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070:龍の通路(みち) 一

 ──サトコさん。道、覚えてますね。


 振り向かない。後ろを見ない。

 前だけ見て、走って、走って、安全なところまで。


 ──来た道をまっすぐ戻り、本堂を出てからは鐘楼をまわり込んで右。小さな橋を渡ればすぐに裏の山門です。


 夜空に星が浮かぶ。それも満天の。

 星明りで走れる。走れる。だいじょうぶ、走れる。


 ──暗いから足元には気をつけて。転ばないように。あの黒いものに捕まらないように。


 渡り廊下を、本堂を、表の参拝路を、あたしたちは必死で駆け抜けた。

 息は苦しいし脇腹は痛い。

 手の甲でぐいと目元をぬぐうけど、涙なのか汗なのか、もうわからない。


「サトコさん、もっと早く!」


 後ろからコジマくんが檄を飛ばす。


「こ、これ以上……急ぎようが、ないわよぉ……!」

「追いつかれちゃいますよっ。足元に少しずつ来てる!」


 言われてあたしとコズサ姫は下を見た。「ヒッ」と掠れた声が出る。

 足元にざわざわと蠢くもの──鬼の祠から這い出た暗闇が広がり、今まさにあたしたちの足に触れようとしていた。

 思わずたたらを踏みそうになって、姫様にぐいっと手を引っ張られる。


「止まってはならぬ、サトコどの!」

「これ……これ、これって……」


 ふたたび走り出すと黒い闇が同じ速さで追ってきた。もやもやと輪郭のなかったそれは、あたしたちに並走しながら次第にその形を整えていく。

 丸くちぎれて、ころころと。

 いくつも、いくつも、細い糸のような尾を伸ばし、きいきいと耳障りな音を立て。


「これ! 鼠じゃない!!」


 半泣きで叫んだ足元を、ちょろちょろと黒い塊が走り回る──あの暗闇をぎゅっと握って固めたような、真っ黒な鼠が何匹も。


「これもあいつのせいなの!?」


 ちらっと振り返れば石畳の参拝路がチカチカ光っている。

 何だろう、と疑問に思ったのは一瞬だけ。その正体はすぐにわかった──光っているのは、鼠の両目だ。

 ぞくりと全身に鳥肌が立つ。

 無理、無理無理、あたしこーゆーのほんと無理!!


「コジマくん! 話し合えないの、猿の時みたいにっ」

「なに言ってんの鼠ですよ鼠っ、意思疎通なんてできると思いますっ!?」


 思いません、と答える余裕なんてない。


「いやだぁぁ、ほんとにもーー!!」


 叫びながら参拝路を突っ走り、鐘楼を右に回りこむ。

 そのままあたしたちは小さな橋を飛び越え、裏の山門を駆け抜けた。暗闇でできた鼠がちょろちょろとまとわりつく。

 やだやだ怖い、気持ち悪い。早く、早く、早く石段を下りなくちゃ。

 自転車に乗れば鼠を振り切れる──


「あッ」


 足がもつれたのか、コズサ姫が石段を二、三段踏み外した。コジマくんが「お怪我は!?」と助け起こし、姫様は「大事ない」と膝を払う。

 あたしは山門の方を振り返り、ぎょっとして立ちすくんだ。


「ちょっと……なんか他のがいる!!」


 黒い波のような鼠の群れの中、何かの影が見え隠れしていた。鼠よりも明らかに大きい。一回りか、二回りか。

 増えている──数も、種類も。


「何よあれ……何なの、あれ!」

「おそらく“山の主”の力です」

「あの鬼のこと!?」


 コジマくんが何か呪文のようなものを唱えて杖を振る。すると周りの獣の波がさっと引いた。

 その隙にまた駆け出すけれど、後から後から藪をかきわけて迫ってくる。

 どーすんのよこれ。キリが無いじゃない!


「でもあいつ、鬼じゃないんでしょ? 生身の人間なんでしょ!?」

「鬼の魂と共鳴したんですよ! たぶんねっ」

「どういうことじゃ!」


 息を切らせながらコズサ姫が訊ねる。

 帽子を押さえてもう一度杖を振り、階段を駆け下りながらコジマくんは叫ぶように答えた。


「鬼じゃないことは確かです! あいつは恐らく魔法使いですよ、これまで姫様にさんざん嫌がらせをしてきた、ね。

 そいつがどういうわけか霊廟に、それも鬼の祠に潜んでいた。僕に気取られないよう魔法の力を押さえながら。その時、中で神憑りとか神降ろしみたいなことが起きたんじゃないですか。あいつの体に鬼の、つまり“山の主”の力を引き降ろすようなことが!」

「そんなん普通ありえるの!?」

「僕だって初めてですよこんなの! でも高い魔法の素養があり、かつ鬼と魂を同じくする部分があれば、充分ありえます!」


 鬼と魂を同じく──コジマくんの言葉の意味を、正しく理解できる自信はない。

 でもきっと、鬼とあいつが『心底わかりあってしまった』とかそんな感じなのだろう。

 姫様に呪詛を行うような切羽詰まった事情に、そうしなきゃいけないような何かしらの“大義”に、鬼が理解を示して力を貸したとか、そんな感じなのだろう。


 そしてそれこそが暗闇と獣を操る“山の主”の力なのだろう。


「コジマよ、何とかならぬのか!」

「長年ここで祀られた祟り神の力が相手じゃあ、正直言って荷が重いです。悔しいけれど!」

「ならば何とするッ」

「とにかくお城に戻って身を隠しましょう、今はそれが最優先です!」


「もっと早く!」と叫ぶ声に背を押され、あたしたちは七百段を駆け下りた。両側の藪をガサガサかきわけ、暗闇の獣が並走している。

 無数の視線が絡みつく。

 足を止めた瞬間、飛びかかろうと狙っているのだ。

 だから絶対、止まっちゃだめ。止まっちゃだめ。止まっちゃだめ!


「見えた!!」


 登る時はあんなに苦労した石段を、あたしたちは転がるように駆け下りた。

 あ、あ、足腰ががくがくする。「登りより下りの方が、筋肉への負担は大きいんだ。だから捻挫したり怪我したりってのは、たいていが下りの時だ」って言ってたのは誰だったろう。

 おじいちゃんだったろうか。おかーさんだったろうか。あるいは山野くんか、高校の担任か……いやいや、そんなことはどうだってよろしい!


「姫様、乗って! コジマくんも!!」


 自転車の荷台にコズサ姫を乗せ、あたしもペダルに足を掛けハンドルを握る。最後に、手綱を外して馬を自由にしたコジマくんが後ろに跨った。馬は賢い生き物だから、自力で逃げられる──そう信じたい。


「乗った!?」

「乗りました!」

「わかった、しっかり掴まっ……」


 どどど どどど どどど


 言葉が途切れる。耳を打つのは、地面が揺れる音。

 地響きを立て、何かが来る──何かが走ってくる。


 どどど どどど どどど


 あたしたち目がけて、何かが迫ってくる!!


「サトコどの!」


 ぐいと立ち漕ぎでその場を離れた時だった。


 どんっ!


 何かが激しくぶつかる音、そして獣の悲鳴──さっき自由にしたばかりの馬が、あたしたちをエードからここまで連れてきた馬が、悲鳴を上げる。

 漕ぎながら後ろを振り返り、あたしは見た。

 湖沿いの道に、馬が横倒しに倒れてもがいている。その傍らに立つ大きな山の獣。耳障りな鳴声を上げ、頭を下げて前脚で地面をかき──


「い……猪!?」


 ──弾丸のように、向かってきた!!


 その時のあたしは、競輪選手もかくやというほどのスピードが出ていたと思う。

 だって猪って。

 猪って。

 後ろから迫りくる何頭もの猪って!!


「がんばってサトコさん、自転車が本気出せば猪より早いはずですから!」

「そんなんわかっ……でも三人乗っ……!!」

「しゃべる元気があったら漕ぐ方に回して! だいじょうぶ絶対勝てる引き離せるやればできます!!」


 シャーッと音を立てて車輪が回る。とてもただのママチャリ、それも数十年前のものとは思えない速度で。

 そうだ、帰りは緩い下り坂なんだ。

 この勢いで湖沿いの道を漕ぎまくれば、無事に狩りの城まで戻れるはず。

 戻れるはず──戻れるだろうか。

 本当にあたしたちは、戻れるのだろうか。


 うおぉぉーーーー……ーーん うおぉぉーーー……ーん


 だって聞いてよ、この遠吠え。

 追ってくるのは猪だけじゃない。獣の鳴声、荒い息、足音。何種類も。何種類も。


「コジマ、空が……!」


 姫様の声に目線を上げれば、夜空を埋め尽くす鳥の群れ。

 全部真っ黒。

 星明りを遮り、獣の目が、鳥の目が、らんらんと光る。森が山がそこに住むすべての生き物が、あたしたちを追ってくる!


「レオニさん……」


 唇が無意識に、その名を呼んだ。


「レオニさん……」


 腰に回されたコズサ姫の腕に、ぎゅっと力が込もる。


「レオニさん……!」


 誰を呼んだのか自覚した途端、じわりと景色が歪んだ──どうか、どうか、どうかお願い。

 無事でいて。


 すぐ後ろに迫る獣の気配に怯えながら、上空を舞う数えきれないほどの鳥に慄きながら、あたしは漕いで漕いで漕ぎまくった。

 やがて湖の畔に、建物の影が見えてくる。

 静かに佇む『狩りの城』。

 ああ良かった、ここまでくれば……ここまでくれば!


「中に入って!」


 キキーッと音を立ててドリフトし、城の前で自転車を止める。すぐに飛び降り一目散にエントランスへ駆け込んだその直後、


 ガシャーン!!


 自転車が破壊される音に、あたしは思わず目を瞑った。

 扉を閉め、(かんぬき)をかけ──その扉を、外からなにかがどん、どん、と揺さぶっている!


「もう……もう、どうすりゃいいのよぉ……」


 泣きごとがこぼれる。

 鼻の奥がつんと痛くなる。

 真暗なエントランスの内側で、光源はあたしの首から下げた鬼の眼だけ──思えばなんて不吉な名前なんだろう。服の中にしまっておいても、その光はあたしたちの周囲を照らしている。

 不吉な名前のわりに優しく、おだやかに。


「まーここまで来れば何とかなるでしょ!」


 妙に能天気な声が聞こえ、あたしは顔を上げた。


「いやー良かったですよどうにかここまで来れて。それじゃサトコさん、姫様を奥にお連れして下さい。僕はやることがありますんで」


 そう言って魔法使いの弟子はニコーッと笑う。なによ──どうして急に、余裕になってんのよ。


「おぬしはどうするのじゃ」

「もちろんここを守ります! 大人しくお隠れになってて下さいね、僕がいいって言うまで」

「だ……だめよだめ、何言ってんの!」


 やめて、一人で残るなんて。


「だって見たでしょあの黒い猪、狼の遠吠えだって聞いたでしょ。この扉もそのうち破られちゃう。一人でどうすんのよ!」

「んもー心配性だなあ、サトコさんは」

「心配するわよ、アルゴさんが一人で行っちゃって、レオニさんも一人で鬼のところだし、その上コジマくんまで……勘弁してよ、だいたい城の奥ったってどうすんの、ここがダメなんじゃ部屋に籠ったって!」

「どっかあるでしょ頑丈なところ。バリケードでもなんでも作って立て籠もってください、朝まで持ちこたえりゃきっと状況は変わります」

「そんな」

「そりゃあね、さっき言った通りこの事態を収拾するには僕一人じゃ荷が重いのは確かですよ。相手は祟り神の力で山の獣を総動員してるんだから。

 だけど打つ手なしと絶望するにはまだ早いです。それに何とかしなきゃいけないのは間違いないんだから。でしょ?」


 そんなこと言ったってどうすんのよ──そう言いつのろうとしたけれど、それはコズサ姫に遮られた。


「策はあるのかッ」


 訊ねたその声も、僅かに震えていて。


「なくもないです。ま、ようは神頼みですけど」

「それ、無策って言うんじゃないの!?」


 どん、どん、と扉が揺さぶられる。みしみしと軋むような音も。

 そちらを横目で見て、コジマくんは気合いを入れるように帽子をかぶり直した。魔法のリュックを背中から下ろし、あたしの胸に押し付ける。

 そしてどこからか紐を取り出すと、ローブの裾をひょいひょいとたすき掛けにした。


「信じて下さいよ、なんとかなります。だいたい僕を誰だと思ってるんですか? 大魔法使いマーロウの唯一の弟子コジマですよ。才能にあふれ、かつ優秀で、しかも努力を怠らない期待の新星です!」

「それは知ってるけど、でも」

「あ、断っときますけどね、一緒にここに残るとか言わないで下さいよ。いくら僕がやるときはやる冷酷無慈悲な男だからって、猪だの狼だのがウロウロしてる中にご婦人をおっぽり出すようなことはできません。そんなことしようもんなら隊長さんにもレオニさんにも店長にもお師匠様にも、もっと言うと上様にも怒られちゃいますよ。僕にとっちゃ鬼や獣よりそっちの方が怖いです」

「でも」

「あーもう行って、ほら行って……んもーお二人とも何て顔してるんですか! これが最後じゃないんだから」


 コジマくんはそう言って、あたしの背中をぱしっと叩いた。しっかりしろ、と言うように。姫様を頼みます、と言うように。


「姫様もサトコさんも絶対に傷一つ負っちゃいけないんです。だから隠れてて。僕がいいって言うまで」


 そして魔法使いの弟子はあたしたちに背を向けた。

 両手で杖を握り、トンと床を突いて扉を睨む。どこからか白い鳩が顔を出し「くるっぽー」と一声鳴いて羽ばたいた。


「がんばろーねっ、ポッポちゃん!」


 飛び立った鳩から視線を戻す。コズサ姫はぎゅっと拳を固く握り、魔法使いの背中を見つめながら立ち尽くしていた。


「……コジマよ」

「なんですー?」


 ほんの何秒か言い淀み、口にしたのはやっと一言。


「すまぬ……!」


 やだなー何を仰いますかほら早く行ってー、とコジマくんは扉の方を向いたまま軽ーく答えた。

 みしみし。

 めりめり。

 城全体が悲鳴を上げる。


 あたしは無言で、預かった魔法のリュックを背中に背負った。

 コズサ姫の手を握りその場を後にする──唇をきつく噛みしめて。


 そして真暗な中を、城の奥へと駆け出した。




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