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075:サトコ、帰宅する 三

 すっかり冷めてしまった珈琲を前に、あたしは神妙な面持ちで座り直した。

 マーロウさんはかじりかけのアンパンを手に、いつもと変わらぬのんびりした様子。向かいに座る母は腕を組み、足を組み、眉間にシワを寄せて沈黙を守っている──今のところ。


「そもそもが楔っちゅう道具はのー、モノを割るために使うが、モノをつなぎとめる役割もあるんじゃよ。知っとるかの?」


 あたしはふるふると首を横に動かした。


「例えばホレ、狩りの城の厨房に食器棚があったじゃろ。あれも棚板が外れたりせんよう、横に楔を打って強く作ってあるんじゃが……まあそこまで見はせんか。

 ともかく鴉はその目的を達成するため、アルゴ隊長に楔を打ちこむつもりだったわけじゃ。大浴堂でのあの言いざま、覚えとるじゃろ?」


 あたしは一つ頷いた。

 とてもじゃないけど忘れられない。コジマくんが取り出した襲撃者(おばさん)の魂、そこに差す黒い影、変化する声音。

 こともあろうに、あいつはこう言ったのだ──穢れのある身としてしまえば、大王様もお近づきになられぬ。あるいは姫に懸想人(おもいびと)でもあれば、尚良かろう。


 ぶる、とあたしは一つ身震いした。おかーさんの視線を感じるけれど、そちらを向けない──言えやしないもの。

 こんなおぞましいこと言うやつに襲われてるんです、なんて。


「サトコちゃんにはとんだ災難だったがのう、あれが鴉の思惑通りアルゴ隊長に刺さっとらんで良かったわい。おおかわいそうに、厨房で押し迫られて怖かったじゃろう」

「あ、あれは……まあ……すぐコジマくんたちが来てくれたから」

「裏の参道でもそうじゃ。あんなふうに言われたらワシだって泣きたくなるわい」

「でも……えーと……あれはあたしの心が弱かったからで」

「とにもかくにも、(レオニくん)はサトコちゃんを繋ぎとめようと必死になっておる。だから決して離さぬようにあの手この手を使ってくるし、優しさを見せながら時には酷いことを言うたりも」

「マーロウさん」


 話を遮ったのはあたしの声ではない。地底から響くようなドスの利いた声に、あたしとマーロウさんは口をつぐんだ。

 そして恐々とそちらを向いた。つられたように小さな龍も。


「誰がサトコを離さない、ですって?」


 母の眉間には縦に深いシワが入り、目元がぴくぴく引きつっている。

 小さな龍がビクッと震え、もう一度背中に引っ込んだ……あたしも、どこかに引っ込みたい。


「なんとなーく事情が飲めてきたわ──つまり、そのナントカって人が危険な状況を逆手にとって、私の娘にコナかけてると」

「や、あの……」

「それでどーゆーつもりか知らないけれど、酷いことを言って泣かせたと」

「えーっとあの……あのねおかーさん、それは違」

「何が違うって!?」


 どかん、と母が噴火した。


「さっきあんた自分で言ってたじゃない『救いようがない』とか『そんなんじゃ一人になる』とか『孤独に死ね』とか言われたって!」

「そ……そ……ええぇぇ」


 まずい。

 これはまずい、何とかしなくては。

 噴火の原因は説明不足に他ならず、すなわち、きちっと説明すれば誤解は解け、活火山は休火山となるはずで──だいたい『孤独に死ね』は言われてない。

 このままでは被害は甚大だ。早急な対応が求められる。

 心の中の対策本部が出した結論に従い、あたしはおそるおそる身を乗り出した。

 そしておっかなびっくり口を開いた。


「あのねおかーさん、落ち着いて聞いて。えーっとえっと……レオニさんがあたしに酷いこと言ったわけじゃないの。いや言われたのは確かなんだけど本心からってわけではなくて、それにも色々と事情があって」

「へえ、事情。人の娘をつかまえてボロクソにけなさなきゃいけないような……へえー事情がねぇー」

「そ……そう、そう、そうなの。そもそも言われたのはあたしがいけなかったからで」

「サトコ、今度そいつ連れてきなさい」


 鎮火するどころか噴石が降ってきた。

 まずいまずい非常にまずい、自然に鎮火するのを待ってたら火砕流に飲まれてしまう。誰が? あたしが? レオニさんが?


「つ、連れ──でもおかーさん、レオニさんは本当は悪い人じゃなくて」

「ほぉーなるほど、あんたはその男をかばうわけだ。あんたをケチョンケチョンに罵って、ショックで馬鹿になったところにつけこんで、自分の思い通りにしようとしてるっていう歪んだ男を」

「ゆが……な、な、だからそれは誤解であって」

「あほたれ!『本当はそんな人じゃない』とか『いけないのは自分』とか、そんなんDV男に引っかかる女の決まり文句だわよ! 目ぇ覚ませ!!」

「ちょっ、待っ、待って! 待ってよまだ何にも説明してないじゃない、最後まで聞いてよ!!」


 いつのまにかあたしたちは互いに椅子から腰を浮かせていた。こうなってはもう鎮火どころの話じゃない。


 一触即発だ。


 母の両目はギラギラと剣呑な光をたたえ、神の眷属たる小さな龍さえ──この子はどうやら元々ビビリのようだけど──怯えて小刻みに揺れるほど。対するあたしは蛇に睨まれたカエル状態、立ち上がったはいいものの動けない。

 だけど、レオニさんの名誉を守れるのはあたし一人なのだ。

 ここで引くわけには決していかない。あたしはごくりと息を飲み、気合いを入れるようにぎゅっと唇を引き結んだ。

 この勝負、受けて立たん。いざ尋常に……!

 すると場を和ませるようにマーロウさんが笑った。「ふぉっふぉっふぉっ」といつものように。


「まあまあ、そうカッカせんでも大丈夫。レオニくんは真っ直ぐな心根の持ち主じゃよ、それはワシが保証しよう。アンパンまだあるかの? 珈琲が温かいうちにもう一つ頂きたいんじゃがのぉー」


 ……一時休戦。


 ぎりぎりとあたしを睨みつけていた母が渋々着席する。

 眉間のシワは深まるばかり、マリアナ海溝なんてもんじゃない。このままどんどん深くなって、いつか地球の裏側に到達するんじゃないか──そう思うくらいには、深い。

 あたしはそちらを気にしながらも席を離れ、売り場のトングとトレーを手に取った。内心ホッとしたのを表情の下に押し込めて。

 いくつになっても母と喧嘩するのはコワイのだ。


「たしかにレオニくんはサトコちゃんにひどい意地悪を言うたがの、それは悪い魔法のせいなんじゃよ。

 ワシらは便宜的に『楔』と呼んでおる。人の魂に刺さり、じわじわと思考を蝕み、自覚のないうちに行動までも支配する……ま、ひらたく言えば『呪い』じゃな」


 だったら先にそう言いなさいよ、と母が呻く。

 なによーぜんぜん聞く耳持たなかったくせに……という言葉は、ぐっと飲み込んだ。自分を棚に上げて人の早とちりを責めるのは、少々気が引ける。

 見れば商品棚にはアンパン以外にもいくつかの売れ残りがあった。

 あたしと二人でやってたとき、この時間の売り場はとうに片付いていたから──忙しかったんだろうな、きっと。


「呪いの楔を刺した悪いやつが、どこかにおるんじゃよ。レオニくんに刺さってしまったのは人違い、しかしそのおかげでひいさまは事なきを得ておられるんじゃがのう」

「なるほど……ようするに、うちの娘が泣かされてるのはただのとばっちり、と」


 二人のやりとりに耳をそばだてながら、あたしは銀のトングでアンパンを掴みトレーに乗せた。「ふん」と母が鼻で息をする。


「とんでもない話ですよ。抜けば元に戻るんでしょうね、それ」

「問題はそれじゃ。あの楔はタチが悪い。コジマに抜けなかったということは同じ魔法を使うワシにも抜けんのじゃろ──少なくとも『安全には』のう。

 やれやれ、“鬼の眼”越しにも術者の執念のほどが見えるようじゃて」

「術者って?」

「あの鬼のことですよね……マーロウさん」


 母の視線をチラリと感じながら、あたしは席に戻った。

 きっと何もかもチンプンカンプンだろう──楔のこと、鬼のこと、龍の通路(みち)のこと、断片的にわーっと聞かされて、きっと混乱してる。

 だってあたしがそうなんだから。実際目にして、知ってるのに。


「まだ辛うじて人じゃよ、サトコちゃん。生成(なまなり)じゃ。完全な鬼になってしまっては、もう魔法は使えぬじゃろうのう。理性を失くしてしまえば楔を抜くことはできなくなる」

「そしたらレオニさんは……」

「そうなる前に説き伏せて、何とかしてもらう以外にあるまいよ」


 あたしは口をつぐんだ。

 あの鬼を説き伏せる──どうやって?

 何とかしてもらう──してくれるの?

 酷く喉が渇く。嫌な予感に胸の内側が冷えていく。鬼を説得しなければ、レオニさんの楔は抜けない。

 レオニさんは元に戻らない。


「案ずるでないよ、サトコちゃん。アルゴ隊長が良いようにしてくれるじゃろ」


 アンパンをマーロウさんの前に出し、あたしは黙ってうつむいた。

 どんどんどんどん背中が丸くなる。ごつん、とおでこがテーブルにくっつくと、優しい声がふんわり降ってきた。


「大丈夫、大丈夫。術者をどうにかしたいと一番思っとるのはアルゴ隊長じゃ。ひいさまのためにも、レオニくんのためにも、サトコちゃんのためにものう」


 あたしのため、ってことは無いと思うけどなぁ──


 マーロウさんは二つ目のアンパンをかじり、「んまいのぉー」とニッコリ笑う。

 小さな龍はそろそろとテーブルに前脚を乗せ、おこぼれをねだりはじめた。なんてゲンキンなんだろう、この食いしん坊は……人の気も知らないで。

 あたしは「うえぇぇ」と息をついて頭をかかえた。その隣で、母が険しい顔つきで腕を組む。



 そして話は少し遡る──アルゴさんが馬で走りまくり、エード城に駆け込んだその時まで。




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