089:死せる女 二
「ええええ」
あたしは思わず声を上げた。
「魔法使いの屋敷であるからな。有り得ぬ話ではない」
「それにしたって三度目って!」
「入った時どうだった。触りもせぬのに、まるで招き入れるように扉が開いた──違うか?」
平素の表情を崩さないアルゴさんの後ろで、あたしは困惑に眉をひそめる。
それってつまりコジマくんやマーロウさんが勝手にシャッター開けて入ってきちゃうのと同じようなことって言いたいの? この建物があたしたちを「入れて」この部屋に「案内した」ってこと? 三度も?
「あの大浴堂を覚えているか、サトコどの。
そなたとひいさま、そして我々が別の空間に離された──この状況はあの時とよく似ている。裏を返せば、どうにかすれば“外”に出られるということだ」
「どうにか」
「然様、どうにかするのだ」
「でもあたしたち魔法使いじゃないじゃないですか。あの時はコジマくんがバーン!!ってやってくれたけど」
「そなたがこの部屋にやってきた時、これで状況が変わり脱出できるかと思ったのだが──戻ってきてしまったな」
「戻ってきてしまったな、じゃないですよぉぉ」
つまりこの人は、あたしがここに来る前からこうして屋敷を彷徨ってるってことになる。
ちょっと……ちょっとー、さっきの安心を返してほしい!
と、文句を言いいかけたまさにその時。
──ぎい──
催促するように部屋の扉が軋み、あたしたちは顔を見合わせた。
「……早く入れってこと?」
扉の奥には炭色の闇が満ちている。
後ろにはさっきまで歩いていた廊下がある。
いまこの部屋に入らなければ、きっとまた何度でもあたしたちは彷徨うだろう──状況は変わらない。この屋敷からは出られない。
「だったら……だったらもう、行くしかないじゃない」
「しかしサトコどの、ひとつ問題が」
「でもこのままこうしてたって出られないんでしょ? 戻ったってしょうがないじゃないですか!」
あたしはコジマくんのリュックを背負い直し、胸元から淡く輝く“鬼の眼”を取り出した。しっかりと手で掲げ、開けっ放しの扉から中へ入る。
あたしたちを招き入れたのが家主の意志なのか建物の意志なのかはわからない。
うちのお店は店主の意思なんか知らんぷりで、コジマくんもマーロウさんもお招きしてたけど……だけど、確かにそれで状況は変わったのだ。
お店のオーブンから外に出たって、マーロウさんに会わなきゃ駄目だった。
コズサ姫の所には絶対行けなかった。
それにぴかぴか光る鬼の眼も、あたしをこの中に入れたがってるように見えて……
「だったらやっぱり、行かなくちゃ」
自分に言い聞かせるように呟くと、後ろでアルゴさんが短く息をついた。
一歩。
また一歩。
窓のない部屋の闇はいっそう濃く、空気は澱んですえた臭いがする。なんだか生臭いような、よくない臭い。片手で鼻をつまんで部屋の中をそろそろ進み──
ゴツンと腰のあたりを、なにかにぶつけて立ち止まる。
なんだろう。
あたしは恐る恐る手を伸ばし、障害物に指で触れた。
大きさがある。部屋の真ん中だから箪笥ではないだろう。テーブルか何かのようだけど、明かりが小さくてよくわからない。
さらに探ると生乾きの布のようなものに指が触った。大きな荷物をくるんで、台にのせている。そんなかんじ。
もう少しよく見ようと、あたしは首から鬼の眼を外した。
そして障害物に近づいて、まじまじと……まじまじと──
……
………………
「ぎゃーーーーーーーーーー!!」
盛大に叫んで後ずさり、あたしはアルゴさんにぶつかってそのままひっくり返った。
悲鳴で目を覚ましたのだろうか、小さな龍が「きゅう」と鳴いてコジマくんのリュックから顔を出す。
「あ、ああああアルゴさん、あれ、あれ」
「だから見るなと言ったのだ」
「いいい言ってない! 言ってない! 言ってないですからっ!!」
ひっ、ひっ、と喉に悲鳴がはりつき、体中ががたがた震えだす。脊髄反射で涙が出てきた。ざっ、と血の気が引いて冷凍庫に閉じ込められたように、寒い。
ただならぬ様子のあたしたちを見て、小さな龍がオロオロしてる。
「言ってくれれば絶対見なかったのに! 絶対見なかったのに! うわぁぁぁアルゴさんのばかぁぁぁ」
「うむ。すまない」
「すまない、じゃないですよ! せめて前もって教えてくれれば……うわああもぉぉーーー!! どーして言ってくれなかったのよぉ!」
完全に腰を抜かしたあたしは、アルゴさんのマントに縋り付いてもう一度絶叫した。
「し、し、死体があるって聞いてたら……絶対入らなかったのにーーーーッ!!」
その部屋にあったのは、女の死体だった。
歳はあたしと同じくらいか、もう少し上といったところだろう。
光の無い目をうっすら開き、乾いた唇を半分開けて、彼女は寝台に横たわっていた。
あたしがぶつかったのはその寝台だったのだ。
鬼の眼が照らした顔は土気色、唇は白というか青というか、紫というか……怖かったからちょっとしか見なかったけど。
だけどそのちょっとであたしは充分以上に気が動転してしまった。
「あ、あ、アルゴさんは見たんですよね、中ッ。さっきあたしが来たとき一歩も入らないでさっさと部屋を出たのは──う、おえぇ……見たらアレなものがあるんなら、一言教えて下さいよぉぉ……」
ほとんど泣きながら絞り出すように言うと、アルゴさんは「うむ」と頷いた。
「そうだな。すまなかった、サトコどの」
「でも、でも、もう見ちゃったぁぁぁうわぁぁぁあ」
今日だけで何度叫んだかわからない「もうやだ」を、あたしはひたすら繰り返した。
腕が足が、がくがく震える。
ほとんど四つん這いのあたしを、リュックに半分入ったままの小さい龍が見つめている。
吐きそう。
吐きたい。
でも吐けない。
うずくまって泣きながらえづくあたしの背をアルゴさんがさする。「すまなかった」と繰り返しながら。
「もうやだ、今度こそもう嫌だ……うぇっ……行きましょうよアルゴさん、もう行きましょうよっ」
「行くとは、何処へ」
「そんなんこの部屋の外ですよぉ!」
「歩き回ったとてまた戻るのだぞ」
「でも百聞は一見に如かずって言うし……いーえ、別にいいですけどね? アルゴさんはここに居たっていいですけどね? でもあたしは無理です絶対無理、今すぐ出ます、今すぐ!!」
もう限界だ。死体と同じ空間になんていられない。
あたしはよろめきながら立ち上がり、さっきの扉から部屋を出た。このまま屋敷の中をうろつく方がなんぼかマシ──そのときはそう思ったのだけど。
「……あの」
少し進んで、すぐにアルゴさんの方を振り返った。
「こ……こ……怖いんで、一緒に来てください」
啖呵切ったばかりのくせに情けない、なんて言わないでほしい──だって本当に怖いのだ。
言動がぶれまくるあたしに対し、アルゴさんの表情は変わらない。普段通りの涼しい顔。
もしかしたら呆れてるのかもしれないけれど、そんな様子も見せずに「うむ」と小さく頷いて、死体の部屋から出てくれた。
あたしは「ぐすっ」と鼻を鳴らし、背中のリュックからタオルを出してごしごしと顔を拭った。
「……ねえ、アルゴさん」
「うむ」
「なんか……なんで、あんなんなっちゃったんでしょーね……」
よくよく観察したわけじゃない。
死んでると気づいた瞬間目を逸らしたし、あたりは炭より黒い闇色で、じっくり見ても細部まではわからなかっただろうから。
だけど──少なくとも、彼女の体は血に塗れていた。それだけは確かだった。大量の血を吸った衣服の裾に、あたしの指は触ったのだ。
「そりゃ鬼にだって……なりますよね……」
あの死せる女は、この屋敷の主の娘なのだ。アルゴさんの沈黙はあたしの発言をそのまま肯定している。
何があったのかはわからない。
わからないけど彼女は血塗れで、よくよく見ればあの部屋には、床のあちこちに乾いた血糊がついていた。
きっと、よっぽど苦しかったんだろう。
いまわの際に七転八倒したんだろう。
「こんなん……自分の娘が、こんなん……人間やめたくも、そりゃなりますよ」
あの血の量、どう考えたって普通じゃない。着ている衣装をどす黒く染め上げるほどの、大量の出血。
「だって……う、うぇっ……あんな死に方……きっと誰かにやられたんだ。刃物を持った悪いやつとかに、バサーって。そりゃ復讐の鬼にもなりますよ。理性なんてどっか行きますよ」
「しかし、それがエードの姫とどう繋がるのだ」
「それは……」
答えにつまり、あたしは視線を彷徨わせる。アルゴさんは顔面蒼白のあたしに合わせてゆっくり歩きながら、心なしか口調も幾分抑え目に、呟いた。
「……私はあの屍を検めていないのだ。サトコどの」
顔を上げると目が合った。
「本来ならば即座に検めるべきであろう。床に降ろし、衣服を剥ぎ、表裏に返してくまなく調べるべきであろう。
だが、あの娘は寝台に眠っていた。乱れた襟を整え、髪を後ろに流し、膝を揃えて横たえられていた──死者を悼めばこそだろう。それに手をつけることは、憚られたのだ」
「……」
「先代様には甘いとお叱りを受けような」
「……そんなこと」
「しかし手をつければ、ひいさまが御咎めになるだろう」
そう言って少し目を伏せ、アルゴさんはすぐに表情を引き締めた。
「だが、私は必ず彼奴を討つ。どのような事情があろうとも、必ずだ」
それはなんだか自分に言い聞かせてるようにも思えて──その時、またしても「ふにゃあ」と何かの声がした。
つられたように小さな龍が「きゅう」と鳴く。
アルゴさんは足を止め、あたしも前を向いた。
ああ、まただ。
またあの扉が前にある。
死のにおいに満ちた、あの部屋がある。
「も……戻ってきちゃった」
わかっていたことだけど、あたしはがっくり肩を落とした。
小さい龍はふんふん、ふんふんと鼻を動かし、何かのにおいを嗅いでいる。あの部屋のにおい嗅いでんのかしら、鼻もげないのかな平気かな……そう思って背中の方を振り返ると、「きゅー!」と鳴いてリュックからするりと抜け出した。
そのままシュルシュルと死体の部屋の方へと向かう。「蛇ではなかったのか」とアルゴさんが驚いたように声を上げた。
「ちょ……ちょっと、そっち行かないでっ」
「きゅー!」
「きゅーじゃないわよ、だめだってば仏様いるんだから」
「ほとけさま、とは」
「えーっと亡くなった人のことをそう呼んだりするんです……ねえちょっと戻って来てよお願いだから。あたしもうそっち行きたくないのよう……」
龍はあたしを見つめてきゅーきゅー騒いでいる。
鴉が喋れるのに龍が喋れないのがイマイチ納得いかないけれど、この子はまだ小さいし仕方ないのかもしれない。
何か言いたいことがあるんだろうけど。
何だろう。
こりゃ来そうにない、と思ったのか龍はあたしから視線を外した。
そして「ぐわぁ」と口を大きく開き、小さな前脚を扉にかける。
あ──もしかして。
「……開けてくれるの?」
小さな龍が「きゅー」と鳴く。
龍を注視していたアルゴさんが、あたしの言葉に片眉をわずかに動かした。
「あの子、ハーロウさんのところでも助けてくれたんです。魔法の壁をぐいーっと噛み千切って……もしかしたら出られるかも」
小さな龍が扉に爪を立てる。
かじりつき、穴を開ける。
あたしには魔法の素質なんかないけれど、なんとなくわかった。めりめり、めりめり、聞こえないけど音がする。
息を飲んであたしは後ずさった。
穴を開けたところから空間が裂け、今まで見えていた扉の向こうに現れたのは──
本当の、扉。
小さな龍はそこはかとなく得意気に戻ってきて、あたしの足から背中へとまた上がった。首にくるりと巻きつくと、手柄を自慢するように「きゅッ」と鳴く。
うん。うん。偉かった。偉かったわよ──ありがとう。
あとでリュックの中のパン、出したげるね。
「サトコどの」
「はい」
「行こう」
「……はい!」
あたしたちは互いに小さく頷いた。あたしがもう一歩下がると、アルゴさんは腰の長剣を抜き、本物の扉に手を伸ばす。
──開けたら何が待ってるんだろう。
もしかしたら、表に繋がっいてるのかも。
別の部屋に続くのかも。
廊下が伸びているのかも。
だけどまやかしの空間は小さな龍が切り裂いたのだ。あたしたちはもう、閉じ込められることはないだろう。
アルゴさんが扉に指をかける。
あたしは固唾を飲んで、それを見守る。
音もなく開いたわずかな隙間から赤い光が漏れる──ああ、あの向こうで何かが燃えている──無意識にそう感じたときだった。
スパァーーーン!!
とアルゴさんが扉をぶち開けた。
うわっ、と身をすくめて目をつぶり、それから恐る恐るまぶたを持ち上げる。
まず見えたのは、やはり炎。
まばたき一つでは足りずに何度かパチパチやって、あたしはそこが『屋敷の中庭』なのだと理解した。
真ん中に設えられた祭壇で、火が焚かれてる。その前に並ぶ長剣、短剣、弓、盾、鉾……おそらく、すべて呪術の道具。
頭上には火の粉を吸い上げて煌めく夜空。
敷き詰められた白い砂利。
景色を四角く切り取る、渡り廊下。
アルゴさんがぶち開けた扉は、その渡り廊下に繋がっていた。
「ねえアルゴさん、外に」
出られましたね、姫様探しに行かないと──そう言いかけて、あたしはアルゴさんがまったくこちらを見ていないことに気がついた。
アルゴさんは、じっと中庭を見つめている。
祭壇の炎を、その向こうを、あたしたちの真向かいの渡り廊下を──その上に蠢く影を見つめている。
あたしもそちらに目を向けて、それっきり視線を戻せなくなった。
あの影は。
どす黒いあのシルエットは。
ずるりずるりと体を引きずる、黒い塊は。
血腥い風をその身に纏い、神官の衣装を真っ赤に染めて、足元に闇を纏わせた──
『あな、痛や。あな、口惜しや』
鬼。




