きな手で強く握られ、びりりと肩までしびれが走った。
「いっ……いだだだ!」
「武器なんか、あなたには似合わない」
「いやいやいや似合う似合わないじゃないですからっ!?」
振りほどこうにも振りほどけない。
なんとか逃れようと、もう片方の手で押し返す。だけどその手もあっけなく捕まってしまった。
「戦う必要なんかない。傍にいてくれればそれでいいのに」
「ヒェッ……!」
「あなたを傷つけるつもりはないし、あなたを悲しませるようなことだって」
「よ、よ、よく言うわよ! だったらなんでアルゴさん刺したりしたのっ」
すると楔は悲しげに眉をひそめた。レオニさんの顔で。
「祈るような目であの人を見たからだ」
……は? とあたしの口からは空気が漏れた。
「祈るような目で、すがるような目で、あの人を見たからだ。ただならぬ想いがなければあんな目はできない!」
「はああ?」
いや、わかる。わかるんだけど──“楔”のせいでわけがわかんないこと言わされてるんだって、わかるんだけど。
はあ? って顔になったのはあたしだけに留まらない。姫様は「あやついったい何を」と若干引き気味だし、それどころじゃないはずのアルゴさんでさえ「寝言の類で御座いましょう」と一刀両断だ。
あたしはそれを視界の端で確認し、だけど目の前を大きな影に遮られた。
あ、やばい。このまま捕まっ……
──カラン
乾いた音がした。
さっき掴んだばかりの神器を取り落としたのだ。
押さえつけられてた手首が解放され、あたしはよろめきながら一歩下がった。慌ててしゃがみ込み、しびれる手を伸ばして落としたものを拾い──目を疑う。
「うそ」
手の中に見覚えのある銀色の道具──待って。ちょっと待って。あたしが落っことしたのは何かの武器のはず。
なのにこれは……あたしが握りしめている、これは……
「だいじょうぶ?」
……お店のトングじゃない?
あたしは口をぱくぱくさせながら「あ、うん」と乾いた声を絞り出した。
なにこれ。
どうなってんの。
眩暈がする。
「ほんとにだいじょうぶ? 松尾さん」
差し出された手を取ることもできず、あたしは狼狽えていた。
何もかもがおかしい。
何もかもが変だ。
だって、どうしてこの人が龍の洲に──いま、あたしの目の前に。
どうして異世界にいるの。山野くん。




