076:覚悟
珈琲を一口すすり、マーロウさんは少し遠くを見つめるように顔を上げた。
「あれは日暮れよりほんの少し前じゃったかのう……」
アルゴさんがエード城に到着したのは、あたしたちが霊廟の本堂についたのとちょうど同じくらいだった。
乗り潰した馬は三頭。
頭のてっぺんから足の爪先まで全身埃まみれの汗まみれ。
突然帰還した上官の常ならぬ姿に、城門を守る近衛士も驚いたという。
登城の支度はどうしますか──恐る恐る尋ねると、アルゴさんは迷わず言い切った。
「このまま上様の御前に参る」
旅装も解かずに御目通りするなんて、平時であれば有り得ない。
ただならぬ様子に城内はざわつき、参上したアルゴさんの姿を目にするなり上様は例の轟音で叱りつけた──執務室にいたマーロウさんも、ちょっと口を挟めないような剣幕で。
「なんという形じゃ!!」
そのときマーロウさんは、西の都に通じているというコズサ姫の箪笥から出てきたばかり。箪笥の先で見聞きしたことを上様にご報告申し上げている最中だった。
その内容が──まあきっと、良くない話だったんだろうなあ……
とにかく上様はご機嫌斜め、元からピリピリしてたところにアルゴさんが鬼気迫る姿で現れた。一目見たとたん盛大にキレてしまったのは、想像に難くない。
「何故おぬしがここに居るのじゃ。コズサの傍を離れて何とする!」
「火急の時に御座います。御役目をないがしろにするわけでは御座いませぬ」
「ではなぜ参った!」
上様は仁王立ち。背景にはきっと燃え盛る炎を背負っていたことだろう。
その御前に跪き、アルゴさんはこう答えた。
「すべて、ひいさまの御為に」
眸を鈍く光らせて。
あの昏い厨房で、あたしに見せたのと同じように。
「アルゴ隊長の報告を聞いて、上様は仰天しておられたよ。わしは鬼の眼越しに聞いとったから驚きはせなんだがのう」
すなわち、鴉のこと。
偽の御宣下のこと。
楔の呪いのこと。
安全だという見込みがあったからエードを発たせたのに、そんなことになってるなんて誰が思うだろう。ましてや、アルゴさんにコズサ姫を襲わせるのが当初の狙いだったなんて。挙句の果てに、若き西の大王の退位を騙るだなんて。
しかもそれ全部「コズサ姫が西の大王をお嫌になるように」って言うんだから、じつにふるってる。
あたしは一つ、息をついた。
上様はさぞかしキレまくったことだろう。ああ……その様子、目に浮かぶ。
「結局さあ、何がしたいのその悪いやつは。結婚した後の夫婦仲を邪魔するってこと? なんでそんな半端なことすんの。結婚を破談にさせたいんじゃないの、違うの?」
おかーさんが首を傾げた。腕を組んで眉間にシワを寄せ、訝しげにこちらを見る。
「あたしに聞かれたってわかんないけど……子どもが出来たら困るんだって」
「然様。御輿入れ自体はしていただきたい、しかしその賜物として御世継が出来ては困る──これまでの発言を鑑みるに、黒幕はそう考えておるようじゃ」
それはいったいどういう人物で、いったい何を望んでいるんだろう。それが中々見えて来なくて、正直、気持ちが悪い。
ご結婚はしてほしい。お子様が出来るのは嫌だ。西の大王の正統の世継は、エードの血を引く子であってはならぬ……コジマくんは霊廟にあらわれた“鬼”の正体を、「これまでさんざん嫌がらせをしてきた魔法使い」だと断定した。
そしてアルゴさんはその魔法使いを「世継の正統なることに固執する者」と言い切った。
きっとそうなんだろう。
そうなんだろうけど。
──捨て身になる理由はそれだけですか。そのような見えぬもののために何故このような──
“鬼”に問いただすレオニさんの声、まだ耳に残ってる。
問われた鬼は何て言ってただろう。
たしかなのは、あたしが一発で理解できるような明快な答えは返ってこなかったってこと。
でもそれがどんな内容であったとしても、言ったのが誰であっても、アルゴさんにとっては些細な事柄に違いなくて。
「終わりはしますまい──此度のごとき嫌がらせは、これからも必ずや続きましょう」
アルゴさんはきっと、上様に申し述べたのだろう。
執務室で跪き、頭を垂れて、微動だにせず。
「降りかかる火の粉を払い続け、お輿入れが無事に相成ったとしても、終わりはしますまい。
ひいさまが大王の后となられ、そのお立場が盤石に見えましても、それは砂上の楼閣に過ぎませぬ。崩すは容易に御座います」
「……何故じゃッ!」
言いかけてやめるようなことは決してなかったのだろう。
オブラートにくるむようなことは一切しなかったのだろう。
たとえ上様が色を失くし、その声に動揺がにじんでも。
「何故じゃ! 何故、其奴はそのような……執拗にコズサを狙うて只で済むと思うてかッ」
「ひいさまの御命を頂戴すれば戦となりましょう。しかし御身を傷つけ、御心を傷つけ、夫婦の仲を裂いた末に御世継が生まれなかったとて戦にはなりませぬ。
上様におかれましても、とうにおわかりで御座いましょう。天下泰平を掲げての御輿入れである以上、エードが西の都を攻めることは、何があろうと出来ぬのです」
「しかし……!!」
「ひいさまの唯一の御希望を絶たれたとて、エードは戦を出来ぬのです」
知っているのかな。上様は。色んなことをぐっと我慢してる姫様の、たった一つの拠り所。
「エードは指を咥えて見ているだけと、彼奴は必ずや高をくくっておりましょう。ゆえに、その企みは決して無くなりませぬ」
もしかしたら知らないのかもしれない。
或いは知っていて、だけどどうしようもないから触れずにいるのかもしれない。
「彼の者が西の大王に近しい者である以上、御世継のご誕生を邪魔立てする機会は、増えこそすれど無くなりは致しませぬ」
──子を抱く喜びだけは残されておる。子を抱く幸せは奪えはせぬ──
「いつまでも続きましょう……ひいさまが御子を望めなくなる、その時まで」
胸が押されたように苦しくなって、あたしは絞り出すように息をついた。伝え聞くアルゴさんの言葉が、耳に残るコズサ姫の声が、重い。
潰されそうだ。
「彼の者が大事とするものは、それで充分に守れるので御座いましょう。それが何かは存じませぬが、そうしなければ守れない──そういったものなので御座いましょう」
「しかし、このままではコズサを地獄に追いやるも同然ではないか! 黙ってやられてくれるわけにはいかぬッ……アルゴよ、如何致す!!」
問い質され、アルゴさんは顔を上げた。答えはとうに決まってる。
「西の都に出向き、其奴を討ちまする」
それ以外に手立てはない。
企みの首魁を斬るしかない。だってそのために戻ったのだから──だけど。
「ならぬッ」
上様が即座に遮った。
「アルゴよ、それはならぬ!!」
雷のようなあの声で。執務室の窓を震わせて。
「そちは近衛士の長なるぞ。そちが動くは、エードが動くということぞ。
コズサに仇なす者が大王に近しくあればこそ、尚更ならぬ。その者を斬るということは、その者を弑するということは、余が西の大王に弓引くも同じこと。先ほど自ら申したではないか、エードは西の都を攻むること相成らぬと!
そちの立場でそれだけは決してならぬ! ならぬのじゃ!」
そう、それは『やってはいけないこと』なのだ。
黒幕を斬ってはいけない。コズサ姫の為にも、天下の為にも、斬ってはいけない。
例え斬らなければ終わらないとしても、アルゴさんが姫様の守役である以上──決して、斬ってはいけないのだ。
あたしにはそれがわからなかった。
アルゴさんを見送った時にはわからなかった。
上様の言葉をマーロウさんに聞かされる今の今まで……欠片もわかっていなかった。
「上様の仰せのとおりじゃよ、アルゴ隊長。ここは押さえて下さらんかのう、気持ちは痛いほどにわかるがのう……」
だからアルゴさんの覚悟もわかっていなかった。
何一つわかっていなかった。
この手で討つと決めたあの人が、どんな覚悟でそれを口にしたのか。
「もとより、官を辞すつもりで御座います」
たぶん、本人以外、誰ひとり──
「永の御暇を頂戴したく存じます。上様」
これが最後の御勤め。
コズサ姫のために剣を振るう、命を賭ける、最後の舞台。
「これより私は主無き身分、浪々の身で御座います。浪々の身なれば、誰を守り誰を斬るかは上様もひいさまも御存知なきこと。
すべて私一人の考えで致すこと」
積み上げてきたものをすべて投げ出すのも厭わない。邪魔な荷物なら捨てていく。
「必要とあらば、名も捨てましょう」
躊躇いなんか微塵もない。
「アルゴよ」
「はい」
「そなたという男は……」
引きとめることは出来ない。どんな言葉も意味がない。
誰もが震えながら見送るしかなくて──あたしが、コズサ姫が、そうだったように。
あとに残るのは、決して揺るがぬ覚悟だけ。
水を打ったように静まり返る執務室で、上様はアルゴさんに背を向けた。そしてもう一度呼びかけた。
「アルゴよ」
「はい」
「そなたのような男は他にはおるまい。
これより先、我が娘の前にそなたのような男は現れまい。
西の大王はまだ若く、武人でもなければ、普通のお人とも違う……コズサを真に守るのは」
エードの国の王様は、美しい姫の父親は、そこで一旦言葉を切った。そして、
「許せ」
苦しげに、声を絞り出した。
「許せ、アルゴよ……!」
アルゴさんは答えなかった。
ただ静かに目礼し、立ち上がって踵を返し、執務室を退出した。
残された上様は天を仰いで立ち尽くし──ただ一言「行け」とマーロウさんに命じた声は掠れていて。
なによ。
知ってるんじゃない、上様。
そうよね、そりゃそうよね、姫様とアルゴさんの十年を、上様が見てないはずがない。知らないはずがない。わかっていないはずがない。許しを乞わないはずがない。
ほんの数日一緒にいただけのあたしが思っていることを、この人が思わないはずがない。
だってお父さんなんだから。
娘の幸せを願わないはずがない。
あたしはそのことも、きっとわかっていなかった──こうして伝え聞く、今の今まで。
「ワシはのう、サトコちゃん……上様を幼い頃より存知上げておるが、あのような御姿は初めてじゃったよ」
話し終えて、マーロウさんは「ふーっ」と息をついた。おかーさんは「ふん」と鼻を鳴らして珈琲をすする。
あたしは両手で顔を覆った。
もう何も言えない。
どんな言葉も意味が無い。
──テーブルに突っ伏したあたしの頬を、あの小さい龍がまた舐めた。




