083:あの日あの夜 二
ガアアー、ガァ、ガアアア──
『それがあまりに堂々としていたものでな、ますます鼻っ柱を折ってやりたくなったのよ。言われっぱなしでは腹の虫がおさまらんからな』
「……ハーロウさんってけっこう大人げな」
『姫に仕える近衛の大将のことは知っている。十年負け知らずのつわもので、幾度も姫の命を繋いだそうじゃないか。
しかし剣が上手いだけの小僧よりも下に見られるのは気に食わん。魔法使いハーロウの魂の尊厳にも関わるからな。ああ胸糞悪い』
小僧だって。
あたしは鴉を二度見した。小さな龍も一緒になって二度見する。あんたアルゴさんのことは知らないでしょうに。
「大王の后になるともあれば少々のことでは動じぬか。さすがと言えような」
それでも老魔法使いがイラッとしたのは本当のようで──鴉から聞くあの日の言葉は、皮肉の色を濃くしていく。
「だがその強気も守役あってのことだろう。忠義の士はここにはおらぬ。なんぞ奇蹟でもない限り、誰も救けには来ないのだ」
どんなに豪胆な姫であろうと死を恐れないはずがない。今回も大丈夫だと思い込んでいるに過ぎぬのだ。
根拠なき自信だと喝破され、己が盾は無力であると言い切られ、姫は少々ムッとしたようだった。そこに魔法使いは畳み掛ける。
「仮にここまで辿りついても只人の身で何が出来よう。
ふむ、おまえより先に其奴をいたぶってやるのも一興か。姫が横死したとあらばその男とて生きてはおれぬのだ。順序が前後したとて結果は同じ、二人とも死ぬわけだからな」
「どういうことじゃ」
わずかな動揺を感じ取り、ハーロウさんははほくそ笑む。
姫が絶対の信頼を寄せる近衛の長。
鼻持ちならぬこの小娘を、まずはこいつをダシにやっつけてやろう。なんといっても龍の洲で一、二を争う魔法使いのメンツがかかっているのだ。
「ときに姫よ。
その男、おまえが大王の后となっても傍に控えさせるつもりかね。年がら年じゅう朝昼晩、おまえのそばに侍るだけの人生か──其奴いったい、何の為に生きているのだ。
ハン、滅私奉公ここに極まれりだな」
強引に話を逸らし、ハーロウさんはその目の奥でエードの姫を観察する。
訝しむように眉をひそめ、瞳に浮かぶのは警戒の色。まだだ、まだまだ。その鼻ポキリとへし折ってやる。
「男なれば当然抱く望みも叶うまい。おまえが赤子を抱いて笑うその後ろで、おまえを恨む気持ちが燻ったとて不思議はないぞ」
「……斯様なことッ」
「考えるような男ではないと? ほうほうなるほど大した自信ではないか。しかし忠義のためにあらゆる幸せを手離してみせるのだ、本音を押し隠すくらい朝飯前だろう。
果報者だなエードの姫よ。
そうやって身も心も守られて、ぬくぬく生きてきたのだな」
姫が魔法使いから視線を外した──よしよし、ここまで目論み通り。
この強気な姫は己が守役に引け目を感じているに違いない。何とも可愛らしいことではないか。それが弱みというのなら、徹底的につついてやろう。
「幸せも悦びも押し込め、潰し、殺しつくして十年か。そう言う男が死んでいくのだ、おまえのつまらぬ意地のため、生涯の一番良き時をふいにして。
なあ姫よ。おまえは其奴に何かしてやったことがあるのかね? ハン、あるはずが無かろうなあ──奪い尽くす一方で与えたためしなど」
「ならばどうせよというのじゃ!」
唐突に姫が叫んだ。
「与えられるものがあるなら、とうに与えておるわ! 望むものあらば何なりと! なれど……なれど、要らぬと言われたら」
キッと顔を上げて老魔法使いを睨みつけ、噛みつくように。
その表情に「おや」とハーロウさんは首を傾げた。
「い……要らぬともしも言われたら! わらわはどうすればよいッ」
耳の先まで真っ赤に染めて、大きな瞳をせわしなく動かして──それから誤魔化すように下を向き、早口で捲し立てる。
「あ、あやつにとっては役目であるから、西に行けと言えば行くであろう。エードに留まれと言えば留まるであろう。命を賭してこの身を守るも役目ゆえ、人並みの暮らしができぬのも役目ゆえ、それくらい承知で務めていよう。こちらも承知で召し抱えておるし、本当に嫌なら暇がほしいと言い出そう。一度決めたら譲らぬ男じゃ、引き留めようが何しようが去る時は去る、そういうやつじゃ」
今度はハーロウさんが眉をひそめる番だった。
なにやら妙だ。おかしいぞ──この姫はいったい何を喚いている?
「その働きは充分以上に充分じゃ、俸禄以上の献身じゃ、わかっておる……わかっておる! 何かしてやりたい気持ちとて存分にあるのじゃ、しかし要らぬと言われたら」
何がおかしいって、心配事の内容が思っていたのと違うのだ。
「そんなものは要らぬから、務めを果たすことのみ心におくべしと言われたら」
侮辱されて怒るのならば想定通り。臣下を害すると言われて腹を立てたり、怯えたりするのも予想のうち。
それがなんだ。
どうしたことだ。
この姫ときたら、守役に邪険にされることだけを心配しているではないか。
「もしもそのように言われたら。わ……わらわはこの先、どうすれば」
「言われたのかね? おまえのような主は要らぬと」
ぽつりと呟くように訊ねれば──姫は石のごとく固まり、動かない。
「おまえなんぞ要らんサッサと嫁に行け、とでも言われたのかね?」
「ち……違う」
「言外にそう言われたが悲しくて、泣きながらここに来たのかね?」
「違うッ!」
叫び、ぶんぶんとかぶりを振る。美しいかんばせを真っ赤に染めて、紅い唇を震わせて。
ハーロウさんは深々と息をついた。
「それならそうと言っておればよかろうに──妙な意地を張り、おれと言い合うこともないだろう」
その姿は何よりも雄弁で。
十人見れば十人が「只事ではない」と悟るだろう。エードの王は、典医をしているという弟は、これを放っていたのだろうか。
齢十八、年相応には違いない。
しかしこの娘は“高貴の姫”なのだ。年相応が許される立場ではあり得ない。
だからハーロウさんは言おうとした──
なあ姫よ。
おまえそんな体たらくで、どうするのかね。
本当に都へ来るのかね。
輿入れなんぞできるのかね。
そのような状態でやってきて、大王の后が務まるのかね。
──そう言って嗤おうとした。
だけど口にする前に気が付いた。
「死ぬのも悪くはないと……おまえ、そう思うているな」
冴えた月明かりの下で、エードの姫がびくりと肩を震わせる。
「死ねば楽になれると、そう思うたか」
恐れるように目を瞠り、何か言おうとした唇は動かない。
──哀れよな。
男がいて、女がいて、動いた心をこの姫は持て余しているのだろう。
落としどころが見つからず、置きどころを決められず、もしかしたら己が心の呼び名さえ知らず──死ぬのは怖くないなどと投げやりになることだけが、せめてもの抵抗なのだとしたら。
「……苦しかろうな」
老魔法使いはもう嗤わなかった。
腹立たしいと思ったのは真実だ。けれど今は同じくらい、この姫が哀れで仕方がない。
「しかしおまえには務目がある。生きて大王に輿入れし、赤子を産むという大役が。
赤子はさぞかし可愛いかろう……たくさん抱いて、あやしてやるがよい。ふむ、そうなったら隠居はやめて御所に戻るのも悪くは無いな。
だが姫よ。
今のおまえは死人のようだ。魂の死んだ人形だ。死人が子を生めようか……それも龍の血を引く大王の子を」
「……黙れ!」
色を失い、唇を戦慄かせ、姫はもう一度かぶりを振った。千々に乱れる心そのままに黒髪が乱れて首筋にまとわりつく。
「その口を閉じよ魔法使い、何を吹きむつもりじゃ! 無駄口叩く暇があるならば、さっさとこの命取ればよい!」
「おれがいったい何を吹き込むというのかね……人のせいにするのは止すんだな。吹きこまれたと思うのならそれは間違いだ。おまえの中に、元々在ったのだ」
「黙れッ!!」
「息の根を止めるだけなら簡単だ。
しかし先ほど言うたはず。おまえが死ねば、おまえの守役もまた死ぬのだぞ」
──そこまで伝え聞き、あたしは声を振り絞った。
「なんてこと言うのよ……」
胸の内側が冷えていく。
なんてことを言うんだろう……死人のようだとか、魂の死んだ人形だとか。挙句の果てに、自分が死んだらアルゴさんも死ぬだとか。
なんでそんな、酷いことばかり。
『エードの姫が死ねばその守役も死ぬ。今はじめて聞いたような顔をしておるが当然だろう』
呆れたようにそう言って、鴉はあたしの横でガァガァ鳴いた。
『目の前で敵に囲まれ命取られるも、知らぬ間に姫が横死するも同じことだ。
姫を守れなんだ責は守役にあり、その罪により首を打たれるか、あるいはエード王が情けをかけて追腹を許すか、そういったところだろう。なんにせよ床の上では死ねぬ定めだ』
「……でも、いくらなんでも!」
『とはいえハーロウが何もせずとも、あれは自ら死んでいくぞ』
なんてことを。
なんてことを。
それだけが頭の中でぐるぐる回る。
『器ではなく中身が死ぬのだ。
死人が輿入れしてきたところで何になる。誰の為にもならんだろう。大王の為にも、生まれる子の為にも、龍の洲に生きる民草の為にもな』
「でも殺すとか言ってたじゃない!」
『覚悟無く后の座につくならば死なせてやるのが姫のためだ!!』
ガアー、ガアアアア、ガアア──
『だがあの姫は生きねばならぬ。大役があるからな。迷っているうちは来られても困る──生きて腹を決めた者でなけりゃ務まらん』
言葉を失い、あたしは視線を彷徨わせた。
『だからハーロウは魔法をかけたのだ』
これがもし立ち話だったら──あたしはきっと、座り込んでいただろう。
『どのような姫が来るのかと確かめてみたらこのざまだ。聡きことも、堪え性があることも、おのれの役目をよくよく知っていることも、何一つあの姫の為にはならん。
男ならさぞや優れた王になるだろう。あるいはもっと、ぼんやりした娘ならば違ったかもしれん。蝶よ花よで育てられたのんびりした気性の姫ならば、何処へ行ってもそれなりに幸せになれる。
だがあの姫は駄目だ』
きっと立っていられなかった。
見透かされて、打ちのめされて、現実を突きつけられて、魔法使いの本音を知って──きっと座り込んでいた。
そのときのコズサ姫のように。
『強いものほど一旦壊れたら直らない。だからあの姫は駄目だ』
視線を落とした手のうちで、小さい龍がこちらを見上げている。
「なにゆえ我が心を試した、兄じじよ……大王様の御為か」
何が悪戯心よ。
何がマーロウさんをギャフンと言わすよ。
殺すとかなんとか、散々言っておいて何なのよ……
「わらわの首を取るのではなかったのか。
わらわの死を望むのではなかったのか。
この言いようでは、まるで……まるで……まるでアルゴを人質に、『まだ生きよ』とでも言いたげな」
「そういうおまえは『早く殺せ』と言わんばかりじゃないか」
「──違う」
「苦しかろうな。その男の所為で」
「違うッ」
「ではどうしたいのだエードの姫よ!」
もういやだ。
もう立てない。
座り込み、途方に暮れて、俯いたまま震えるしか、できない。
「言ってみろ。言ってみろ。言えぬかそうか、素直になれぬか。
そうやっておまえは心を取り繕い、ヒビの入った盃のように少しずつ中身をこぼすのだ!」
魔法使いは苛立った。頑なな姫に苛立ち、声を荒げた。
「行きつく先がわかるか姫よ。行く末がわかるか姫よ。おまえはいずれ空っぽの人形になり、跡形もなく壊れるのだ! それでも良いと、そう言うか!!」
「ならばどうせよと申すのじゃ!!」
姫もまた声を荒げた。
「空っぽの人形の方がマシではないか。生きることも死ぬこともままならぬならば、いっそ」
顔を上げたその頬は、涙に濡れていて。
「いっそ」
月がそれを照らして、輝いて。
「何も知らなかったあの頃に、戻りたい」
ああ。
ああ。
ああ。
そうだったんだ。姫様──だからその姿に。
アルゴさんと出会う前の、その姿に。




