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088:死せる女 一

 両目から涙がだーっと出た。


「う、う、うあ、うあ、うあああああん」


 それこそ滝のように。

 あたしは両手を広げ、アルゴさんにがばっ! と抱きついた。


「うあ、うあ、アルゴさん、わあぁーーーーー」


 がっぷり組みついてきたあたしを、アルゴさんは実に微妙な顔で受け止める。しょうがないからキャッチしたけど出来れば早くリリースしたい、と言わんばかり。

 そりゃそうだ。

 この人に抱きつく日が来るなんて、あたしだって思っちゃいなかった。

 でも、でも、しょうがないじゃん怖かったんだから!


「ああああ、うわぁあああああ、アルゴさぁーーん」

「う……うむ。まずは落ち着かれよ、サトコどの」

「わーーー、アルゴさんの、ばかぁぁぁぁ」

「ば」

「ばかぁぁぁ、肝心な時にいないしすぐあたしに剣向けるし一人で行っちゃうし、ばか、ばか、大ばかぁぁぁ」

「大ばかでも構わぬがサトコどの、何故ここに。ひいさまは如何なされた。まさかとは思うが」


 涙と鼻水でぐっしゃぐしゃのあたしを、アルゴさんはべりっと引きはがす。


「まさか、こちらにお出ででは」

「……来てますよっ」


 引きはがされたあたしは、ぐしゃぐしゃのまま叫び返した。


「来てますよっ! 姫様も!」


 アルゴさんが目を瞠る。大きな手に両肩を掴まれたまま、あたしは捲し立てた。


「霊廟に行って、アルゴさんが無事ですようにってお祈りして、そしたら、お、お、鬼が、鬼が、鬼が来てっ……レオニさんがあたしたちを逃がして、動物に追っかけられて、お城に逃げ込んで、コジマくんが囮になって、姫様と石窯に隠れて、うう……げほっ」


 むせて咳き込んで、だけどあたしは喚き続けた。

 今まで溜めてきたものぜんぶ、絞り出すように。ぶつけるように。


「そしたら中で姫様とはぐれちゃって、石窯出たらお店のオーブンで、ま、ま、マーロウさんがいて……姫様はマーロウさんのお兄さんのところにいるってゆーから……ぐすっ、あ、あたし、おかーさんには止められたんですけど、やっぱ姫様のこと、そのまんまは嫌だから、げほ、げほッ」

「サトコどの」

「だから行ったんです、姫様を迎えに。そしたらすごい嫌なこといっぱい、言われてて……ぐすっ、だけどどうしても自分で迎えに行くって。皆を、アルゴさんを、だから魔法でここまで来て、さっきまで、ほんとついさっきまで、あたしたち一緒に」

「サトコどの。もうよい──もうよいのだ。よく耐えた」


 わあっ、とあたしはまた泣いた。

 性格は合わないし、三度も剣を向けられるし、この人といるとろくなことがない。……なのに顔を見た途端、ものごく、ものすごく……

 ホッとしてしまったのだ。

 悔しい。悔しいんだけど、しょうがない。しょうがないじゃないか、こればっかりは!


「ひいさまは」


 尋ねられて顔を上げれば、強い眼差しがあたしの顔を覗き込む。


「いずこにおられる。中か、表か」

「お……表です」

「然様か──急がねば」


 そう言うとアルゴさんは立ち上がった。


「あの鬼はやはり此処の主が変じたものであったか。始末をつけるぞ──やつめが、ひいさまを見つける前に」


 はいと頷いて、あたしは上着の袖で目元を拭った。それからよろよろ立ち上がる。

 どこからかそよいできた風がアルゴさんのマントを揺らし、それにのってまたあの音が聞こえてきた。小さくて弱い、生きものの声。


 ……ふにゃあ、ふにゃあ、ふにゃあ……







 一通り泣いて騒いで落ち着いたあと、あたしたちはさっきの扉を背に、また廊下を歩き始めた。


「人をやめるほどの理由とは何だと思う。サトコどの」

「完全にやめたわけじゃないっぽいです……マーロウさんは鬼になりかけの生成(なまなり)だって」


 前を歩くアルゴさんの問いかけに、かすれ声でぼそぼそ答える。

 泣きすぎだ。

 目も鼻も喉もヒリヒリする。これ以上泣いたらティッシュの箱が空になるし、ふわふわタオルがどろどろになってしまう。


「そなたが此処に辿り着く前、私もその鬼に遭遇したのだ。一太刀くれたものの取り逃がし、直後この屋敷に囚われた」

「囚われた?」

「魔法使いの屋敷であるからな。そういうこともあるだろう」


 炭色の廊下を、奥へ奥へ。

 うすぼんやりした“鬼の眼”だけが唯一つの光源だ。ほとんど白黒の風景の中、アルゴさんの一歩後ろをついて行く。歩幅が大きくて早いから、あたしは小走りだ。


「この屋敷に住まうのは、古くから宮仕えをする魔法使いの家系だそうだ。遡れば典医どのの一門にも連なり、古くは大王の后を出したこともある。由緒ある家だ」

「じゃあマーロウさんたちの親戚なんですね」

「遠縁にあたるようだが、しかし盛んな家とは言い難い。

 跡を継ぐべき男子が出ず、要職は他の魔法使いに取って代わられ、現当主も他家から養子に入った人物だ。しかも魔法使いとしてではなく文官として仕官したと聞いている──その娘もまた、女官として出仕しているそうだ」

「娘?」


 あたしは顔を上げた。初耳だ、と思うと同時に、何かがストンと胸に落ちる。

 ここの当主の──イコール、あの鬼の娘。


「じゃあつまり、(あいつ)が姫様をさんざん攻撃してたのは、自分の娘を大王と結婚させて主要ポストに返り咲くため?」


 アルゴさんは静かに首を横に振った。冴えた回答かと思いきや、不正解のもよう。


「それでは御婚礼の邪魔立てではなく『夫婦の御子が出来ぬこと』にこだわることの説明がつかぬ。ましてや鬼に変ずるほどの事情というには、弱すぎる」

「うーん、たしかに……」

「此度の御輿入れ最大の目標は、エードの姫の腹なる御子──そしてその存在によって成す天下泰平だ。

 妨げることに益などない。その末に何が起こるか、火を見るよりも明らかだ」


 つまり……戦争になる、ってこと?


 横目でアルゴさんの顔色を窺えば、その表情は平静だ。

 あたしはというと丸っきり現実味のない『戦争』という単語に沈黙していた──無理もない。現代日本に生まれ育って十八年、平和の空気を胸いっぱい吸い込んで生きてきたんだから。

 アルゴさんはそれに気づいたのかどうか、ちらりとこちらに視線をくれた。


「そうか、サトコどのは戦をご存知ないか」

「……はい」

「ひいさまがお生まれになるほんの少し前まで、龍の洲(しま)は戦の世であった。今とはまったく違ったのだ」


 そう言うとまた前を向いた。その背中を、あたしは見るともなしに見つめるだけ。


「その頃、私はまだ少年だった。田畑は踏み荒らされ、家畜は奪われ、家に火をつけられ、女子供は連れて行かれた。私は死にかけたところを先代様に拾われたが、父と兄を亡くし、母と弟は行方知れずのままだ」

「あのー……それ、姫様は」

「私だけが特別なのではない。このような話は龍の洲のあちこちに転がっている」


 そういえば龍の洲(ここ)に来たばかりの時、おかーさんが言ってたっけ……十五年前のトリップの時はとっくに終わっていたというけれど、ちょっと前まで戦国時代だったって。

 その時代を、この人は身をもって知っている。

 あたしは大きく息をつきそうになって、それを無理やり飲み込んだ。

 やっぱりそうなんだ。

 理由があったんだ。

 頭でこねくりまわした理屈じゃなくて、体に、心に、強烈に刻まれた何かがあったんだ。

 泰平の世を実現するためコズサ姫を西の都に送り出す──どうしてそんなことできるんだろうって思ってたけど、そういうシビアな世界で生きてるんだ……皆、それぞれに。


「そのような乱世に権力を握ったとて、旨みなぞあるまい。己を利するのみならばもっと賢いやり方がある。

 他国の王なれば野心もあろうが、ここの当主は魔法使いだ。おのれの分というものを只人よりも余程よくわきまえていよう」

「……や、でもコジマくんとか妙に自信満々じゃないですか」

「あれはまた別だ。それに、このまま御婚儀が万事滞りなく相成ったのち、たとえば──」


 そこでアルゴさんは少し言い淀んだ。ほんの数秒。


「──たとえば鬼の思惑どおり、御子が出来なかったとしよう。はたしてその事実は天下にあまねく知らされるだろうか。どう思う、サトコどの」


 どう思うって言われても……答えあぐねているうちに、アルゴさんはどんどん先へと行ってしまう。


「大王とその后に御子が生まれぬとき、その事実は隠される。

 鬼はそのことをも承知していよう。そしてそれこそが彼奴にとっての“旨み”……あるいは必ず手に入れなければならぬ“絶対の条件”なのだ」


 それにしたって問題がデリケートすぎる。正直なんて言えばいいのかわからない。

 わからないながらも黙っているわけにいかず、あたしもポツポツ喋りはじめた。頭の中を引っ掻き回し、知ってる限りのソフトな言葉を選び、なるべくオブラートに包みながら。


「えーと……あのー……たしかにあたしがいた所にも、政略結婚っていっぱいあったんです。昔は」


 うむ、とアルゴさんは頷いた。それから「今は違うのか」と呟いた。


「だから跡継ぎができるのできないのって話も、たくさんあったと思うんです……たぶん」

「然様か」

「昔の殿さまとかはそれこそ、いーっぱい愛人やら側室やら用意して対策を練ったみたいですけど」

「だが西の大王は伝統的に一夫一妻だ」

「ああー……まあそういう場合も、子どもができないんなら養子を取ったり」

「王の中の王の世継ぎが、養子というわけにもいかぬだろう」

「ときには外でこっそり作ったり」


 するとアルゴさん、ギロリと目だけを動かして即座にあたしを睨みつけた。


「ひいさまと添われる御方がそのような御振舞い、有ってはならぬ!」

「ちょ、あたしを睨んだってしょうがないじゃないですかぁ」

「到底許されることではないッ」


 んもーほんとにこの人は……いやいや、これも姫様の幸せを祈ればこそ。あたしを睨んで気が済むんならお安い御用だ。

 ──なんて心の中だけで思いつつ、あたしは頭の片隅で鬼の言葉を反芻していた。


『大王様の御子なれば、さぞや御幸せになろうのう』


 あいつ、たしかそう言っていた。あのファタル霊廟の奥の院で、剣の舞を終えたあと。


『それもエードの姫の腹なる御子じゃ。男御子であれば、あまねく天下を統べられよう。女御子なればしかるべき縁にて、泰平の世の礎となろう。姫よ、そなたが然うであるように』


 続けて、こんな風にも。


『しかし腹が違えばそうはいかぬ。人に知られず、打ち捨てられ、見向きもされぬ。己が誰の子かも知らされぬ、哀れな子よ』


 それから魂を振り絞るように叫んだんだ。


「──吾子のためなら鬼ともならん」


 口に出せば、アルゴさんの視線をわずかに感じる。


「あいつそう言ってたんですよね……奥の院の滝のそばで。あいつに娘がいるんなら、鬼になったのもその娘のためなんだろうけど」

「……どのような親でも子を想えば鬼ともなろう。そなたの母君とて」

「でもホントに人間やめたりはしませんよ。それこそよっぽど強烈な何かが無くちゃ」


 それはきっと強い恨み。怒り。そういった類のものだろう。

 でも、それがどうしてコズサ姫に向くんだろう……


 そのとき、また「ふにゃあ」と何かが耳をかすめた。


 アルゴさんがぴたりと足を止め、あたしも一緒になって立ち止まる。

 目の前には扉があった。

 開けっ放しの、両開きの扉が。


「アルゴさん、これ」


 見覚えのある扉だった。


「これ、この扉、さっきの」

「うむ」

「あたしたち、もしかして同じ場所に戻って来て……」


 あたしは恐る恐る、隣を横目で伺った。

 するとアルゴさんは重々しく頷いた。


「うむ。ここに戻るのは、私は三度目だ」




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