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074:サトコ、帰宅する 二

 もう夜の十時だ。


「さあ、何がどうなってんのか説明してもらいましょうか」


 たった三席しかないイートインスペースで、あたしは息をひそめて小さくなっていた。

 渋い顔のおかーさん。にこにこ顔のマーロウさん。

 二人に挟まれ、あたしの視線はオロオロと行ったり来たり──壁の時計を見たり、テーブルに乗ったアンパンを見たり。

 背中に貼りついた小さな龍もそわそわと落ち着かない。


「元気に出てった娘は泣きながらオーブンから出てくるし、マーロウさんは勝手にシャッター開けて入ってくるし、それになんだ? その蛇みたいなトカゲみたいな変なやつは」

「ふぉっふぉっふぉっ、これは龍じゃよタカコさん」

「龍じゃよ、じゃありませんよ。サトコ、わかってるでしょーけどウチじゃ飼えないからね。元いた場所に置いてきなさい」

「そんな、猫拾ったんじゃあるまいし……」


 ねえちょっとあんたの話してんのよ──と背中の方を見れば、小さな龍はサッと目を逸らして知らんぷりだ。それを見たおかーさんは盛大に溜息をつく。


「まったく猫の方がなんぼかマシだわ。龍なんてデカくなりそうなもん、どーすんの。エサだってばかになんないでしょーよ」

「でもおかーさん、あたし飼いたいなんて一言も」

「だいたいそいつ肉食でしょ? ワニみたいな顔してるじゃない。今は小っちゃいからシシャモでもあげときゃいいかもしれないけど、大きくなったら牛一頭とか食べるんじゃないの?」

「や、でもさっきはパン食べてたから……」

「は? パン?」


 母は素っ頓狂な声を上げる。

 にこやかなのはアンパンに手を伸ばしたマーロウさんただ一人。大きく頬張り「んまいのぉー」と口許をほころばせる。


「ふぉっふぉっふぉっ、龍はパンが好きなんじゃよ。

 その昔シゲさんが龍の洲(ここ)におった時も、焼き立てを毎日御供えしたものじゃ。ま、それが気に入ったのじゃろ。龍たちは美味しいものに目がないからの──そうそう、()で地震があったじゃろ?」

「はあ」

「あれはのう、サトコちゃんが乗っかっておった大きいやつ(・・・・・)が、背中に落ちたパン食べたさに身をよじったんじゃよ。いやー完全にひっくり返る前に出て来れて良かったわい」


 どう答えたものやら、あたしはもう一度「はあ」と声を出した。となりで母が眉をひそめたのが、視界の隅に映る。

 つまり、えーっと──あの曲がりくねった一本道って、大きな龍の背中だったの?


「龍が完全にひっくり返って通路(みち)の最奥まで落ちてしまったら、出てくることは容易ではなかったろうのう。そこはもはや神話の域、軽い気持ちで覗けるようなところではないのじゃよ。神代(かみよ)の龍が寝ているのを起こしたら、何があったものかわからんしのぉー。

 そうなる前に、ひいさまの箪笥から迎えに行こうかと思ったんじゃが……まーサトコちゃんがコッチに出てくる方が早かった、というわけじゃ」

「お姫様の箪笥ってアレですか。京都らへんと繋がっちゃった、っていう?」


 何が何だかわからない、といった顔のおかーさんに「然様」とマーロウさんは頷いた。

 アンパンをもぐもぐ噛みしめ、珈琲を一口。「ぷはあ」と息をついて──あたしを見る。


「然様。すべて、繋がっておる。ひいさまの箪笥も、狩りの城の石窯も、そして西の都も。

 サトコちゃんがお店のオーブンから外に出たのは、まさしく幸運(ラッキー)であったのじゃよ。もしかしたら別の場所に飛びだして迷子になっておったやもしれん」

「はあ」

「あるいはこのオーブンから、サトコちゃん以外の誰かが出てくることも有り得よう」

「でも、誰が」

「鬼じゃよ」


 衝撃に、ほんのわずか息が詰まった。

 鬼? と訝しげに眉を寄せる、おかーさんの声が遠い。


「霊廟の鬼の祠、あるじゃろう? あれもどうやら龍の通路でつながっとったようじゃわい。洲の各所に開いた次元の出入り口は、すべてこうして繋がっておる。いやーワシもついぞ知らなんだよ、ふぉっふぉっふぉっ」


 ぜんぶ、ぜんぶ、繋がってる──迷宮の如き龍の通路(みち)、古代の龍神の悲恋の跡で。

 あたしの視線はまたオロオロと彷徨い出した。

 なんだ。なんだ。いったい何から考えればいいの。龍のこと? 鬼のこと? だいたい、あたしはまだ何も言ってない。おかーさんにさえ何が起きたか話してないのに、なんでアレコレ知ってんのマーロウさんは……と、思ったんだけど。

 胸元の白い石が目に入って納得した。

 そうだ、すっかり忘れてた。持ってたんだっけ、魔法のアイテム(GPS)──


「色々と大変だったようじゃのォ、“鬼の眼(それ)”越しにずーっと見ておったよ。

 龍の通路、ファタルの湖、それにネト河……しかしそのたびに龍神が力を貸しておる。パンが美味しいからの、それを作るサトコちゃんのことも龍たちは好きなんじゃろ」


 小さい龍があたしの耳元で「きゅー」と鳴く。マーロウさんの言葉に同調するように。


「ほれ、すっかり気を許して背中にくっついておる。

 まだ小さいが、それも神の眷属じゃ。その意思は一にして全、全にして一、大きいのから小さいのまで、龍はみなサトコちゃんが好きなんじゃよ。そうでなければ幾度も命を助けるようなことはするまいて」


 命? と母が片眉を跳ねあげた。眉間のシワが深さを増していく。

 あたしはすっかり呆気にとられてしまって……


「な──なあんだ……」


 呟くと、口元が緩んで小さく引きつった。

 それから「ははっ」と乾いた笑いが漏れる。

 なによ……なによ。わかってるんじゃない。あたしたちに起きたこと、なにもかも。一人で悩んであんなに泣いたの、何だったんだろう。


「あの、あたし」


 自分でも、自分の気持ちがよくわからない。一人で抱えてしまった大きすぎる荷物を、横から現れたマーロウさんが「ヒョイ」と背負ってくれたような、そんな感じ。

 肩の荷が急に下りてしまった。

 でもその荷物──マーロウさんのじゃない。あたしのだ。

 まだ安心できない。ホッとできない。

 肩のあたりの緊張感は、ほぐれない。


「あたし、どうしたらいいかわかんなくて……信じらんないことばかり、起きるから。鴉とか、楔とか、鬼とか、いろいろ。なんでこんなことになったのか全然わかんないし……み、皆どんどん、いなくなっちゃうし」

「うんうん、ぜーんぶ承知しておるよ。大丈夫」

「それならあの、あの、皆は」


 元は誰かが背負ってた荷物を、あたしはいつの間にか一緒になって背負っていた。

 そのうちそれはあたし自身の持ち物になって、「代わろうか」と言ってもらったところで無くなるわけでは決してない。「重いでしょ」と言われても「つらいでしょ」と言われても放り出せない──だって、これはあたしの問題だから。


「マーロウさん、皆は今、どうしてますか」


 勢い込むように訊ねると、魔法使いのおじいさんはにっこりと目を細めた。


「生きておるよ。誰ひとり欠けることなく」


 ……

 …………

 ……よ……良かったぁぁぁ……!


 全身から急に力が抜け、あたしはイートインのテーブルに突っ伏した。小さな龍が驚いたように肩に上がり、後ろからそっと覗き込む。


「まずは命に別状なし、じゃ。細かい様子まではちっとわからんがのぉー。どうじゃ、安心したかいの?」


 赤べこのようにがくがく頷くと、おかーさんの何か言いたげな視線をわずかに感じる。

 そっか、みんな無事なんだ──良かった、良かった、本当に。

 あ、あ、指先が震えだした。


「コジマはどうやら、狩りの城で奮闘しとるようじゃ。あれでもたった一人のワシの弟子、何かあればすぐにわかる。それにポッポちゃんもついとるからの、こちらは心配いらんじゃろ」

「はい。はい。良かった。良かったぁぁ……!」

「アルゴ隊長はエードを離れたが、こちらも今のところ問題ないようじゃ。そうそう、サトコちゃんからの餞別、たいそう良い味だったと言うておったよ」

「そっか良かった、食べきったんですね、アルゴさん……ピタパン五つ」

「それからあの近衛士の若者、たしかレオニくんと言うたかの? こちらも五体満足、鬼に喰いちぎられたりはしとらんようじゃ」

「レオニさんも」


 その名を口にした途端──


 まるで脊髄反射のように、熱い塊が喉にせり上がってきた。

 急激に目頭が熱くなり「ぐすっ」と鼻を鳴らす。

 おかーさんが黙って差し出したティッシュ箱を受けとり、あたしは涙を拭いて「ちーん!」と鼻をかんだ。


「マ、マーロウさん、あたし」


 うんうん、と優しく微笑まれ、とうに限界を超えてた色んなものが、唇をくぐってあふれ出す。

 誰かに聞いてほしくて、でもどうしようもなくて、なんて言えばいいかもわからなくて──だけど今言わずにいつ言うの!


「あたし、あ、あんな、あんなところにレオニさん置いてきちゃって……レオニさん、あたしに向かって走れって。それで、がんばって、走ったんですけど、でもなんか、どうしようもなくて。皆次々にいなくなっちゃって、コジマくんも、姫様も、皆いなくなっちゃって」


 思うほど上手くは喋れなくて、そこからはもう言葉にならず、あたしはふたたびテーブルに突っ伏した。

 震える肩の向こうから小さな龍が舌を伸ばし、テーブルに零れた涙を舐める。ごとりと音を立ててマグカップを置いたのは、たぶんおかーさん。


「おーよしよし、かわいそうにのう。大丈夫じゃよ、サトコちゃんが一生懸命やってくれたことは、ちゃんとわかっておるからの。だーれも責めたりせんからの、たくさんお泣き」

「でもあたし……ぐすっ、大して役に、立たなくて。余計な、ことばっかり」

「まあまあ、気に病んでもしかたあるまいよ。レオニくんにもあれこれ言われたようじゃがの、なあに気にすることはない」

「うぅぅ、う、でも……あたしのこと、救いようがないって。そんなんじゃいつか一人になるって……ぐすっ」

「それはまたひどいこと言うのぉー」

「うあ、うあ、うあぁぁぁぁ」

「それにしても厄介なものを打たれたもんじゃ、レオニくんは」


 ぐすぐすと鼻を鳴らしながら、あたしは顔を上げた。涙がおいしかったのか小さな龍がぺろぺろと頬を舐めはじめる。視界の隅でおかーさんが腕を組んだ。

 そうだ、わかってる。

 無事ならいいってもんじゃない。解決しなければいけない問題は山積みで──体を起こし、あたしはまっすぐマーロウさんを見た。

 それからなるべく声が震えないよう気をつけて、確認した。


「楔のことですよね。マーロウさん」


 然様、と大魔法使いは頷いた。




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