090:楔 一
『許さぬ。許さぬ。許さぬぞえ』
唇がうごめけば怨嗟の言葉が迸る。
肩の上、小さな龍が凍りつく。
あたしは悲鳴を飲み込んだ。
『あの男、あの男、決して決して許さぬぞえ。ああ痛い。苦しい。目が見えぬ』
よろめきながら、這うようにして、鬼は祭壇に辿り着く。呻くと同時に顔を上げれば、炎が顔貌を朱に染めた。
額の左右に、二つの瘤。
大きく裂けた赤い口。
閉じた目の周りは焼け爛れ、流れた血で元の素顔はわからない──あの目を潰したのはレオニさんだ。
『おのれ近衛士の大将め、王の霊廟におらぬはそういうわけか。吾を討たんと此処まで来たか。ああ痛い。痛い。何も見えぬ。真暗々の暗闇じゃ』
あの瘤が額を突き破れば、もう人ではない。
人でなくればどうなるか──マーロウさんは言っていた。楔は決して抜けないと。だからその前になんとかするのだと。
『あな痛や。苦しや。口惜しや……呪うてやる。呪うてやる』
呪詛の言葉をまきちらし、庭を横切って鬼が来る。揺らめきながら。よろめきながら。
祭壇で火の粉がぱちりと爆ぜた。
鬼はあたしたちに背を向けて、炎の前にうずくまる。
ほんの一瞬すべての音が消えた。
『──来よる』
その声よりもわずかに早く。
渡り廊下の欄干に足を掛け、アルゴさんが飛んだ。揺れる炎に白刃が光る。
あたしは動けない。
呼吸もままならない。
アルゴさんは一言も発せず庭に飛び下り、祭壇の鬼に向かって斬撃を繰り出した──
だいじょうぶ、だいじょうぶ。きっと必ず、なんとかなる。
アルゴさんは強いんだから。
登場とともに一瞬でケリをつける。そういう人だから。
ネト河でもそうだったし、温泉でもそうだった。顔色ひとつ変えずに相手を追いつめ圧倒する。
余分な力は使わない。余計な言葉も使わない。
その動きはあたしの目なんかじゃ追えなくて、いつも何が何だかわからぬうちに勝負が決まるのだ。
アルゴさんは鬼を圧倒する。そして一瞬でケリをつける。
そうなるはずなのだ。
だから絶対、だいじょうぶ。
うずくまる黒い影にアルゴさんが斬りかかる。
砂利を踏む音に気づいたか、鬼は祭壇に並んだ長剣を鞘ごと掴み、振り向きざまに受けとめた。
キィン、と鋭い音が鳴る。
振り下ろした白刃をアルゴさんは一旦引いた。
鬼は鞘から剣を抜き放ち、肩を上下させて握り直す。
あたしはただただ息を殺して成り行きを見守っていた。
眸をぎらりと光らせて、アルゴさんは鬼を真正面から睨みつける。そしてわずかに腰を落とし──短い距離を一気に詰めた!
一度、二度、三度。激しい金属音が響き、彼らは打ち合った。
鬼は手傷を負って血塗れだ。目も潰れている。
見えないほどの斬撃を受けとめ、流すだけで精いっぱい。むしろ流せていることが信じられない。それはやっぱり人間をやめたせいかもしれない。
だけどアルゴさんは躊躇わない。容赦なく踏み込み、追いつめていく。
勝敗は明らかだった。
もうすぐだ。
もうじき、すべてが終わる。このまま仕留めれば何もかも──鬼の企ても。あたしたちの旅も。つらくて長かった今日という一日も、ぜんぶ。
だいじょうぶ、だいじょうぶ。
手を組んで祈るあたしの緊張が伝わったのか、背中の小さな龍も固まったまま動かない。
キィン──!
アルゴさんの剣が一閃した。ひときわ高い音が虚空に響き、鬼がその場に膝をつく。
勝負あったのだ。
根元から折れた長剣の、残った柄が鬼の手からぽろりと落ちる。
「これまでだ」
切っ先を突き付け、アルゴさんは言い放った。
「その傷その体で、よくぞここまで戦った」
あたしはふーっと息をつき、それからホッとして座り込んだ。
呼吸をする間もなかった。完全に、空気に飲まれてた。
終わった……終わったんだ。
やっぱりアルゴさんは、強い。
『……なんという重き一太刀』
祭壇の炎の向こう側、鬼は観念したようにその場に座した。
肩が大きく上下している。
それは厳しい戦いを強いられたせいなのか、あるいはこれまでに負った手傷のせいなのか。
『手がしびれて痛うてならぬ……吾が屋敷に飲み込まれ、骨になるまで出てくるまいと思うたに』
「天の助けがあったのだ」
『エードの姫に天佑あり、か。忠臣の鑑は言うことが違いよる──あな口惜しや、口惜しや』
手の甲で汗をぬぐうと、小さな龍が肩に乗ってきた。
よかった、きちんと決着がついて……ここからはきっと尋問に移るのだろう。
あたしはどうしよう。
大人しく見学してようか、それともここを離れてコズサ姫と合流しようか──いや、それは良くない。やめておこう。
さっきのように屋敷に飲み込まれたらたまらない。それでなくても迷子になるかもしれないし、別行動の怖さはこの数時間でイヤというほど身に染みたのだ。
ここにいよう。そうしよう。
観客に徹すると腹を決め、あたしは体育座りで膝を抱えた。
「命尽きるまで彷徨わせようなど、考えてもいるまいに。
屋敷に引き込み閉じ込めたのは、時間を稼ぐためであろう。足止めし、立て直しを図るためであろう──違うか」
鬼に突き付けた剣先は微動だにしない。
アルゴさんはこのまま、この場で何もかも明らかにするつもりなのだ。
鬼が本当はどうしたかったのかとか、あの死んでしまった女の人に何があったのかとか、そういうこと全部。
「あるいは、あれを見せることにより私の剣を乱すためであろう。
そなたの大切なものを見せれば、そなたが失ったものを見せれば、私が心乱すと踏んだのであろう。
心乱れ、剣が乱れたその時に勝機を見出さんと、策を弄したのであろう──違うか」
だけど鬼は答えない。動かない。貝のように口を閉ざし瞑目する。
「エードの姫は大王の后となられる御方。その姫に仇成すことは、すなわち大王への反逆とも申せよう。
如何なる理由で鬼に身を落とすとも、これまでの所業断じて許されるものではない」
これ以上は時間の無駄だと判断したのか──アルゴさんは頭上高く剣を掲げた。
「命をもって贖え。その首、今ここで頂戴致す」
──え。
白刃がぎらりと光り、鬼は観念したように頭を垂れる──渡り廊下で見学していたあたしは慌てて腰を浮かせた。
え、だって……首切るの?
ほんとに?
やだ、やだやだちょっと、心の準備ができてない。そんな場面見ちゃった日には一生夢に見るだろう。できれば音だって聞きたくない。
せめて席を外させてもらおう。空気読めなくて申し訳ないけど、そのくらいは許してほしい。
「あの、アルゴさん」
『……ほ』
「ちょっと待って、あたし外に」
『ほほほほほ!』
──鬼の唇がぐにゃりと歪んだ。
『ほほほ、その通り、その通りじゃ! ほほほほ!』
突然の高笑いにあたしと小さな龍は中腰で固まった。
『吾の考えなど初めッからお見通しということよな。
そちは情け深き優しき男じゃ、吾が娘を目にすれば必ずや立ち止まると思うたが大当たりであった。見せねば今頃、吾が首は胴から落ちているであろう。ほほほほ!』
なに……これはなに。
なんなの急に!?
高く細く、鬼が笑う。潰れた両目に血の涙をにじませて。
アルゴさんが片足を一歩、後ろに引いた。
『おまえには出来ぬ、心優しき忠義の士よ。知っておるぞ。知っておるぞ』
「……アルゴさん!」
『さもなくばあの姫の側仕えなど務まるまい。
高貴で我がままな麗しの姫、命を賭して守り仕えること十年か。己が人生の一番良き時を、役目に捧げてきたのじゃな……余人にできることではない』
「アルゴさんてば! ねえ!」
裂けた口を引きつらせ、低く長く、細く高く、鬼は言葉を連ねていく。アルゴさんは動かない。
動けないのかもしれない。
『昼もなし、夜もなし、心も体も休まるときなぞ無かろうのう。姫の我がままにつき合うて人並みの幸せさえも許されぬ。
あるいはそれこそを幸せと心得たか。
のう、エードの近衛の大将よ』
瞬きも出来ずに凍りつく、あたしの頬を冷や汗が伝う。
『此度の霊廟詣出においても、姫はずいぶん我がままを通したそうな。己と関わりなき市井の娘を引き込んだとか。それも異界より参ったパン屋の娘と知った時は、吾も驚いたものよ。ほほほほほ』
「なっ……なんでそこであたしを引き合いに」
『ほう、そこに居ったかパン屋の娘。然様、おまえのことじゃ』
見えないはずの目にじろりと睨まれ、あたしは途中で言葉を引っ込めた。
べらべらと喋り出した鬼が、凍りついて動かないアルゴさんが、燃える祭壇が、整然と並んだ呪いの武器が──怖い。
逃げ出したい。
動けない。
『なによりコズサ姫大事の守役が、城に忍び込んだその娘を斬らずに生かしたと言うのがのう。
殺さば姫が悲しまんと、そう思うたか。エードの姫の、その身その心を守るはおまえの天命であるがゆえに……なんと優しき男よのう』
座したままの鬼が、盲いて何も見えないはずの鬼が、呪いの言葉を投げつける。額に浮いた汗が頬を滑る。
一瞬でもアルゴさんを止めようとしたことを、あたしは猛烈に後悔していた。
『だがアルゴよ。おまえは狡い。
優しさは隠れ蓑じゃ。おまえの狡さを隠す隠れ蓑じゃ。知っておるぞ。知っておるぞ──おまえがあの娘を斬らなんだ理由を、ファタルへの道行きに同行させた理由を、吾は知っておる』
ばかだ、ばかだ、本当に……あたしの声が隙を作ったんだ。
『姫の良き友、話し相手、そんなものは建前ぞ。いざという時の身代わり、ハッ、笑わせる。殺さば姫が悲しむだと? そんなものは一瞬のことだ。
よう聞きや。
おまえがこの小娘を斬らなんだ本当の理由は、こうだ』
反撃の機会を与えてしまったんだ。
もうだめだ、間に合わない。
捉われてしまう。
『おのが主と二人きりになるのを、おまえは恐れたのだ──違うか、アルゴよ』
やめてと口走るあたしの声は、きっとどこにも届かない。
『姫と二人。手を伸ばせば触れられる。攫おうと思わば攫えよう……あるいは姫の方こそ我慢が出来ぬやもしれぬなあ。
ゆえにおまえはその娘を引き込んだのよ。
姫の興味をほどよく惹き、余計な口出しはせず、おまけに素直な性分の働き者じゃ。お忍びの姫の供連れにうってつけ──違うのか? どうなのだ。違うならば違うと言うてみよ!』
黙れって言ってよ。これ以上の侮辱は許さぬって叫んでよ。
膝が震え、立っていられない。あたしはぺたりと座り込み──そして息を飲んだ。
アルゴさんの剣が、下がっていく。
『子どもになった姫を見て、おまえは安堵したのであろうなあ。
けして報われぬと知りながら己を押し込め取り繕うて、傍に仕えていたのであろう。分不相応を望むまいと己を律してきたのであろう。
なんと可哀想にのう、哀れよのう……!
いつからじゃアルゴよ、いつからじゃ。十年のうちの幾年ぞ! 我知らずの間に懸想して、抑えても抑えても溢るるものを、取り繕い誤魔化しつづけて幾年過ぎた。
白き肌、紅き唇、名を呼ぶ声──初めて胸を焦がしたのはいつの日ぞ!』
これがコズサ姫への侮辱ならアルゴさんは立ち向かっていただろう。怒りとともに、一瞬にして鬼の首を落としていただろう。
でももうダメだ──アルゴさんの手から剣が落ち、その眸は何も映さない。
『なんと見上げた男であることよ。立場を捨て、名を捨て、命さえをも捨てんとするか。主に仇成すものに一太刀くれん、すべては主の幸せのため、なんとも美しきお題目じゃ。
だがその言葉の裏に、心の裡に、醜き劣情が燃え盛っておる……おうおうどうした言葉もないか。ほほほ、劣情を抱いたことがないとは言わせぬぞ。
おまえの剣はもう折れた。
折れたのよ。
姫への忠義という建前故に、己が浅ましき本性故に! ほほほほほ!』
今はっきりと、あたしは悟った。
『最後に思いを遂げさせてやろう』
アルゴさんはもうずっと、鬼の術中に落ちていた。
屋敷に囚われ、死せる女を前にして、それを検められなかったその時から。
あるいは黒幕を討つと決め、『狩りの城』を出たあの時から。
またあるいは、境界に現れた鴉の言葉を伝え聞いた瞬間から。
もしかしたら大浴堂の湯気に漂う、濁った魂の言葉に憤ったあの日から。
『命削れど報われぬ。なればその命、姫に手ずから絶たるるが本望であろう』
そして呪いの言葉で止めを刺された。一言の反論も許されず。
『この世にはそれすら叶わぬものも居る。しあわせよのう、しあわせよのう……吾子には決して許されなんだ、しあわせな最後じゃ』
血の気が引いて震えが止まらない。
アルゴさんに会えたから大丈夫、なんて。ぜんぶ解決する、なんて。
──もう、あたしがやるしかないじゃない。
今動けるのはあたしだけ。
あそこに並んだ武器を掴んで、鬼に斬りかかれるのはあたしだけ。
ためらうな……ためらうな。
チャンスは一度きり。ここでやらなければ何もかも終わる。
長剣、短剣、鉾、楯、弓。
短剣くらい使えるはずだ。覚悟を決めろ。立ち上がれ。庭に下りるんだ……勇気を出せ!
勇気を出せ!!
あたしは覚悟を決め、震えながら立ち上がった。欄干を伝い、庭に下り、もつれる足で駆け出して──その時、後ろから一陣の風が舞い込んだ。
ざわり、祭壇の炎が揺れる。
並んだ武器に手を伸ばしながら、あたしは目を疑った。
風じゃない。
小さな人影だ。
舞い込むと同時に短剣を掴み、その人は「どん」とアルゴさんにぶつかった。
眼前を掠めた艶やかな黒い髪。
白い頬。
紅い唇。
小さな手にぎらりと光る刃──
「……何故」
がくりとアルゴさんが膝をつき、あたしの全身から汗が噴き出した。
アルゴさんの脇腹に短剣が突き立っている──あたしが掴み損ねた短剣が。
でもそれを刺したのは。
それを掴んで突き立てたのは。
「なんで」
たった一人背筋を伸ばして立つその人は、静かに、静かに、微笑んだ。美しくも可愛らしいエードの姫の顔で。
そして血塗れの刃を引き抜いた。
あたしは知っている。
その人が誰かを知っている。
「やっと見つけた……サトコさん」
夢なら醒めて。
魔法なら解けて。
──あたしは、こんなの、見たくなかった。




