084:姫様の、本当の、気持ち
コズサ姫にかけられた魔法に悪意はない。
どういうことなんだろう、ってずっと思ってた。
なんでなんだろう、ってずっと思ってた。
だって“魔法で姿を変えられたお姫様”なんて聞いたら普通、悪い魔法使いに呪われたんだって思うじゃない……でも実際はそうじゃなかった。
子どもに戻りたいって願ったのはコズサ姫。
願いを叶えたのはハーロウさん。
悪意なんかない。
悪意なんか。
「おれはあの日あの夜言ったはずだ。
おまえの心に添って編まれた魔法は『おまえの心が満足するまで』決して解けぬ。おれにも、マーロウにも、誰にもな」
胸元で白い石がぼんやり光っている。それを握る手に力が入らない。
聞きましたか、マーロウさん……魔法の解き方、わかりましたか。
「言い返せば『おまえの心が満足すれば』即座に解けるはずなのだ。術者のおれが、何もせずとも」
あたしにはもうわからない。
どうすればいいのかわからない。
小さな龍がその鼻先を“鬼の眼”にくっつける──それをぼんやり眺めるだけ。顔を上げて、魔法の壁の向こう側にじっと視線を向けるだけ。
それで精いっぱい。
「おまえは先ほど『一生の願い』を述べ、おれは『力を貸そう』と確かに答えた。だがおまえの姿に、おまえにかけた魔法に、わずかの綻びも見当たらぬ。
これがどういう意味かわかるか、ん?」
「しかし……しかし、わらわは偽ってなどおらぬ。取り繕うてなどおらぬ。我が供連れを案ずるは嘘ではないッ」
わかってる……姫様、あたしちゃんとわかってる。
「自分で皆を迎えに行く」と言い切るその言葉に、一片たりとも嘘など無いってこと。
疑う余地もなく真実だってこと。
それでもハーロウさんは切り捨てる。じつに無慈悲に、ばっさりと。
「嘘でなければすなわち真実と言えるのかね。
いつまでそうやって誤魔化すのだ。心を偽り、取り繕い、死ぬまで過ごすつもりかね」
「……己が心は、己が一番わかっておるッ」
「ならば何故子どものままでいるのだ、エードの姫よ。
真実の願いすらままならぬのに、新たな願いを口にするか。いちど我がままを叶えてやったおれに、また我がままを言うつもりか。甘えるのも大概にするんだな」
やめて。やめて。やめてあげてよ。
あたしの声は届かない。テレビかなんかの画面越しに見てるような、そんな距離感。
魔法の壁に隔てられ、すごく近いのに──なんて遠いの。
「どうしても……助けてはくれぬのか。兄じじよ」
口が出せない。手も出せない。あたしは途方に暮れ、抱えた膝に顔を埋めた。
“あの日”のことは全部聞いた。
隠されてる事実は、きっともう無いだろう。
「拝み倒しても駄目なのか。すがりついても駄目なのか。この姿を何とかせぬ限り、わらわの頼みは聞けぬというわけか」
「少なくとも気は進まんな」
「だとしても!」
どうすればいいの。これから先。
「だとしても──必ず、迎えに、行かねばならぬ。それはわらわが、やらねばならぬ……人任せには出来ぬのじゃ。
この姿になったのも、ファタルに詣でたのも、そこで鬼に出遭うたのも、元をただせばわらわのせいじゃ。わらわの浅はかな心根のせいじゃ」
あたしに出来ることは何もないのだ。
すべては姫様の気持ち次第。
誰かがどうこうすれば何かが変わるとか、そういうモノではないんだから──ここで眺めているより他にない。
「なればこそわらわが迎えに行かねばならぬ。
人に任せれば負い目となり、一生悔やまれよう。己を許せず、誰にも何処にも顔向けできず、俯いたまま生きていくこととなろう……他の希望を口にするわけには行かぬのじゃ」
「……ふん」
自分の非力さに潰れかけていたあたしは、ふっと顔を上げた。
魔法の壁の向こう側でハーロウさんが腕を組み直す。「埒が明かんな」と呟いて、根負けしたように肩をすくめた。
「しゃくに障るが仕方ない……助けてやろう、エードの姫よ。一度は首を縦に振ったのだ」
え、とあたしは目を瞠った。
驚いたのはコズサ姫も同じだ。期待と不安に上ずる声で、大魔法使いに問いかけた。
「助けてくれるのか。う……嘘ではなかろうな」
「嘘などつかん。いつまでも此処にいられてはかなわんだけだ。
それで誰を迎えに行く? 言うてみろ、そいつのところへ連れてってやる」
「ならば、それならば“龍の通路”の」
──だけど、そんなにうまい話があるわけなくて。
ぎい、と音がしてハーロウさんは揺り椅子から腰を浮かせた。大きな目玉をギロリと動かし、姫様を睨みつける。
「まだわからぬのか!!」
唸るように姫様を怒鳴りつける、その影が火の無い暖炉に映って大きく揺れた。
ゆらりとコズサ姫がわずかに傾ぐ。
ようやく見えた横顔は、血の気が引いて真っ白で。瞳を、大きく見開いて。
「おまえはまだわからぬのか……この段になって、まだ偽るか! おれがおまえに力を貸したのは、あの日のおまえの言葉を心よりのものと思うたからだ。嘘偽りのない、真実の願いと思うたからだ!」
あたしはゴクリと息を飲んだ。
責められてるのは自分じゃないのに、追い詰められたのはあたしじゃないのに、胸が冷え、口の中がひどく乾く。
無意識に震えだした指先を、ぎゅっと押さえつけるように握りしめる。
「それをなんだ“龍の通路”だと。それが『一生の願い』だと──よもやわからぬとは言わせぬぞエードの姫よ! それとも姫と呼ばれては素直になれぬか。己が心に向き合えぬかッ」
やめてあげて、と叫びたい。だけどそんな資格はあたしには無い。
だって同じことをしたんだから。
我慢する姫様を見ることに我慢が出来ず、あたしもあの時、同じように苛立ったんだから──あの夕暮れの裏参道で。
そして同じように追いつめたのだ。
「さあどうするコズサよ、魔法使いハーロウに偽らぬ心を見せてみろ! 偽りなき願いを述べてみろ! おまえは誰を選ぶのだ!!」
だけど姫様が我慢をやめない限り、自分の口で「どうしたいのか」言わない限り、その心が満足しない限り、魔法が解ける日は永遠に来ない──それもまた真実で。
コズサ姫は視線を泳がせ、はぁっ、と肩で息をした。
ガア、ガア、ガア──
『生まれついての姫なのであろうなあ』
だめだ──姫様は、きっとあの人を選べない。
『姫はおまえを迎えに行くと言い続けるぞ。心を殺して、おまえを巻き込んだ責任を取ろうとし続けるぞ。
立派なことよ。おまえのような凡百の娘にはできるまいな』
それにあたしは気づいてしまった。
あの人を選んだって魔法は解けない。
大人の姿に戻ったらお嫁に行かなきゃいけないんだから。あの人を選んで魔法が解けても、別れが近づくだけなんだから。
だから姫様は、アルゴさんを選べない。
「……わかってるわよ」
声が掠れる。ようやく浮かせた腰はひどく重く、いつのまにかしびれた足元がおぼつかない。
もう一度座り込みそうになるけどグッと堪え、顔を上げた。
「わかってるわよ、鴉。あんたに言われなくても……姫様が、そういう人だってことくらい!」
ふらつきながら体を動かし、魔法の壁に両手を押し当てる。
ゴムみたいな感触の見えない厚い壁。これを破らなきゃ。向こう側へ行かなくちゃ。
「どんだけ我慢してるか、くらい!」
体当たりしたって、びくともしない。
でも、でも、なんとかしなきゃ。なんとかしなきゃ。なんとかしなきゃ──だってこんなの、あんまりだ。
頬が濡れてる。汗かもしれないし、涙かもしれない。
それを小さい龍がぺろりと舐める。
「ちょっと見てればわかるわよ! あたしはバカかもしんないけど! 姫様の、本当の、気持ちくらい!!」
すると小さい龍が「きゅー」と鳴き、するりとあたしの肩から下りた。魔法の壁に体当たりするあたしの足元で、壁に短い前脚をかけて──大きく口を開ける。
「あ……あんた」
そして魔法の壁に喰らいつき、鋭い爪を突き立てた。
「わかるの? あたしがどうしたいのか」
きゅッと短く声を上げ、小さな龍はまた魔法の壁にかじりつく。
ぐいと顎を引き噛み千切ったその刹那、壁の手触りが変化した──ゴムみたいな何かではなく、まるで薄く張った膜のように。
あたしはそこに渾身の力で体をぶつけ、そして
ぱちんッ
何か弾けるような音と同時に“壁”が消えた!
「あだッ!?」
バランスを崩し、あたしは床に倒れ込んだ。
目に入ったのは誇らしげな小さい龍。それから、ただの鳥のフリして沈黙する大きな鴉。奥の方ではやれやれと老魔法使いが首を振り──そして、
「サトコどの」
エードの姫が驚きに目を瞠る。
「サトコどの。なぜここに」
「姫様、あたし……あの、あたし、ここにいます。ここに」
「無事だったのか。怪我は。も──もう二度と会えぬかと」
「だからあの、あたしのことはいいですから」
「あ、合わせる顔など無いと」
「あたしのことは! いいですからっ!!」
泣き出しそうなコズサ姫に、あたしは声を張り上げた。
「言って! 言ってください、あの人を迎えに行くってそう言って!!」
ぼろぼろっと音を立てるように、コズサ姫の瞳から涙が零れ落ちた。つられてあたしの目からも何粒か落ちた。
口許を小さな手で覆い、エードの姫は視線を彷徨わせる。あたしを見て、龍を見て、鴉を見て、ハーロウさんを見て──もう一度あたしを見た。
蒼白だった頬に赤みが差す。
乱れた髪が頬にはりついてぐしゃぐしゃだ。
あたしの顔だって人のこと言えやしない。だけど無理矢理に笑顔を作って「ほら言って」と声をかける。
「竜巻山の魔法使い……ハーロウよ」
口許を押さえていた手を外し、ぐいと目元を拭ってコズサ姫は背筋を伸ばした。
「我が願い、聞いてくれるか」
まっすぐな視線を受け、大魔法使いも居住まいを正す。
「エードの近衛の長、我が守役アルゴを迎えに行く。西の都じゃ、連れて行きや!」
「……よかろう!」
ハーロウさんは深く頷き、あたしはそれを見た途端──
「姫様ぁ!」
なんだか感極まってしまって、ぎゅう、とコズサ姫に抱きついた。
姫様よく言えたね……よく言えたね。
「よく言えたね」なんて上から目線になるのはおかしいんだけど、他に言葉が出てこない。細い腕であたしにしがみついた、姫様の肩が震えている。
小さな龍は首を傾げて「きゅー」と鳴き、鴉はピョンピョン床の上を跳ねながら、二度羽ばたいてハーロウさんの肩に乗った。
「サトコどの」
姫様があたしの胸に埋めていたお顔をようやく上げた。
大きな瞳に涙をいっぱい溜めて。
鼻が赤くなっている。まぶたも。
「アルゴを、迎えに行くと……いうことは」
「はい」
「それ以外を……後回しにすると、いうことじゃ」
「はい」
「わらわは、サトコどのを……後回しにしようとした。
さんざ振り回し、怖い目に遭わせ、揚句のはてに後回しじゃ……ぐすっ……こんな、このような、これでは嫌われたとて」
「あたしが姫様のこと嫌いになるわけないじゃないですかぁ!!」
涙声を遮って、あたしはぎゅーっとコズサ姫を抱きしめた。それから「ごめんなさい」と三回繰り返し、さらにぎゅーっと力を込めた。
わあッと声を上げて姫様は泣いた。あたしもちょっと、いやかなり涙が出てしまい、長い黒髪に顔を埋めた。
「行きましょうね、姫様。アルゴさん迎えに行きましょう」
アルゴさん。
アルゴさんにも謝らなくちゃ。
ごめんなさい。
姫様を泣かせてごめんなさい。
先を越しちゃってごめんなさい。
あなたより先にコズサ姫を抱きしめちゃって、本当に本当に、ごめんなさい──
何度も何度も、あたしは心の中で謝った。
抱き合って泣けることにほっとして、しゃくりあげる小さな背中をさすりながら繰り返し。
「ごめんなさい……ごめんなさい」
それからもう一人。
後回しにして、ごめんなさい。すごく気がかりなのに言い出せずにいて、ごめんなさい。
お願い。
どうか無事で。
無事でいてください、レオニさん……




