007:厳戒のエード城 二
エード城は遠かった。
お堀の端からお城の塔を見上げて、あたしは呟いた。
「見えてからが、遠いんだ……」
こう言ったのはたしか高二の時の担任だ。
学生時代は山岳部、日本中の色んな山に登ったと言っていた。
北は北海道、南は屋久島。テントと食糧を背負い、時には仲間と、時には一人で。
で、それがよっぽど楽しかったのだろう。
授業中の雑談と言えば山の話。そして出た発言がこれ。
「見えてからが……遠いんだ……」
山から山へ歩くとき、目的の山頂ってすぐには見えないんだって。
で、何時間も何時間も歩いてようやく見えてくる。
──けど実は、それが戦いの始まり。
見えたからってすぐには着かない。その山が大きければ大きいほど。そしてまた何時間も何時間も歩き……
「着いたあー!」
って時のえもいわれぬ盛り上がりときたら……
……
…………
いーや、そんな話はどうでもよろしい。
なんでこんなことを思い出したのか。それはもうエード城が遠いからに他ならない。
「いくらなんでも……遠すぎじゃない?」
あたしは溜息をつき、改めてお城の塔を見上げた。
時刻は午後の四時。だんだん日が傾いてきた。あーあ、自転車で来ればよかったなあ……普段大して歩かないあたしには、けっこうな運動だ。
日本で言えば江戸城、すなわち皇居に該当しそうなこの建物、日本と同様にお堀が巡らせてある。白鳥みたいな鳥が疲労困憊のあたしには目もくれず、優雅に泳いでいて中々美しい眺め。
──なのはいいんだけど、どこが入口なのかさっぱりわからない。
もう守衛さんじゃなくても、そこらへんの警備の人でもいいんだけど……その警備の人すら見当たらないのだ。
あたしはもういちど溜息をつき、お堀っ端の土手に腰掛けた。
人通りもないし、お堀を渡る橋みたいのもないし、そもそもこのお堀に沿ってもう一周しちゃったくらいは歩いている。
「疲れたあー!」
と声に出して、土手の草むらに寝転んだ。日本では皇居の周りをマラソンする人が多いけど、何を好き好んで……とか思っちゃう。
もうお城への営業は諦めて引き返そうかなあ……
なんて考えていたその時だった。
あたしは一羽の水鳥が羽ばたくのを見た。
羽を広げ、水面を駆けるように助走をつけて飛び立っていく。
空を舞い──お城の石垣の木立の方へ。
そして──
空中に波紋を描き、消えた。
文字通り消えた。
「……なに、今の」
上半身を起こして目をこする。
あの水鳥、まるで水に突っ込んだような波紋を描いた。見えない空気の壁にぶち当たり、そこを通って『向こう側』へ行ったみたいな……
……『向こう側』?
自分の思いつきに眉をひそめ、首を傾げる。
もしかして、お城の入口が見当たらないんじゃなくて、見えてないだけ?
あの鳥には人間のつくった橋とか関係ないから、自由に行き来できるってこと?
じゃあなんであたしには見えないの?
人間だから?
「……やめた、粉屋さん寄って帰ろう」
あたしは上着についた草を払った。
見えないことには理由があるはずだもの。それはきっと、あたしみたいな異世界人のパン屋の娘は知らなくてもいいことだ。
それに過ぎた好奇心は身を滅ぼすって言うじゃない。
映画でもなんでも、余計なことに首をつっこんだ登場人物は真っ先に“退場”すると相場が決まっている。そんな展開はまっぴらごめんだ。
あたしはうーん、と両手を上げて伸びをした。
そのまま体を左右に捻る。
どこかの関節がぽきっと鳴ったとき──向こうの方から、何人か男の人が来るのが見えた。
あの人たちが行ったら、あたしも行こう。
彼らは何か話しながらやってくる。その声が聞こえるぐらい近づいて、ほんの少し届いた言葉にあたしはつい耳をそばだてた。
「今日いなかったな、あの子」
「いませんでしたね。バイトくんなのかな、さっきのは」
「残念だったな。おまえ、けっこう可愛いなんて言ってたじゃん」
「顔なんてそんな、よく見ませんでしたよ」
「御釣りがわかんなくて焦ってた様子がいい、とか言ってたじゃん」
「いや焦っていたというよりも、どことなく一生懸命な様子が」
「良かったんだろ、やっぱり」
「いやいや!」
「まあでもさ、あのバイト少年も可愛かったからいいんじゃないの?」
「どんなに可愛くても少年は……」
……なんか、聞いたような話。
と思って振り返った時、ちょうど彼らはあたしの後ろを通った。その中に見覚えのある顔を見つけ、あっと息を飲む。
──昨日の兵隊さんだ!
かーっと頬が熱くなり、思わず隠れるように下を向く。
そうだあ、昨日銀色の硬貨を受け取った時レジでもたついちゃったんだった……わーもう恥ずかしいなあ。
今の話だと、またお店に寄ってくれたみたい。リピーターになってくれるんなら嬉しいことだ。
「あのっ」
勇気を出して一言お礼を。そう思って立ち上がると、彼らはもう結構先の方にいた。
足、早い……!
それともあたしが鈍ってるだけだろうか。乗り物が発達してない世界だから、みんな健脚なのかしら。
そのまま見てると彼らはお堀端を歩いて行き、橋も何にもないところで左に折れて──
消えた。
空中に波紋を描いて。
「……なによ、見えてないの本当にあたしだけ……?」
だって彼らは人間だ。鳥ではない。
彼らとあたしの間に違いがあるとすれば、彼らはここの人、あたしは異世界の人ってところだけど。
考え込むあたしの前髪を午後の風が撫でていく。どこからか黄色い花びらが舞い落ちて、見上げればミモザのような細かい花をつけた木がところどころ道沿いに植わっていた。
日本なら薄紅色の桜が満開を迎えるシーズンだ。皇居周りの桜が綺麗に咲いたって、ニュースでやっていることだろう。
そういえば、山野くんとお花見したこともあったっけ。
今頃どうしてんのかしら。
大学のコンパとか行っちゃってるんだろうなあ……あ、だめだよくない、考えるのはよそう。
あたしは首を左右に振り、兵隊さんたちが消えたあたりをじっと見つめた。
「……行ってみようかな」
彼らが通れたんなら、あたしだって通れるだろう。通れなかったら引き返せばいいんだから。
あたしはお尻についた草を払って歩きはじめた。ちょっと休憩したからか、少し元気が戻ってきた。
兵隊さんが見えなくなったあたりまで来て足を止める。それから左を向き、恐る恐る手を伸ばした。
ちょっとドキドキする。
あたしの指先は虚空をさまよい──一瞬、何かに触った。
何か見えないもの。
透明で、粘度のあるもの。
かなりドキドキしてきた。きっとここが『入口』だ。
どうする、あたし。
行く?
行かない?
しばし考えた末あたしはキュッと目を瞑り、えいっと『それ』に手を突っ込んだ。
次にもう一本の手。
そして意を決して、頭を突っ込んだ。
それから──目を開けた。
見えたのは木の跳ね橋。
その先に石の城門。
ああ、やっぱりここが『入口』なんだ。
橋の上に人影はない。その先の城門は開いている。
あたしはそーっと橋を渡り、城門をくぐった。
……ほんとはここで守衛さんに伝言とメロンパンをお渡しして、帰るつもりだったんだけど……しょうがない、誰もいないんじゃ。
城門をくぐった先は石の階段。きょろきょろあたりを見回したけど、やっぱり誰もいない。
守衛室みたいなのも見当たらない。
どうしよう。
石段を前に躊躇するあたしの髪を、お堀を吹き抜けた風が乱していく──
「迷うておるな」
不意に聞こえた声に、あたしは振り返った。
鈴のように凛とした。そして、強い。
でも誰もいない。
何処から聞こえたのかわからないその声を探して、あたしは辺りを見回した。
「そこな娘。迷うておるな」
「あ……はい!」
「苦しゅうない。上がって参れ」
やばいやばい。
あたしの心臓はドキドキどころか、バクバクと騒ぎだした。
この声、この口調。
間違いなく『やんごとなき御方』だ。
あーどうしよう、どうしよう……やっぱ来なければ良かったかな。
階段の前であたしの足は動かない。
その姿を見ていたように、また『やんごとなき御方』の声がした。
「早うせぬか!」
「はっ……はい!」
「待つのはキライじゃ、走れ!」
ひえぇぇぇぇ。
なんだか訳がわからぬまま、あたしは石段を駆け上がった。大きく螺旋状に敷かれた石段の、踊り場を一つ過ぎ、二つ過ぎ、三つ過ぎ……
い、息が……上がる……
まだ十代なのに……!
「急げ! 近衛士の目を誤魔化せるのはほんの一時じゃッ」
「は……は……はいぃぃ!」
石段は人の歩幅なんてまったく考慮してないような作りで、走りづらいことこの上ない。
妙に幅広の一段につま先を引っかけ、あたしは盛大にひっくり返った。
「いったあ……」
履いていたのがジーンズで良かった。これが短パンだったら両膝をすりむいていただろう。
とっさについた掌が痛い。
それを服の裾でこすって立ち上がろうとし──
「動くな、娘。名を名乗れ」
──突き付けられた剣の切っ先に、あたしは腰を抜かした。
やばいやばいやばい。
過ぎた好奇心は身を滅ぼすって、わかってたのに。
今のあたしは映画やなんかで真っ先に『退場』する登場人物そのものだ。心臓はバクバクどころか、破裂しそう、あるいは凍りつきそう。
でもだめだ。あたしはまだ『退場』したくない。
絶対、家に帰らなきゃ。異世界でまさかの切り捨て御免なんて、ぜったい嫌……!!
「名乗れ。名乗らねば切り捨てる」
なんとかしなきゃ。
なんとかしなきゃ。
あたしはどうにか唇を動かした。声が震えて上手く出てこない。
「……松尾サトコです」
「どうやってここまで上がってきた」
「誰かが走れって……」
あたしに剣を突きつけているのは、兵隊さんでもなければ貴族や王様でもなさそうな、平服の男の人だった。
シャツ、ズボン、革のブーツという簡単な出で立ち。でも腰には剣の鞘がぶら下がっている。向けられた切っ先は微動だにしない。
西日が刃を赤く染め、その人の影も赤く染まった。鈍く光る目がじっとこちらを見据えている。
この人が眼前に現れた瞬間が、あたしにはわからなかった。
それだけじゃない。
こわごわあたりを伺えば、誰もいなかった石段にはちゃんと警備の兵隊さんがいて、それぞれ剣の柄に手をかけてあたしを取り囲んでいる。
この人たち、突然目の前に現れた。
けどもしかして、急に現れたのは──あたしの方、なんだろうか。
「捕えて地下につないでおけ」
その人は無慈悲に言い放ち、剣を収めた。周りの兵隊さんがあたしの腕に手をかけ、立たせようとする。
あああ、うそ。やめてやめて。
「ま……待って、待って! あたし何にも……」
「アルゴ!」
轟いたのは、きんと高い子どもの声だった。
「その娘を離せッ」
「なりませぬ」
「離さぬなら、おぬしを打つ!」
「お好きになされい。城をお守りするのがアルゴの務めに御座います」
アルゴという名のその人が、誰と話しているのかあたしにはわからなかった。
ただ自分より身分の高い相手と話しているのだろう、そんな感じだ。
腕に手をかけたままの兵隊さんも、どうすればいいのかわからずに中途半端に固まっている。
やがてパタパタと足音が聞こえ──
「アルゴ、この頑固者!」
──小学生くらいの女の子が息を切らして駆けてきた。
胸と裾に華やかな縫い取りを施したシンプルな形の衣装を纏い、つややかな黒髪をなびかせて。
かなり高貴なご身分と見た。
しかも美少女。
これは大人になったら相当な美人になること間違いなしだ。
彼女はそのままこちらに駆けてきて──さっと片膝ついたアルゴという人の肩のあたりを、ぽか、と拳でたたいた。
一発。二発。三発。
ぽかぽかぽか。
「おやめください。痛う御座います」
「笑うておるではないか! 痛くなどないくせにッ」
「童の力でも、打たれれば痛いものに御座いますれば」
「やめぬ! わらわは打つと言うたはずじゃ!」
わらわだって──この子、お姫様なんだ。
「やっぱり」と頭のどこかで声がした。
ぽかぽか叩きまくる小さな拳を避けもせず、跪いたままアルゴさんは打たれるに任せている。お姫様の登場で他の兵隊さんも一斉に膝をつき、頭を垂れた。
「この娘はこれから取り調べに御座います。何と仰せでも離すわけには」
「ならぬ! わらわが呼んだのじゃ」
「然様で御座いますか」
「わらわへの届け物を持っておる。そうであろう?」
……きっと、メロンパンのことだ。
メロンパンを欲しがってるお姫様なんて、あたしは一人しか知らない──でもその人はあたしと同い年のはず。
確認するのが怖い。
だけどここは異世界だ。魔法使いも、竜もいる。
だったら子どもの姿をした大人のお姫様がいたって──全然、変じゃない。
「あの、あなたはもしかして……」
あたしは腰を抜かしたまま。声は相変わらず震えていた。
日差しはどんどん傾き、何もかもが燃えるような赤だ。
階段の先の、お城で一番大きな塔も。
「もしかして……コズサ姫……?」
美少女は静かにこちらを向いた。
薔薇の花びらのような唇がゆっくり開く。
さっきまできーきー言ってたのとはまったく違う堂々たる声で、彼女は答えた。
「如何にも」
その言葉で、あたしは完全に悟った──今まさに、あたしは何かのトラブルに首を突っ込んだのだ。