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078:お願い、おかーさん 二

「マーロウさんの……えっ、おに、えっ、えぇっ!?」


 ガタンと音を立て、あたしは腰を浮かせた。


「それってあの、鬼、西の、えぇぇぇ!?」

「あーいやいや、西の都ではないよ。竜巻山の麓に美しい湖があってのう、その中の小さな島に兄が庵をかまえておる。ひいさまはそちらにおいでじゃよ」

「でもマーロウさんのお兄さんって……」


 姫様を子どもにしちゃったやつじゃない──そう言いかけて、あたしは口をつぐんだ。

 マーロウさんのお兄さんと、霊廟に現れた鬼。

 なんなの。どういう関係なの。無関係なの。問い質したいのにどう聞けばいいのかわからない。

 頭の中が疑問でいっぱい、ぐちゃぐちゃだ。


「大丈夫なんですか、姫様は……」

「もちろん、もちろん、大丈夫じゃよ」

「……ならいいんですけど」

「ただし、泣いてはおられるかもしれんがのう」


 もう一度座ろうとしたあたしは、また「え」と顔を上げた。小さい龍はいつの間にかテーブルに前脚をかけ、こぼれたパンくずを拾っている。


「兄は此度の御輿入れを、良くは思うとらんようじゃ。何か意地悪を申し上げておるかもしれん。ひいさまの御覚悟を試すようなことをのう」

「覚悟を試……な、なんで。なんで」

「なんでじゃろうのぉ、聞いたが教えてもらえんかったわい。

 さあて、そろそろお迎えに上がるとしようかのう。ひいさま、レオニくん、それにコジマのやつの様子も見てやらねば。アルゴ隊長も休みなしじゃから助太刀せんと、さすがに苦しかろう。ワシは行くよサトコちゃん」

「あ、あの」

「おっと、そこの小さい龍も連れて行こうかの。まだまだ子どもじゃ、巣から出るには早かろう。親が心配して探し回っておるやもしれん」

「あの、マーロウさんっ」

「ん?」

「マーロウさん、あたしも」

「サトコ!」


 マーロウさんの裾に取りすがろうとしたあたしは、鋭い声に首をすくめ振り返った。


「あんたまさか行くって言うんじゃないだろうねっ」


 ──おかーさんが、あたしを睨んでいる。


「よしなさい」


 小さい龍がびくりと体を震わせる。あたしと母の顔を見比べ「くわばらくわばら」とでも言うように、魔法使いの杖に絡みついた。

 マーロウさんはまだ席を立たず、いつものようにのんびりと口を開く。


「サトコちゃんに任せようかのう。もちろん家で休むのが良い考えなのは間違いない。もともと関わりのないことじゃったしの、まあー無理にとは言わんが──行きたいところがあれば、ワシが一緒に近道して送っていくよ」

「ちょっとマーロウさん、やめて下さいよ!」

「皆サトコちゃんの顔を見ればホッとするじゃろう。面の皮が厚いワシの弟子だって同じじゃ。まっ、ポッポちゃんがついとるし心配いらんじゃろうが……しかしのう、サトコちゃんの面影を楔で穿たれているレオニくんなどは」

「サトコ! だめ、やめときなさい!!」


 悲鳴のような声を上げ、母がテーブルをバンと叩いて立ち上がった。


「こんだけえらい目に遭って、どうして行っていいなんて言うと思う? 細かいこと言わなくてもね、顔見りゃわかるわよ。やめなさい。やめなさい、絶対に!」


 あたしの肩を掴まんばかりの勢いでまくしたて、それから魔法使いのおじいさんを鋭く睨む。


「マーロウさん。サトコは私の子どもです、何かあったら……何かあったら、一生恨みますよ!!」


 そしてもう一度あたしの方を向いた。


「家にいなさい。危ないところなんか行くんじゃないわよ。もうしばらくすりゃまた地震があって、シャッター開けときゃまた日本に戻れるんだから。あんた初めてだから知らないだろうけど、あの日、あの夜、あの時にそのまま戻るんだから」


 あたしは只々、圧倒されるばっかりで──


「そしたら元通り日本で平和に暮らせるんだから。あんた楽しみにしてたじゃない、五月の連休に友だち帰省してくんの楽しみにしてたじゃない。あの子も来るんでしょ? ほら、ちょっとの間お付き合いしてたあの男の子」


 どうしよう。どうしよう。どうする? どうすればいい?

 おかーさんの話が頭に入ってこない。それが伝わってるんだろうか──怒ったような、泣き出しそうな顔であたしを見てる。目の端を赤くして。

 見るのがつらくて、あたしはそっと目を逸らした。

 きっと家にいるべきだ──たった一人の家族をこんなに心配させてまで、遠くに行くべきじゃない。大変な目に遭ってるのは事実だし、あたしがくっついて行ったって大して役に立たないのもわかってる。それどころか、足手まといになって迷惑をかけるに違いない。

 でも。でも。でも、あたしは。


「あの……あのね、おかーさん。聞いて」


 決めなくちゃ。

 どうしたいのか、決めなくちゃ。

 あたしは間違いなく状況に流されるタイプで、間違いなく流されるまま今の今まできたけれど──でも今回ばかりは、自分で決めなくちゃ。


「たしかに大変で、危ない目にも遭ったけど……それは本当にそうなんだけど。

 でもみんな、本当にみんな、いい人たちなの。コジマくんも普段はあんなんだけど優秀だし、レオニさんも今はちょっとおかしいけれど、基本的にはすごく誠実で、ずるいところの無い人で……いい人なの。本当に」


 おかーさんはゆっくりと腰を下ろした。

 そしてあたしから目を外し──両手で頭を抱え、そのまま黙り込む。


「アルゴさんだって、最初は剣を向けられたし合わない部分もあるけれど……でも……でも姫様のこと、本当に……本当に大事にしてて、あたし、それを見てきたから」


 それでも、あたしは一方的に喋り続けた。

 言葉が喉の奥につっかえる。上ずって震えてる。震えてるのは声だけじゃなくて、指先も。膝も。唇も。おなかのあたりも。

 おかーさんは頭を抱えたまま、じっと動かない。


「姫様は……コズサ姫は、無茶も言うし、わがままも言うし、子どもっぽいし、見た目も子どもだし……あたしを無理やりひっぱりこんだの、あの人だけど。だけどいつだって、どんな時だって、あたしを庇ってくれたの」


 マーロウさんがそっと差し出したティッシュ箱から一枚とって、あたしは「ちん!」と鼻をかんだ。


「河で溺れた時も、温泉で不審者が出た時も、猿に追いかけられた時も……さっきおじいちゃんの石窯に隠れた時だってそうだった。一人だけ安全な場所に隠れようなんてしなかった。いつだって、いつだってあたしを庇ってくれたの。ちっちゃい体で、力だって出ないくせに、大人みたいに笑って、誰よりもいろんなこと我慢して……」


 しっかりしなきゃ。きちんと話さなきゃ。


「なのに、なのにあたし、姫様にひどいこと言っちゃったの。バタバタしたままここまで来ちゃって、まだ謝ってない。このままになんかできないよ……このままサヨナラになるなんて。

 だからおかーさん」


 どうしたいのか言わなくちゃ。


「お願い。行かせて」


 ここで今、はっきりと。


「行かなきゃあたし、一生後悔する。皆のところに行かせて──おねがい、おかーさん」


 母は黙っていた。

 やがて頭を抱えていた手を外し、背もたれに寄りかかり、じっと天井を見上げ──それからまっすぐあたしを見る。

 視線が絡まって胃が、心臓が、きりきりと痛い。だけど今は逸らすわけにいかない。

 目を逸らしてしまったら、言ったことぜんぶ嘘になる。


「……ちゃんと帰ってくるんでしょうね」


 長い長い沈黙の後おかーさんはそう言った。

 目が真っ赤だった──ほんの少し声が震えてるのは、きっと気のせいなんかじゃない。


「うん」


 とあたしは頷いた。


「もちろん、絶対に帰ってくる」


 おかーさんは、もう一度上を向いて──しばらくそうしてから「ぐすっ」と鼻を鳴らしてあたしを見た。


「帰ってこなかったら承知しないわよ」

「うん。うん。約束する」


 それからおもむろに手を伸ばし、あたしの背中をパンと叩く。


「……がんばりな!」

「うん。ありがとう、おかーさん!」





 それからあたしはバタバタと支度をした。


 支度と言っても、顔を洗って髪をまとめ直して、おかーさんが「これ持ってきなさい!」と渡してくれた売れ残りのパンを──アンパンはマーロウさんがぜんぶ食べちゃったから、メロンパン一個とカット済みのバゲット、それから四枚切りの食パン一袋──をコジマくんのリュックに詰め込んだだけだけど。


「忘れ物ない?」

「うん、たぶん大丈夫」


 それから、きっと泣いてるであろうコズサ姫の涙をぬぐうふわふわのタオル。あと念のために箱ティッシュも。


「さて、まずはひいさまをお迎えに上がろうかの。さあしっかり掴まって、離すでないよサトコちゃん!」


 マーロウさんの服の裾をぎゅっと握る。

 小さな龍が「きゅー」と鳴く。

 そして、おかーさんが片手を上げて唇を動かし──「しっかりやんのよ」と聞こえた気がした次の瞬間。




 あたしは知らない場所にいた。




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