073:サトコ、帰宅する 一
そこはよく知ってる場所。あたしの家。
生まれてからこれまで十八年間暮らしてきた、ブーランジェリー松尾の厨房だった。
「ははは……ただいま、おかーさん」
「うん、あー……おかえり、サトコ」
母は目を白黒させたまま、あたしをじろじろ見まわしている。
そりゃそうだ。パンを焼くオーブンから人間が、それも自分の娘が出てくるなんて普通思わない。
口を半分開けてしばらく沈黙した後、母はあたしの足元を見てようやく声を上げた。
「あ! やだちょっと、あんた土足じゃないのよ」
「あ、うん。あのねおかーさん、これには色々と理由が」
「理由がってゆーけど商売道具の中に靴のまま入るアホがどこにいるってーのよ、うちは食べ物扱ってるんだからね。それにあんた焼いてる最中だったらどうすんの大やけどじゃ済まないじゃない、だいたいねえ──」
普通ならこのあと長々とお小言が続くんだろうけど、母は途中でそれを切り上げた。指先で眉間を揉んで「ちがうちがう」と首を横に振る。
「だいたいねえ──あんた、なんでオーブンの中にいるの?」
「あ、うん。あのね、猪に追いかけられておじいちゃんの石窯に隠れて、コズサ姫も一緒だったんだけど中ではぐれちゃって出口くぐったらここに繋がってて」
「……?」
「えっとね、えっと……話すと長いの。すごく」
「あー……聞く聞く、ちゃんと聞く。でもさ、まずはそこから出てらっしゃいよ」
そう言って、あたしが使っていた店用の靴を出してきた。なんだかこの靴さえも懐かしい。
履き替えてオーブンから出ると、そこは紛れもなくあたしのうちで──ああ、なんて言えばいいんだろう。
気分の切り替えができない。
ホッとしていいのか、それとも狼狽えた方がいいのか、わからない。
「まったくさあ、さっき掃除したばかりだってのに……ほら荷物下ろして、とりあえず座んなさい。珈琲でいい?」
「あ、うん」
「夕飯食べたの?」
「え?……あ、まだだった」
「ふーん、ちょっと待ってな」
そう言うと母はあたしに背を向けた。電気ポットに水を足し、食パンの袋を開ける。
──私も一人だとあんまり作らないからさー、ここんとこパンばっかりよ。あんたが帰ってくるってわかってりゃ何かしら作っといたんだけどねぇ、いくらここが異世界だからって、まさかこんな時間にあんなトコから出てくるなんて思わないじゃない。悪いけどトーストで我慢してちょうだいよ──
そう言いながら冷蔵庫を開け、表面にソースを塗って野菜やらサラミやらあれこれ乗せていく。最後にチーズをたっぷり乗せて、トースターへ。
「あのね、おかーさん」
「んー?」
そうこうしてるうちにお湯が沸いた。
淹れてくれたのはインスタントじゃない、ドリップ珈琲。カップから立ち昇る匂いをかぐうちに、なんとなく気持ちが落ち着いてくる。
今まであったこと、上手く話せるだろうか……話さなくちゃ。
「あたしね、コズサ姫と一緒にファタルってとこまで行ったの。小さいお城があって、そこにおじいちゃんの使ってた石窯があって」
石窯どうだった? と振り向かずに母が訊ねる。自分の分の珈琲を淹れながら。
「あ、うん。けっこういい感じだった。薪に火をつけるのがちょっと大変で、あとは発酵の管理が難しいんだけど、焼くの自体はそんなでもなかったかな。焼き上がりが毎回ちょっとずつ違うんだけど、それもけっこう面白くて……あ、パンピールの扱いに最初は慣れなかったけど」
「ふーん、そうかい」
そりゃ良かった、と続けたところでトースターがチンと鳴った。焼き上がったパンをお皿に移しながら、母はあたしにまた訊ねる──なんだか普通の世間話をするように。
「お姫様、喜んでくれた?」
「え? あ、うん」
「あっそ、なら良かった──ほれ出来た。食べなさい」
目の前には色よく焼けたピザトースト。
いただきますと手を合わせて一口かじると、表面がさくっと音をたてた。
「おかーさん。美味しい」
「あ、そ。いっぱい食べな、二枚目欲しきゃ焼いとこうか?」
「ううん、一枚でだいじょうぶ」
「そ。あんたピザソース平気になったんだね」
手作りのピザソースはスパイスが効いてて、子どもの頃はちょっと苦手だった。だから昔はあたしの分だけケチャップを塗ってたんだっけ。
今は味覚が育ったから、こっちの方が好き。ちょっと酸味があって、塩気があって。
「もう何年も平気だよ」
「そーだったっけか」
「うん。輪切りのピーマンも平気」
「前は器用に抜いて食べてたもんだけどね」
そう言って母は笑う。
ピーマン、少ししか乗ってないのに食べたくなくて、それだけ残しては「ちゃんと食べな!」って叱られた。今も溶けるチーズが山盛り乗ってるのは、緑色が見えないようにするためなんだろう。
もう全然平気なんだけどな。好き嫌いしないでちゃんと食べられる。
「それでどうだったの、そのファタルってところは。日本で言う日光らへんなんでしょ」
「うん、本当に日光みたいな場所でね。先代の上様のお墓があって、その近くに大きい滝があって」
そこで鬼に襲われて──でもそれは言わないでおこう、今は。
「湖があって、そのすぐ前にお城があって、物置におじいちゃんの使ってた自転車が残っててね。皆でそれに乗って遊んだりしたの。お城に着くまでは長ーい杉並木とか、ガイドブックに載ってたような道があって」
だってほら、あたしは食べてる途中だし、おかーさんも自分の珈琲飲み始めたし。
杉並木で猿に襲われて、境界で鴉に遭遇して、レオニさんに楔なんか打たれちゃって──いやいや、そんなこと言ったってしょうがない。黙っとこう。それがいい。
「そりゃいい所なんだろうね、行ってみたいわあ。あーでも馬車で揺られてくんじゃ大変か、腰痛くしちゃうか」
「でも途中で温泉入ったから。周りはお花畑とかあって飽きないし、大きな河をゴンドラで渡るのとか面白かったし」
火矢を放たれて河に落ちて、巨大なそこの主に助けられて、ぶるぶる震えながら入った温泉で従業員を装ったおばさんにデッキブラシで襲われたりもしたけれど──言わぬが花、沈黙は金、これも内緒にしておこう。
だって何事も無かったんだから。
「途中でお団子買って食べたりしてね、素朴な味でけっこう美味しくて。お喋りしてれば退屈しないし、最初に泊まったお宿もけっこうちゃんとしてたの。寝床はちょっと硬かったけど」
レオニさんとお団子食べながら三年前の例大祭の話を聞いて、その夜お宿に偽コジマが現れて──でも大丈夫、すぐに助けが来たから問題ない。
そう、問題ない。
何も。
「だから意外と平気だったんだ。行く前は色々心配だったけど皆とも仲良くなれたし、生活のあれこれは人力だから大変だけど慣れれば割と平気だし、水も空気もご飯も美味しいし、だから」
「サトコ」
ごとり、マグカップを作業台に置いて、母はあたしの方を向いた。
「あんた泣いたでしょ」
あたしはピザトーストの最後の一口を手に持ったまま、固まった。
「まぶたパンパンじゃないの。酷いもんだわ、鏡で見てくれば」
「……」
「朝から晩まで泣きまくった顔だよ、それ」
そう言ってまた、珈琲を啜る。
「そんな険しい顔しちゃってさあ。何があったのかわかんないけど、あんた昔っからそうだった。何でもないようなフリしてさ、ぜんぜん平気じゃないくせに」
それからもう一口、「ずずず」と音を立てる。「よっこらせ」と立ち上がったのを目で追うと、今度は洗い場でバットやら何やらをこすり出した。
もう遅いのにまだあれこれ残ってたんだ──ああそっか。
あたしがいないぶん、やることが増えたから。
「食べ終わったら顔洗っといで。話はそれから、なにも今じゃなくたっていいからさ」
……おかーさん。
言えないよ。言いたくない。言ったって解決しないもの。おかーさんまで悩ませたってしょうがないし、そもそもあたしの手に負えるようなことじゃないんだもん。
だから──
ごめん。ごめんなさい。どうしたらいいか、わからないの……
心の中で謝って、あたしはピザトーストの最後の一口を口の中に詰め込んだ。
味が、よくわからない。
せっかく作ってくれたのに。
「…………ごちそうさま……」
本当はすごく美味しいはずなのに。
ぽっかりと穴が空いたような気持ちでモゴモゴと口を動かして、あたしは久しぶりの食事を終わらせた。
母はその間ずーっと働いていた。あたしを見るでもなく。食事を急かすでもなく。話の続きを促すでもなく。洗い物を終えると、次はあたしが出てきたオーブンの拭き掃除。
おかーさん、それあたしがやる。
そう言わなくちゃダメなのに、唇が動かない。手も。足も。
でもせめて食べ終わったお皿くらい自分で洗わないと──あたしはノロノロと立ち上がった。そして、
「げっ」
と呻いて目を剥いた。
さっきまでピザトーストが乗っていたお皿に、あいつが乗っている。あいつ、あの、謎空間の小さな龍!
「あ……あんた、ついてきちゃったの!?」
「なーに、どーした急に」
「ななな、なな、なんでもないっ」
し、信じらんない。ちょっとやめてよ、厨房はペット禁止なんだから!
小さい龍はペロペロと未練がましくお皿を舐めている。むんずと掴んでコジマくんのリュックに詰め込もうとしても、お皿によっぽど未練があるのかガッチリつかんで離さない。しかもクネクネ抵抗して手に負えない。ウナギかなんか掴んでるみたい!
うわぁぁぁこいつ、こいつを何とかしておかーさんの目から隠さなきゃ……!!
ちりん
ちりん
ちりりん──
ちょうどその時、店のベルが鳴った。「誰だろーねえ、こんな時間に……」と手を拭きながら母が振り返る。
もちろん、ばっちり目が合った。
「………………それ、なに」
「ち、違うの! ついてきちゃったの、勝手に!!」
怯えたように固まった小さい龍が、抱えたお皿を取り落とす。すんでのところでキャッチして「ほっ」と息をついたら、ニョロニョロ動いてあたしの背中に張りついた。
おかーさんから隠れているつもりなんだろうか──意味ない、意味ないよ。
「ついてきちゃったってアンタ……それ蛇でしょーがよ。どーすんの!?」
「や、違うの違うの蛇じゃなくて」
「それは龍じゃよ、タカコさん」
おかーさんが「あ」と声を上げる。聞き覚えのある声にあたしは振り返った。
その人は「ふぉっふぉっ」と笑って目を細める。二メートルはあろうかという縦長の体躯に、工事現場の三角コーンのごとく尖った帽子をかぶり、白いひげを胸の下まで垂らして曲がった樫の杖を持った──
「マーロウさん!」
「こんばんは。すまんのぉーこんな遅い時間に」
マーロウさんはにっこり笑った。
あたしたちがここにトリップしてきた、あの晩のように。
「タカコさんや、まだ残ってるかのう。ワシの大好きなあれ」




