069:祠の鬼
「姫様!」
と、あたしが叫ぶよりも早く。
レオニさんが動いた──舞手が剣を掲げたときには、もう動いていた。
腰を浮かすと同時に地を蹴って、両腕にコズサ姫を抱えて飛び退る。
振り下ろされた白刃は、空を切って床に突き刺さった──あたしの爪先スレスレに。
…………。
うそーーー!?
「ぎゃーーーーーーーーっ!!」
「イヤーーーーーーーーッ!!」
一拍置いて、あたしとコジマくんは抱き合って悲鳴を上げ舞台の隅へと後ずさった。
やだやだもうやだ、なんでこうなっちゃうの、いつもいつも!
「こ、ここ、コジマくん、何がどうなって」
まずいまずい、今ので完全に腰が抜けた。あたしは魔法使いの弟子にしがみついて、ただ震えあがるばかり。
「ねえコジマくん、どうなってんの。これホントどうなってんの、ねえ!」
ほとんど悲鳴になってしまったあたしの問いかけに、コジマくんはすぐには答えない。未来に光あふれる前途有望な彼にとっても予想外の事態なのだろう、横顔にかつてない焦りが見える。
舞台の中央で微動だにしない舞手を睨みつけながら、コジマくんは押さえた声で言った。
「魔法じゃない……これは魔法じゃない。匂いがしません」
「ど……どういうこと……?」
「これは魔法でやったことじゃない。神職さんがみんなぶっ倒れてるのも、あいつがここにいるのも──魔法なら当然匂いがあるはずで、匂いがあれば僕が気づかないなんてこと有り得ないんです。なんたって僕は大魔法使いマー」
「でもあいつここにいるじゃない! 何なのよアレ、魔法じゃないなら何なのよぉぉ」
どうどう どうどう
あたしの情けない声を、滝の音が容赦なくかき消していく。
雷の如く轟いていた鳴り物はもう聞こえない。舞台の端には神職さんが折り重なるように倒れていて──背筋に、ぞっと寒気が走った。
さっきまでの激しさが嘘のように、舞手は動かない。
凍てつくような“静”が恐ろしい。
『……あなくちをしや、呪詛は完成せなんだか』
どうどう どうどう
瀑声の合間を縫って、くぐもった声が聞こえる。表情のない仮面の下から。
『いつから気づいていた、エードの近衛士よ』
「……日没の鐘が鳴らなかった。何事かあると考えるのが道理でしょう」
背中にコズサ姫を隠し、レオニさんが答える。はっ、とコジマくんが目を瞠った。
ああ、そうか──あたしたちは初めてだけど、レオニさんは来たことがあるから。霊廟に。
「神職方をどうしたんですか。祭主どのは」
舞手は動かない。剣を床に打ち付けた姿勢のまま、動かない。質問にも答えない。
『役に立たぬ近衛士よ。しっかと楔を打ったというに。姫を己のものにするのが、それほどまでに嫌か』
ぴくり、とレオニさんの肩越しに、コズサ姫がわずかに震えた。うわアイツ最悪、とコジマくんが歯噛みする。あたしの額にも汗が浮いた。
「……何の話じゃ。彼奴は何を言うておる」
「御耳を塞いでください。聞くに値せぬ戯言です」
「そーですよ姫様っ、真に受けちゃダメですからね! ショック受けたりなんかしたらコイツの思う壺です!」
『清廉なるエードの姫よ。そなたは如何なのだ』
滲んだ汗が頬を伝う。舞手はゆっくりと追い打ちをかける。
『姫よ、そなたは如何なのだ。見目うるわしき若き男じゃ……この男のものになりとうないか』
やめて、やめて。
『……抱かれても良いとは、思わぬか』
「な、な、なに言ってんのよーーーッ!!」
思わず、あたしは絶叫していた。
「良いわけないでしょーがッ! そもそも人違いなんですからね!? 人違いで楔なんか打ちこんで散々引っ掻き回してまだ言うか、この……」
──だけど集中する視線に気づき、すぐに沈黙した。
コジマくんは「うわー」って顔してるし。
レオニさんは「えっ」て顔してるし。
コズサ姫はレオニさんの肩越しに、おっきいお目々をぱちくりしてるし。
でも、それよりも。
『若武者。魔法使い。それに異界の者──いつぞやと同じじゃのう』
舞手の仮面の黒い穴が、こちらを向いていて。ぽっかり空いた二つの黒い穴に、捕まりそうで、怖くて。
あたしは口を半端に開けたまま沈黙した。
いつぞやって、いつよ……ごくりと息を飲んだまま、あたしは続きを叫べない。
代わりに声を上げたのはコズサ姫だった。
「其の方、何処より参った」
きっと舞手を睨みつけ、よく通る鈴のような声で。
「ここは我が祖父の霊廟。其の方、何処より参った!」
あたしはハッと我に返る。
……そうだ、姫様の言うとおりだ。
神域は安全なはずなのに、“境界”が悪いものを消し飛ばすはずなのに。あいついったい、どこからきたのよ。どうやって入ってきたの。
あたしはコジマくんの後ろで震えながら、視線を巡らせ──そして闇夜の向こうに目が留まった。格子戸の開いた、小さな祠。
『幸せな姫よのう……守られて、慈しまれて、王の中の王に嫁し御子を成すか』
その格子戸の奥は、星明りも届かない真っ暗闇。
ゆらゆら。ゆらゆら。
揺れる格子戸に合わせ、中の暗闇が一緒に揺れている。
「コジマくん、あれ見て!」
あたしの指差す方に、コジマくんが目を向けた。
「鬼の祠……!?」
「あいつあそこから出てきたのよ。よく見てよ扉が揺れてるっ」
「……」
「だからあいつ、外からじゃなくて中から来たのよ! もうずっと、中にいたのよ!!」
「──そなた、鬼か」
あたしの叫びを受け、コズサ姫が問いただした。
「鬼が何故わらわに仇なすのじゃ。我が祖父への恨みか」
舞手は答えない。肯定も否定も、その姿からは読み取れない。
コジマくんが杖を握る手に力を込めた。青い瞳で鬼の祠を睨んでいる。祠の奥に揺らめく、暗闇を睨んでいる。
「わらわが大王様の御子を成せば、其の方は困るのか。鬼がそのようなことで困ると申すのか」
その暗闇はまるで生き物のように蠢いていた。格子戸をすり抜け、様子を伺うように忍び寄ってくる。
コジマくんが杖の先をそちらに向けて牽制する。
あれは──いったい、なに。
『大王様の御子なれば、さぞや御幸せになろうのう』
黒い霧のような暗闇が、檜の舞台を取り囲む。これまずいんじゃないの、と直感が叫ぶ。
鬼の仮面の目の奥と、まるっきり同じ真っ暗闇。
あれに捕まったら最後、きっと逃げられない。
『それもエードの姫の腹なる御子じゃ。男御子であればあまねく天下を統べられよう。女御子なればしかるべき縁にて、泰平の世の礎となろう。姫よ、そなたが然うであるように』
「……何が言いたい」
『しかし腹が違えばそうはいかぬ。人に知られず、打ち捨てられ、見向きもされぬ。己が誰の子かも知らされぬ、哀れな子よ』
「わかるように申せ!」
『──知ったとて詮無きことかな!!』
“静”から“動”へ。
暗闇に囲まれた舞台で、舞手が動いた。剣を引き抜き僅かに身をかがめ、陽炎のように揺らめいてコズサ姫の方へ一気に距離を詰める──でも、一瞬早くレオニさんが動いた!
キィン!
と金属の打ち合う高い音──
『邪魔立てするか!』
舞手の振りかざす剣を、丸腰のレオニさんが何かで受け止めた。それは松明をくくりつけた背の高い燭台だった。
金属の柄が神剣を跳ね除ける。
同時にレオニさんは空いた片手でコズサ姫の首根っこのあたりを掴んだ。そのまま腕をぶんと振り、力の限り放り投げる──あたしの方へ!
「姫様を!」
あたし目がけてコズサ姫が降ってくる──ちょ、ちょ、受け止めるの? 両手で!? まじで!?
「頼みます!!」
「ちょ、え、うそーッ」
「サトコさん落としちゃダメですよ絶対受け止めて!!」
どさっ! と落ちてくるコズサ姫をあたしは全身で受け止めた。衝撃でひっくり返りながらも、小っちゃい体をなんとか死守する。
「サトコどの!」
「だ、大丈夫です……大丈夫」
舞手が攻撃目標を見失い、一瞬戸惑うように動きを止めた。
その瞬間をレオニさんは見逃さない。燭台の柄を両手に握り、燃える松明を『鬼』の仮面に突っ込んだ!
『があぁぁぁぁーーーーッ!!』
咆哮に思わず耳を塞ぐ。
『おのれ! こしゃくなり、こしゃくなり!!』
鬼は神剣を取り落とし、両手で顔を覆った。焦げて亀裂の入った仮面が音を立てて落ちる。舞台を囲んだ暗闇が、ざわざわと騒ぎ出す。
『おのれ近衛士、こしゃくなり! ああ、痛い。熱い。息ができぬ』
「炎に焼かれるということは、生身の人間なのですね……あなたは鬼ではない」
『痛い……熱い……』
「ここに優秀な魔法医がいます。望めば治療を受けられることでしょう」
「ちょっとレオニさん、僕そんな奴触りたくも」
「ただし、答えて頂きたい。どうやってここに来たのか。あなたは何者なのか。あの手この手でエードの姫を害さんとする、その本当の理由は」
顔を覆ったまま、鬼がうずくまる。
「“西の大王の御血筋を守る”、捨て身になる理由はそれだけですか。そのような見えぬもののために何故このような」
『吾子のためなら、鬼ともならん!!』
鬼が叫び、顔から手を外して神剣を取った。現れた顔に、あたしは思わず息を飲む。
口が大きく裂け、真っ赤にただれた、まさに鬼の顔貌──
「コジマさん!」
レオニさんが叫ぶ。
「魔法を!」
コジマくんが杖を振り、コズサ姫があたしにしがみつく。
あたしは目を見開き、「嘘でしょ」という言葉をぐっと飲み込んだ。
──目の前にコズサ姫が二人。
一人はあたしにしがみつき、もう一人は燭台の柄を構え鬼に対峙する。
「コ、コジマくんがやったの……?」
魔法使いの弟子は「しッ」と人差し指を立て、あたしは瞬間的に理解した。
コジマくんの誤魔化し魔法と、コズサ姫の目隠し魔法。二つが同時に使われている。鬼の目には今、あたしたち三人の姿は映っていない──『コズサ姫の姿をしたレオニさん』だけが見えているのだ。
『小賢しい真似を』
じりじり、じりじり、剣の先を、燭台の炎を、鬼と“コズサ姫”は互いに向けて少しずつ移動する。“コズサ姫”はあたしたちを庇うように、ぎりぎりまで近づいた。
そして振り返らずに囁いた。
「お二人とも、姫様を頼みます」
『……姿は消しても匂いは消せぬ』
「道、覚えてますね」
『匂うぞ、匂う……馥郁たる匂い、甘くかろやかなる若き娘の匂いぞ』
「暗いから、気をつけて。転ばないように。あの黒いものに捕まらないように」
『そこかッ!!』
キィン!
とまた金属が弾き合う。
「さあ行って、サトコさん」
「でも……」
「走って」
「でも、レオニさん」
「走れ!」
動けずにいるあたしの手をコズサ姫が握り、立ち上がった。
「振り向くな!!」
姫様とあたし、しんがりにコジマくん。
舞台の扉を体で押し開け、渡り廊下に飛び出した。
走って、走って、走り抜けた。
言われた通り、後ろは振り返らなかった。
視界が涙でにじんでも。
祠の“暗闇”が大きく波打ち、舞台を飲み込んでも。
滝の音、金属の音、そして狂ったような鬼の高笑い──何が聞こえても。
あたしたちは決して、振り返らなかった。




