071:龍の通路(みち) 二
鬼の眼の光を頼りに城の中を走り抜け、コズサ姫とあたしは厨房へと駆け込んだ。
「扉、閉めて下さい! バリケード作るからっ」
入口の扉を閉め、コズサ姫が突っかえ棒を渡す。
あたしは姫様がどいたのを確認して、横倒しにした食器棚でそこを塞いだ。ダメ押しで薪の束を積み上げる。
「サトコどの、裏はッ!?」
そうだ、裏の勝手口──どうしよう、なにで塞ごう。
左右に視線を走らせる。
厨房のど真ん中に、でんと鎮座する石の作業台が目に止まった。
「姫様、手伝って!」
「うんッ」
これ、動くだろうか。動かすしかない。
両手をかけ、足を踏ん張り、渾身の力を込める。かなり重いけれど、やるしかない。
「う、ご、け……!」
ずる、ずる、と少しずつ作業台が動く。
いける、これならいける。
勝手口を塞ぐまであと少し。あと少し。あと少し……!
「う……ご……け!」
きっとこれが、いわゆる火事場の馬鹿力ってやつだろう。
あたしと姫様は歯を食いしばり、足を踏ん張った。やがて作業台は勝手口にぶつかり、ガタンと音を立てる。
これで──これで何とか……
はあっと息をつき、額の汗をぬぐう。
前後の扉をどうにか塞いだ。もう、おいそれとは入れないし出ることもできない。
肩で息をしていると、コズサ姫が作業台に身を預けるようにして座り込み、呟いた。
「なぜ……厨房だったのじゃ、サトコどの……」
あたしも虚脱感に襲われて、ずるずると隣に座り込んだ。
「わかんないけど……普段ずっといるからじゃないですかね……」
足は無意識に厨房に向かっていた。コズサ姫のお部屋でも、あたしの部屋でもなく。
腕の時計を見ると、時刻はもうすぐ夜の九時。
コジマくんは「朝までがんばれ」なんて言ってたけど──何時間あるのよ、朝まで。
あたしはそのまま、膝を抱えて沈黙した。
これで安心だなんて思えない。
本当は弱音を吐きたい。
だけどいま口を開いたら、良くないものが凄い勢いであふれ出て、あたしたちを飲み込んでしまうだろう──だから黙っていよう。そのほうがよっぽどいい。
「サトコどの」
そう──話しかけられるまでは。
「……鬼になるとは、どのような心持であろうか」
そしてそれが答えられるものであれば。
「見たであろう、あの顔貌──もはや人とは言えぬ、鬼そのものであった。おじいさまの退治なさった鬼が、祀られるうちに鬼神となり、あの者に力を貸したのであろう。人であることをやめ、鬼となり果てた末、我が祖父の手にかかり……」
「……」
「わらわは何の為に……天下泰平の為とは申せ、このような」
姫様はふっと短く息をつき、それからお膝に顔を埋めた。
どう答えよう。何て言おう。
でも姫様。あなたを襲った鬼よりも、あたしはあなたのことが心配です。それにあの鬼以外にも、この結婚のために心を鬼にしてる人、他にいるじゃないですか──だめだ。
藪蛇になるのが目に見えてる。
何か言ってあげたいのに何も言えず、あたしは口をつぐんで目を伏せた。
もう、余計なことは言いたくない。
きっと何も言うべきじゃない。
言っていいことといけないことの線引きが出来ず、失敗したのはついさっきなんだから。
「あの鬼を斬らねば、終わらぬのか……?」
あたしは膝を抱えたまま、隣のコズサ姫に視線をやった。それに気づいたのか、姫様もちらっとこちらを見た。心細げな表情が“鬼の眼”の光で浮かびあがる。
鬼を斬る……か。
アルゴさん、今どうしてるんだろう。
エード城に着いただろうか。エード城に着いたら上様やマーロウさんに会って、その足で悪いやつを斬りに行くと言っていた。
……でも、どこに?
あたしはハッとして顔を上げた。
アルゴさんが斬ろうとしてるのが、あの鬼で間違いないとすれば。
とすれば、あたしたちは完全に出し抜かれてるんじゃないの?
だってアルゴさんは知らないんだから。
鬼が霊廟に現れたことを知らないんだから。
あたしたちが厨房に立て籠もったこと、コジマくんが暗闇の獣を一手に引き受けたこと、レオニさんが奥の院に留まり、鬼からあたしたちを逃がしたこと──アルゴさんは、何も知らない。
「きっと……きっとなんとかなりますよ」
だめだ──暗い想像で頭が満たされていく。
「今まで何とかなってきたんだもの。今回だって、きっとなんとかなりますよ」
笑ってみせないと。無理にでもいい、笑顔を作らないと。
「朝までがんばれってコジマくんが言ってたし! だからがんばりましょ、姫様」
ねっ、とあたしは笑ってみせた。
笑顔のかたちになるよう、顔を動かした。
コズサ姫は心細げなお顔のまま、何か言いかけるように唇を動かして──でも、すぐにやめてしまった。
そして座り直そうとお膝を抱え、
「痛ッ」
と小さな悲鳴を上げる。
「痛……痛い! サトコどの、ここ!」
指差すところに鬼の眼をかざすと、土で汚れた衣装にうっすらと血が滲んでいる。
痛い、痛い、とコズサ姫は繰り返す。走って逃げてる時は気が張ってたから、怪我したことに気がつかなかったのだ。
「さっき転んだところ? 大丈夫ですか?」
「擦りむいた。血が出た!」
「あー、ほんとだ……ちょっと待って下さいね、何かあると思うから」
そうだ、あたしにも覚えがある。怪我した瞬間より、少しほっとした時の方がズキズキ痛むってこと。
コジマくんのリュックを開け、適当に手をつっこむ。消毒薬とかあるといいんだけど……
ごそごそやってると冷たいものに指が触れ、引っ張り出すとそれは「お師匠様直伝の秘伝の薬」だった。例の、お風呂にも使えるし赤ちゃんのおむつかぶれにも使えるやつ。
怪我にもいいんだって、コジマくん言ってたっけ。痕も残さず治るって。傷を洗ってこれ塗って、上から包帯を巻いておこう。そうしよう。
あたしは立ち上がって水瓶の蓋を開け、ハンカチを浸した。
「さ、ほら姫様。裾めくって」
そう言って振り向くと、コズサ姫が「げげっ」とでも言いたげにお顔を引きつらせる。
「ま、まさかとは思うがそれで拭うのか? 沁みるではないか」
「でも土とかついてるの落とさなきゃ」
「嫌じゃ。痛いであろうにッ」
姫様は座り込んだまま、ずりずりとお尻で後ずさる。一歩近づくと、二歩下がった。怯えて震え、ハンカチをちょっと動かすと「ひっ」とか言って身をすくめる。
……あの、これじゃ何だか悪者みたいなんですけど、あたし!
「ちょっと姫様、あたしから逃げてどうするんですか。ほら、そーっとやるから見せてください」
「嫌じゃ! 絶対に沁みるッ」
「んもー子どもじゃないんですから、手どけて」
「嫌、嫌、嫌!」
「もぉー我がまま言わないの! ほら捕まえたっ!」
「いーやーじゃー!」
あ、けっこう血が出てる。
膝の少し下あたりに擦り傷を見つけ、あたしはじたばたする姫様を捕まえてハンカチを当てた。「痛!」と身をすくめてお顔をしかめるけれど、何にもしないわけにはいかない。
じゅーっと絞って、汚れを洗い流す。
「もう……もうよいサトコどの、痛いと申すにッ」
「だーめ、ほっといたら膿んじゃうかも」
「……」
「嫌でしょ?」
「……うん」
「だったらちゃんと手当しなくちゃ。それに何もしなかったなんて知られたら、あたしアルゴさんに怒られちゃう」
まあ実際は「痛いからとて逃げ回るとは情けなや」とか何とか言われて、姫様の方が叱られるんじゃないかって気がするけども。
傷口の汚れを落として、あたしはまたリュックに手をつっこんだ。包帯包帯と念じていると、それらしきものを指が発見する。引っ張り出してみると──ほら、正解。
「……アルゴのやつめ」
さすが魔法のリュック、必要なものがきちんと出てくる。あとでコジマくんにお礼を言おう──そんなことを思っていると、コズサ姫がポツリと呟いた。
「あやつがおれば、怪我などせずに済んだやもしれぬ」
溜息まじりで、目を伏せたまま。
「確かにそうかもしんないですよねぇ……あの人すごいから」
きっと姫様を走らせるのではなく、背負って自分が走っただろう。
霊廟からここまで人ひとりおぶって駆け抜けるくらい、あの人ならやってのけるに違いない。
レオニさんなら同じように出来たかもしれないけれど、あの時は無理だった。鬼がいたから仕方がない──そう、仕方がない。
秘伝の薬の蓋を開け、傷口を隠すように指で塗る。塗ったとたんにお花の香りが広がって、あたしはもう一度笑ってみせた。ちょっと無理があるとは思ったけど、もう一度にっこりと──でないと、また暗い雰囲気になりそうだったから。
「あたしやコジマくんがもう少し力持ちなら良かったんですけどね。姫様をおんぶできるくらい、あたしたちが力持ちなら……」
でもやっぱり無理で。
「アルゴがおれば」
姫様の声が震えていたから。
「アルゴがおれば、即座にあの鬼を組み伏せたであろう。獣に追われることもなかった。コジマを置いてくることも……あの若いのを置いてくることも」
何も言えない──言ってはいけない。
今できるのは、ゆっくりと丁寧に、包帯を巻くことくらい。ゆるすぎないように。きつすぎないように。
「このようなことになると、わかっておれば」
巻いたところにぽつりぽつりと落ちてくる──コズサ姫の、涙。
「恨んでおろう……サトコどの」
いつもみたいな子どもっぽい泣き方じゃなく、ただ静かに。
「なんで……恨むなんて。なんで」
「わらわのせいじゃ」
「……」
「わらわが我がままを申したのじゃ。サトコどのを連れて行くと」
そしてコズサ姫は、厨房の床に片手をついた。もう片方の手で、袖を押さえながら。
「すまぬ。この通り」
包帯の端を結ぶ指先が、上手く動かない。何言ってんの──何言ってんの、この人は。
なんで泣いてんのよ。
どうして謝ってんの。
あたし相手に床に手をつくようなこと、何もしてないじゃない。
「ちょ、ほんと……やめて姫様、やめて下さいよ。
そりゃ最初に誘われた時はびっくりしたし、怖いことだって色々ありましたけど……でもほら、行くって決めたのはあたしなんだから! それをどうして、恨むだなんてそんな」
「サトコどの……」
「だいたい悪いのはあいつじゃないですか、あの鬼、あの魔法使い! そもそもこんなことになったのは悪い魔法使いが姫様を子どもにしちゃったからで」
「サトコどの、それは」
「それに、あたしこそ姫様に」
謝らなきゃ、と言いかけたその時だった。
どん!
どん!
どん!
厨房が揺れた。
あたしとコズサ姫は同時に勝手口の方を見た。
揺れているのは──外だ。
「隠れて」
作業台の向こうで勝手口の扉が激しく揺さぶられる。
みしみしと柱が、梁が音を立てる。
それから獣の低い唸り声──ぐるる、ぐるる、と喉を鳴らし、ハッ、ハッ、と荒い息を立てる。ざっざっと歩き回る音がいくつも、いくつも。
「隠れて姫様、早くっ!」
「どこに……これ以上どこに身を隠せと申すのじゃ!」
みしみし、めりめり、建物の軋む音が焦りを加速させる。
コズサ姫を隠さなきゃ。
どこかに隠さなきゃ。
見つからないように隠さなきゃ。
ちょっとやそっとじゃ破られない場所、頑丈な場所……
あたしは厨房を見回し──
そして、おじいちゃんの石窯で目が止まった。
「姫様、ここに入って!」
石窯の中はけっこう広い。一人くらいなら身を隠せるだけのスペースはある。子どもサイズなら尚のこと。
灰はとっくにかき出してあるし、何より頑丈だ。猪が体当たりしたって、狼が牙を剥いたって、壊されることはないだろう。
あたしは石窯の扉を開け、戸惑うように身を引くコズサ姫の手を引っ張った。
「サトコどのはッ」
「あたしはいいですから入って、早く入って!」
姫様は石窯の入口に手をかけ、膝を乗せ──そして不安げに振り向いた。
「サトコどの」
「だって二人は入らないもの! いいから早く!」
「しかし」と言いかけたコズサ姫を、あたしはぐいぐいと石窯に押し込んだ。「わ、わッ」と声が上がるけど、そのまま外から扉を閉める。
バタンと音を立て──残ったのは、あたしだけ。
どん!
どん!
どん!
暗闇の獣たちが勝手口を揺らしている。どん、と音がするたびに厨房全体が軋み、石の作業台が震えて移動する。
あたしはコジマくんのリュックを背負い直し、パンピールを握りしめた。
だいじょうぶ。
だいじょうぶ。
今までずっと何とかなってきたんだから、今回だってだいじょうぶ。きっと寸前で何とかなる。
だってほら、お話でもよくあるじゃない。ここ一番のピンチの時に、ヒーローが颯爽と登場するの。温泉でもそうだったんだから、今度もきっとそうよ。あの時みたいに、皆が来てくれる。コジマくんも、レオニさんも、遠くへ行ったアルゴさんも、きっと、皆、無事で──
「はぁっ」
胸から吐息を絞り出し、あたしはぎゅっと目を閉じた。
かちかち、かちかち、耳にさわる小さな音──さっきから、歯の根が合わない。
「誰か」
怖い。
怖い。
怖い。
あたしはいいからなんて言ったけど、本当はちっとも良くなんかない。
本音を言うと尻尾を巻いて逃げ出したい。
緊急事態なんだから自分のことを一番に考えたいのに、なのに、なのに……そんな考えが頭の隅から離れない。
「助けて」
だってあたしは、パンが作れるってだけで他は至って普通なんだから。
魔法が使えるわけでもないし、剣が振るえるわけでもない。肉体的には、はっきり言って弱いんだから。
自分の身一つ守れない。戦うことはおろか、逃げることさえも。
膝が震えて、もう立っていられない。
あたしはずるずると座り込み、もう一度「はあっ」と息を絞り出した。その時──
ガンガンガン、と石窯の扉が鳴った。
中からだ。
コズサ姫が内側から一生懸命叩いて鳴らしているのだ。
どうしたんだろう。何かあったんだろうか。
あたしは慌てて扉を開けた。正直に言うと、ちょっとホッとして──だって本当に悲愴な気分だったから。
「姫様、どうしたんですか……ぐすっ……ダメじゃないですか、中で静かに隠れてなくちゃ」
「サトコどのもッ」
「へっ」
「一緒にッ!」
何か言うような時間は無かった。
あたしは姫様に手を掴まれて、握っていたパンピールを取り落とした。そのまま石窯の中に引きずり込まれ──
そのまま、どすんと落下した。
「いったあぁぁ……」
したたかに打ち付けたおしりをさすり、あたしは体を起こす──狭いはずの石窯の中で。
「……なにこれ」
あれこれ言いたいことがあったのに。
混乱して何から言えばいいのかわからない。
「なんなの、これ」
石窯の中にどうしてこんな広い場所があるの、とか。
とりあえず安心していいのかな、とか。
なんだか暗いのにキラキラしてて、宇宙っぽいな、とか。
こんな場所を夢で見たことあるわ、とか。
だけど一番言いたいのは──
「姫様」
声が上ずる。全身から血の気が引き、唇が冷え切ってわなないた。
「姫様、どこ」
コズサ姫が隣にいない。
手を繋いでたはずなのに、どこにもいない。
一緒に、って言ったじゃない。
──空っぽの手で、あたしは震える自分の体を抱いた。
「姫様ぁ!」
石窯の中に広がる謎空間に、あたしの声は吸い込まれて消えた。
応える声は──ない。




