006:厳戒のエード城 一
シャワーを浴びて小麦粉をすっかり落とすと、母の怒りもどうにか治まったようだった。
「まったくさあ……排水口詰まったらどうすんだっつうの」
ドジマくん──もといコジマくんは、レジ台のパイプ椅子に腰かけてすっかりしょげかえっている。
あたしは焼き上がった午後のパンをオーブンから出し、トレーに移しながら母に声をかけた。店の方に響かないよう、小さな声で。
「……ね、おかーさん。コジマくん大丈夫かな?」
「あーん?」
「あんなコテンパンにやっつけちゃって、店辞めたりしないかな」
「なによー、あんたバイト雇うの渋ってたくせに」
「だって……見てよアレ、ぺしゃんこだよ」
コック服の替えを羽織りながら売り場を覗き、母はフム、と少し考えている。
そして前を止めて作業台まで戻ってくると、こう言った。
「サトコ。あんた休憩行ってきな」
「えっ」
「もともとそーゆー話だったんだしさ、新人のフォローはこっちでするわ」
母は小さく肩をすくめて苦笑い。ああ、良かったあ──あたしはホッと胸を撫で下ろした。
だってそりゃもう、すごい剣幕だったのだ。
怒髪天を突いちゃってるし、コジマくんは大きいお目々に涙をたっぷり溜めてるし。
自分が怒られるより、人が怒られてるのを見る方が堪えることもある。いけなかったのはコジマくんだけど、あたしを元気づけようとしてくれたことに間違いはないんだし。
「ほれ、早く支度して行っといで」
「うん」
「そうだ、お金少しは持って行きなさいよ。店出て左行けば角に両替屋さんあるからさ、小銭まとめてもらっといで」
「ん、わかった」
「あと江戸城……じゃないや、エード城の方に歩いてくとね、二つ目の広場に粉屋さんがあるんだよ。壁に水車の飾りついてるからすぐわかる。ご主人トニーさんってんだけど、挨拶してきてくれる? 『後日母が改めて参ります』って言っといて」
それからもあれやこれや言伝があった。
両替屋さん、粉屋さん、市場で卵と野菜を調達して、果物も三つ四つ買ってきて、だって。明日はパイでも焼くんだろう。
手の甲にメモって暗誦していると、母からもう一つお使いを頼まれた。
「それからさあ、エード城にも寄ってほしいのよ」
「えっ、なんで」
「ほら、メロンパン。昨日マーロウさん来なかったでしょ。コズサ姫まで届けろなんて言わないよ、守衛さんでいいからさ。うちが十五年ぶりに営業してるってこと伝えてほしいの。御典医のマーロウ先生はご存知ですからって」
「……それ、大丈夫なの? なんかコワイんだけど」
あたしの眉間にはシワが寄っていたと思う。
母はヒラヒラ手を振ると「ああ、平気平気」とかるーく答えた。その軽い返事が、よけいコワイんですけど……
「大丈夫だって、城門の衛兵さんにちょっと声かけりゃいいんだから。伝言ゲームじゃないけどさ、そのうちお姫様の耳にも入るでしょうよ」
「伝言ゲームって正しく伝わんないじゃん」
「まあそうかもね」
「えー」
「大丈夫、間違えようがないって。パン屋がオープンしましたってだけなんだから」
そう言うと、母はあたしの背を厨房の外へ押しやった。
本当に大丈夫なのかなあ……でもまあ、しょうがないか。
あたしはコック服を脱いで壁に掛け、いったん二階の自室に上がった。
──さて、何を着て行こう。
いっつもTシャツ、ジーンズにスニーカー。けど、それじゃいくら何でも簡単すぎるかな。
昨日おかーさんはどうしてたっけ。ああ、似たような恰好で役所に行ってたなあ……じゃあせめて、上着くらい羽織って行こう。
お財布はどうしよう。
この世界には紙幣ってあるのかしら。江戸の町なら小判なんだろうけど……そうだ、ファスナー付きのポーチにしよう。とりあえず入れられれば、それで良し。
スマホは──どうせ圏外だ、置いて行こう。
ついでだからコンセントも抜いてしまえ。充電してたって使わない。代わりに腕時計でもつけて行くとして。
あとはリップクリームとハンカチ・ティッシュくらいだろう。
荷物をショルダーバッグに入れて時計を見ると、もうすぐ午後の二時。
ここが中世ヨーロッパでも江戸時代でも、きっと日が沈んだら真っ暗だ。早く行って早く帰らなきゃ。
「じゃあ、行ってくるね」
厨房に下りて声をかけると、「ん」と短い返事が戻ってきた。
コジマくんはどうしてるかな。
気になって店の方を覗けば、まだしょんぼりとレジ前の椅子に腰かけている。可哀そうにとんがり帽子の先っちょも折れ曲がって、まるで持ち主の心情そのものだ。
「コジマくん、コジマくん」
あたしの声に顔を上げたものの、目の周りが真っ赤に腫れている。
う、と一瞬泣きそうな感じでこっちを見ると、慌てたように目のあたりを袖でぬぐった。
「あたし、ちょっと休憩行ってくるから。お店お願いね」
はい、と頷いたようだけど声が掠れちゃっててよく聞き取れず。
青菜に塩ふったみたいで、なんかもう気の毒としか言いようがない。
「大丈夫よ、もうおかーさん怒ってないから。短気だけど引き摺るタイプじゃないから。ねっ」
「……あ゛い」
「小麦粉ひっくり返したことあるのコジマくんだけじゃないから。あたしもやったことあるし」
おかーさんの頭にかけたことはないけどね。
心の中だけで付け足して、「じゃあ行ってきます」と店の扉を開ける。
「……あ、サトコさん待って。ちょっと待って」
引き留められて振り返れば、コジマくんは立ち上がってメロンパンを一つ紙袋に入れた。
それをあたしに渡し、掠れた声でぼそぼそ訊ねる。
「……お城行くんでしょ?」
「あ、聞こえてたんだ」
「現物あったほうが話早いですから……」
「そうだね、ありがと……ちょっとちょっと泣かないでよぉ」
大きな瞳からぽろぽろ涙がこぼれ、コジマくんはそれをまた袖で拭う。かわいいって得だなあ、何してもかわいいんだから。
小動物みたいな目でこちらを見上げ、魔法使いの弟子は強がるように言い返した。
「泣いてなんか、いませんよっ」
「んもう、強がりなんだから。とにかく行ってくるね、暗くなる前に戻るようにするから」
「はい。……あ、待って待って。だったらこれも持って行ってください」
そう言うと懐から何か取り出した。
丸っこい小さな白い石──ペンダントみたいに紐がついていて、首から下げていたんだろう。
へえ、きれい。
まん丸のガラス玉の中にもう一つ丸い石が埋まってて、それが七色に淡く光ってる。パッと見は白いんだけど、なんとも言えない不思議な色合い。
「これなあに、魔法のアイテム?」
「みたいなもんです。夜になると光りますから」
「へえ、便利ねえ。ありがと」
あたしはそれをバッグの紐にくくりつけ、今度こそ店の扉を開けた。
「じゃあ休憩行ってきまーす!」
おー行っといでー、と厨房から母の声がする。
ちっちゃく手を振るコジマくんにこちらも振り返して──
あたしはついに、エードの町に一歩を踏み出した。
目の前の大通りに行き交うのは、人や、馬や、ロバが引く荷車の列。
人々の衣装は──うん、間違いなく江戸ではない。西洋っぽくもあり、東洋っぽくもあり……同級生で服飾の学校行った子がいるけど、これ見たら何て言うだろう。
見慣れないから変な感じがするけれど、ここの人たちからしたら奇妙なのはあたしの恰好の方だろう。
だって、女の人は皆長いスカートを穿いて、足の形がわかるのは男の人ばかり。靴だって木靴か革靴で、ゴム底のスニーカーなんて当たり前だけれど見当たらない。
完全アウェーだけど、ちょっとわくわくしてきた。
通りを横切ればすぐに市場だ。
威勢のいい売り込みの声が聞こえてくる。新鮮だよとか、おまけしとくよとか、今日はいいのがあるよ、とか。
なんだか築地市場みたい。ま、あたしは築地って行ったことなくて、テレビで知ってるだけなんだけど。
まずは大通りを左へ。
角の両替屋さんはすぐにわかった。町のタバコ屋さんみたいな窓の内側に、おばあちゃんが一人座っている。
「こんにちは」
おばあちゃんは耳に片手を当てて「ん?」と聞き返す。
あたしはもう一度声をかけた。口元に手を添えて、今度は少し大きめに。
「こんにちは!」
「……ああ、こんにちは。何の御用だい?」
「あの、両替をお願いしたいんですけど!」
「んん?」
「両替! してください!」
「……ああ、両替ね。はいはい。ちょっとお待ち」
少しお耳の遠いおばあちゃんは「よっこらせ」と身を屈め、大きな天秤を取り出した。
「はい、どうぞ。ここに乗せてごらん」
言われた通り、片方の天秤皿に昨日の売り上げをじゃらじゃら乗せる。お皿からあふれそうな茶色の硬貨の山。
おばあちゃんは反対側のお皿に、銀色の硬貨を乗せていく。
枚数じゃなくて、重さでお金を量るのかあ……ちょっと抵抗と疑問を感じるけれど、郷に入っては郷に従えというし、このおばあちゃんを信じることにしよう。
左右の重さが釣り合うと、おばあちゃんは銀色硬貨のお皿から小銭を一枚抜いて、
「これ両替手数料ね」
と言って懐に入れた。
あたしは残りの銀色硬貨をポーチに入れ、「ありがとうございました」と会釈して立ち去ろうとし──「ちょいとお待ち」と呼び止められた。
「おまえさん、五軒先のパン屋の娘だろう」
「あ、はい。……ご存知なんですか?」
「もちろんさ。お店を開くたびに、小銭をじゃらじゃら持ってくるからねえ。タカちゃんも、マー坊も、シゲさんも、おまえさんの名前は……ええと、なんだったかねえ……」
「サトコです」
「んん?」
「サトコ! です!」
そうそれそれ、とおばあちゃんは笑った。
ああ、本当に先祖代々同じ場所にトリップしてるんだ。
タカちゃんは母タカコ、マー坊は今は亡き父マサオ、シゲさんはあたしのおじいちゃんシゲルのことだろう。
「こないだ来たときはおまえさん、まだこーんなヨチヨチ歩きだったのにねえ。あっという間に娘盛りになっちゃってねえ。タカちゃんは昨日顔見せに来たよ。美味しいジャムパン持ってねえ。あたしはジャムのも好きなんだけどね、特にあのお月様みたいな形のさくさくフワフワしたはがれるやつ……あれ、なんて言ったかねえ……」
「クロワッサンですか?」
「んん?」
「クロワッサン! ですね!」
ああ、まずい。こんなことしてたらどんどん時間経っちゃう。
ちょっと申し訳ないけれど、この続きはまた今度ってことにさせてもらおう。
「あの、ごめんなさい。今日はこの後いろいろ用事があって。今度クロワッサン焼いたら持ってきますから」
「んん?」
「今度! また来ます!」
「ああ、そうかいそうかい。待ってるからね。パンもね、楽しみにしてるから。特にあのお月様みたいな……」
おばあちゃんはクロワッサンの話をしたそうだった。それはパン屋としては嬉しい限りなんだけど、ちょっと時間が気になるところ。
あたしは一つ会釈して、少し早足で今度は粉屋さんの方へ向かった。
時刻は三時を回っている。
一つ目の広場を通り過ぎ、二つ目の広場に差し掛かると、水車の飾ってあるお店が目に入った。
きっと代々おつきあいがあるんだろうな。異世界から来たパン屋と取引してくれるんだから、親切なお店に違いない。
ご主人の名前はなんだっけ、とあたしは手の甲のメモを見て──別の文字に、目が吸い寄せられた。
エード城、伝言、パン屋オープン。
顔を上げると、大通りの向こうにお城のゴージャスな塔が見える。
そうだ、コジマくんがメロンパン持たせてくれたんだった。
「……時間経ったら美味しくないもんね」
あたしは呟いて、広場を抜けた。
先にお城へ行って、このパンを守衛さんに渡してこよう。バッグに入れっぱなしにして潰れちゃったら渡せないもの。
白亜の城はキラキラ輝いている。
その時のあたしは、本当に暢気だった。
それこそ遊園地のお城に行くみたいな、軽ーい気持ちでいた。
降りそそぐ春の陽ざしみたいに、足取りも軽やかだった。
だって、なんにも──知らなかったから。