077:お願い、おかーさん 一
「──それでアルゴ隊長はひいさまの御部屋の箪笥に入ってのう。それがついさっきのことじゃ。今ごろ西の都を疾っておろうのう」
ずずず、と珈琲をすする音。
あたしはテーブルに突っ伏したたまま、それを聞いていた。
「でも……鬼は、霊廟に現れて……だから西の都に行ったって、しょうがないのに」
あたしの声は小さくて細くて、情けない気持ちでいっぱいになる。
ぺろぺろ。ぺろぺろ。
まるで慰めようとするように、小さな龍が頬を舐める。
「傷を負った獣はどうするかわかるかね、サトコちゃん」
「……」
「ねぐらに戻るんじゃよ。あの鬼もねぐらに戻ったはずじゃ。ファタル霊廟の鬼の祠から、龍の通路を抜け、西の都の自分の家屋敷にの」
「でも、なんで……山の動物を使って『狩りの城』まで追いかけてきたのに。顔に怪我したからって、そう簡単に逃げ帰るなんて思えない」
「逃げ帰ったわけではなかろうのう。たとえば今は春じゃが、春の山で一番おそろしい獣は何じゃと思う?」
謎かけだろうか。眉を寄せたあたしの代わりに、答えたのは母の声。
「子連れの熊?」
マーロウさんが「シゲさんから聞いておったかの」とにっこり笑う。母は腕を組んで椅子にもたれたまま、またも小さく肩をすくめた。
「おじいちゃんが言ってたんですよ。若い頃春の山で、子ども連れた熊に追っかけられて、とんでもない目に遭ったって。ここでの話だったんですね」
「そうじゃそうじゃ、もう何十年も前のことじゃよ。あれはまさに山の主を退治した時じゃった……先代様とファタルの山中をさまよい歩くうち、親子の熊に鉢合わせてのう。縄張りの中をぐるぐる追い回されて、シゲさん怒っとったわい。ふぉっふぉっふぉっ」
「言ってましたよ『マタギじゃあんめえし!』って。
完全にトラウマってゆーんですかね、動物園行ったって熊の檻には絶対近寄らないし、テレビに映ればチャンネル回すし、サトコが『森のくまさん』歌ってもやめろって怒鳴ってましたから」
「そうだっけ……?」
「そうだったわよ忘れちゃったのあんた、『お歌唄ってただけなのに』って泣いてたじゃない」
全然覚えてないけど、たぶんそうなんだろう。いやいや気持ちはよくわかる。
あたしだって今後サル山には近づけないだろうし、もちろん鼠は見るのも嫌だし、ひょっとしたらボタン鍋だって食べられないかもしれない。食べたことないけれど。
「獣とて生きるために必死じゃからのう。熊に限らず、敵とみなせば手加減は無かろうよ。手負いならば尚のこと、少しでも有利になろうと己の縄張りに敵を誘うことくらいするじゃろう。己が棲み処に子を隠し、少しでも傷が癒えるようにのう。
そこからの反撃は凄まじかろう……そのあたりは然程変わらぬよ、鬼でも人でも獣でも」
のんびりしたマーロウさんの口調とは裏腹に、あたしの背筋は冷えていく。
縄張り──縄張りですって。
鬼は自分の棲み処に戻った。
逃げ帰ったのでは無い。体勢を立て直すための、一時撤退にすぎない。
傷を癒し、敵を誘い込み、反撃の機会を窺うための策略なのだ。そして今まさに誘い込まれんとしてるのが──アルゴさんだ。
「そりゃあ子連れなら必死になりますよ。動物だってなんだって」
おかーさんの言葉が耳をすり抜ける。
あの檜の舞台で、大滝の下で、神楽歌は何と唄っていただろうか。おじいちゃんが、マーロウさんが、先代様が討ち取ったという山の主のこと。
「私だってその熊と変わりゃしないわ、自分の子がとんでもない目に遭うのは御免だからね」
女の鬼だって言ってなかったっけ。
若い女の鬼だって。
牛や馬を食べて、赤ん坊を攫って、男の人を誘惑するんだって。
「そりゃ偉そうなことは言えないけどさ。気分で態度が変わったり、つまんないことで怒ったり、しょうもない親だけど──でもサトコ。あんたがどっかで怖い目に遭ってるかと思うと気が気じゃないよ」
あるいは鬼はなんて言ってただろう。あの仮面の下から、目の部分に開いた二つの穴から、コズサ姫を見てなんて言ってただろう。
『大王様の御子なれば、さぞや御幸せになろうのう。それもエードの姫の腹なる御子じゃ』──そう言ってなかったっけ。
「私はこう見えて温厚な人間だし争い事は大嫌いだけど、あんたに悪さしようってやつがいたら引っぱたいてやりたいわ。それどころか、もっと酷いことだって出来るかもしれないよ」
それからどうしたっけ。レオニさんと剣で打ち合って、燭台を顔に突っ込まれて、爛れた顔貌で叫んだんじゃなかったっけ。
「あんたのためならね。鬼にだってなれるわ」
──吾子のためなら、鬼ともならん──
ぞくり、と背筋が粟立った。定まらない視線が手元をうろうろする。
どうしよう、どうしよう、どうすればいいの。
西の都にいるのは手負いの鬼だ。子どもを守ろうと必死な鬼だ。子連れの獣と同じなのだ。コズサ姫に酷いことしようとするのも、ぜんぶぜんぶ子どものため。
アルゴさんは、上様は、何をどこまで知ってるの。コズサ姫は。コジマくんは。レオニさんは。
でもそれが、鬼の子どもが、エードの姫とどんな関係があるっていうの。
「だから、サトコ」
すごく寒い。
はあっと息が漏れる。
小さな龍が不思議そうにあたしの顔を覗き込んだ。
テーブルの上で握った拳が小刻みに震え──その拳にあたたかい手のひらが乗せられる。
「だからサトコ、よく聞きな」
はっと顔を上げると、母がまっすぐにあたしを見つめていた。
「あんた、もう出かけるのやめなさい」
……
……
…………え?
あたしはポカンと口を開けた。
今、なんて言われたの。
おかーさん、いったい何を。
「そんなぶるぶる震えてさあ、唇なんて真っ青じゃない。悪いこた言わん、もうやめときな。あんた普通の子なんだから」
「え……でも、あの」
「あとはマーロウさんに任せて家にいなさいよ。ほれ、洗面所で手ぇ洗ってお風呂浴びといで。そんで上行って休みなさい。あと一時間もすりゃ日付変わるんだから」
「でも、でも……でもあたし」
もごもご口ごもりながら、あたしは母とマーロウさんを見比べた。おかーさんはあたしを心配してるのだ。それはわかってる……よく、わかってる。
わかってるんだけど。
「気になるのじゃろう、サトコちゃん」
魔法使いのおじいさんはニッコリ笑う。あたしはまだもごもごと口の中に言葉を溜めたまま、頷くことさえできずにいた。
視線は行ったり来たり──どこを見ればいいんだろう。誰を見ればいいんだろう。
「皆がどうしておるのか気になるのじゃろう。なあに心配はいらんよ、ゆっくり体を休めるがよい。しばらくすればまたコジマが働きに来るし、レオニくんがパンを買いに来るじゃろう。なにごとも無かったように」
「……でも、あの」
「アルゴ隊長も『いずれ店主どのに挨拶せねば』と言うておったからの、菓子折りの一つでも持って訪ねてくるじゃろう。ま、そのうちのう。ふぉっふぉっふぉっ」
「……あの、姫様は」
「ん?」
「マーロウさん、コズサ姫は」
あたしはようやく、声を絞り出した。コジマくんは無事。レオニさんも無事。アルゴさんは西の都。どうしているかハッキリしないのは、あと一人。
それがわからないうちは考えられない──未来のことなんて。
「姫様……今、どこにいるんですか」
あたしの問いに、マーロウさんは笑うのをやめた。そして真面目な顔つきに戻ってこう答えた。
「ひいさまは、ワシの兄のところにおいでじゃよ」




