068:つるぎの舞 二
神楽というものを、あたしは何度か見たことがある。
いちばん最初は子どもの頃、地元の神社の夏祭りでのこと。
まさに今いるような半屋外の舞台で、誰かに手を引かれながら見たのだった。おじいちゃんだったか、おかーさんだったか、もしかしたらお父さんだったかもしれない。
それはお芝居仕立ての伝統芸能で、派手な衣装に鳴り物の音、そして朗々と響く神楽歌──舞手さんが付けたお面が怖くて、泣いたような覚えがある。
地元の神楽は周りにたくさんの観客がいて、その観客も屋台で買ったものを食べたり飲んだりして、それはそれは騒々しい中でやっていた。
途中で席を立ったり、また戻ってきたり、全然関係ない話をしたり。
だけど終わった時には万雷の拍手。
そういえば去年の夏祭りも見に行ったけど、ちょっと離れた植え込みのあたりで、ずっと友達と喋ってたような……そうそう、あの時は浴衣を着て行ったのだ。
「ふつうデートの時なんかに着るんだけどねぇ……」
おかーさんはぶつくさ言いながら、あっと言う間に着付けをして帯を結んでくれたっけ。
「だって別れちゃったんだもん、しょーがないじゃない」
「感じのいい子だったけどね。まーあんたがそうするって決めたんだから、しゃーないわな……さ、出来た。浴衣くらい自分で着れるようになんなさいよっ」
白地に朝顔を染め抜いた浴衣は、大昔おかーさんが娘時代に着ていたらしい。
着付けなんて出来るんだ、って驚いてたら「二階の箪笥にいーっぱいあるのよ、何年も着てないような着物がさあ。結納の時の振袖もきちんと取っといてあるんだから。ま、いずれあんたが着るだろーと思ってね」なんて言ってたっけ。
「ほれ、行っといで。変な男にナンパされないように気をつけなさいよっ」
「変な人じゃなきゃされてもいいの?」
「あほたれ、いい男は通りすがりの女子高生にコナかけたりしないもんなの!」
隣のレオニさんをちらっと横目で見る。ほんと、おかーさんの言うとおり──なんだか悲しくなってしまう。
ああ……どうしよう、こんなことになっちゃって。いい男と変な男が混ざったみたいになっちゃって。このまま元に戻らなかったら、どうしよう……
どんどんどんどん悲しくなって、顔は俯き気味に、背中は丸くなってくる。
そのまま「ぶぅえぇぇぇ」と呻きそうになって寸前で押し留め、あたしは首を横に振った。
ダメだダメだ、こんなんじゃ。
悲しいのは、つらいのは、あたしだけじゃない。もっと大きくて重い、どうしようもないものを背負ってる人が目の前にいるんだから。
……そりゃもちろん、『世界には飢えた子どもたちがたくさんいるんだから、何も食べずに我慢しましょう』なんてこと、出来っこないとわかってるけど。
せめて今は異世界の神楽をしっかり見学することにしよう。
こんな機会、二度と無いんだろうから。
──遥かなり 山のすそ野に鬼が棲む げに恐ろしき鬼が棲む──
ああ、『鬼退治』のことをやるんだ。
打ち鳴らされる太鼓、高く細く流れる笛の音、そして低く重く響く神楽歌。仮面をつけ、神剣を手に、舞手はゆっくりと舞台の中央に進み出る。まるで滑るように。
石膏で固めたような無表情な舞手の仮面、目の部分が黒くくりぬかれ、正直すごく不気味。
演じるのは退治した『先代様』なのか、それとも『鬼』なのか。白い衣に松明の赤が映えて、こういうのを何て言えばいいんだろう。
幽玄、と表せばいいのだろうか。
──清かなり 大滝のもとに鬼が棲む 若き女の鬼が棲む──
滝の音が少し遠く感じる。
響く鳴り物、神楽歌。
若き女の鬼、かあ……言われてみれば、舞手の仮面は若い女の人に見えなくもない。角度によって見え方が変わる、能のお面みたい。
上を向いたら喜びを。下を向いたら悲しみを。
──若武者まいりて討ち取りし 大滝のもとで討ち取りし──
そういえば高校の授業の一環で「芸術鑑賞」なんてのがあったっけ。
皆で能楽堂に出掛けて行って、能だか狂言だかを観たんだった。あのときの舞台は屋内だったけど、笛や太鼓の音はまさにこんな感じで………………あ、だめだ。急に眠気が来た。
鞘に収めたままの神剣を両手で捧げ持ち、『若武者』はゆったり舞う。
あたしはあくびを噛み殺す。
だめだだめだ、こんなところでうたた寝なんて。
何かもっと別のことを考えよう。もっとこう……希望に満ち溢れた未来のことを。
──あな恐ろしや 恐ろしや──
例えば、先代様にお祈りが届いて、アルゴさんが無事に戻ってくることとか。
レオニさんに刺さった楔がすっぽり抜けて、何もかも元通りになることとか。
コジマくんにパン作りを教えて、おうちで作れるようになるくらい練習することとか。
コズサ姫と仲直りして、十八歳に戻った御姿のあまりの美人ぶりにびっくり仰天することとか。
そしてあたしはお店に戻って、おかーさんにあれこれ話して聞かせるのだ……あ、だめだめ。今度は家が恋しくなってしまう。
──山深き 谷の奥底に鬼が棲む 牛馬を喰らい 赤子を攫い 男を惑わす鬼が棲む──
里心にそっと蓋をして、あたしは神楽歌に耳を傾けた。
それにしたって、すごい歌詞。牛や馬をバリバリ食べて、家々から赤ちゃんを攫って、男の人を誘惑するような、若い女の鬼。
これは確かに、祀らなければ祟るだろう。
とくにここは龍が出るような世界なんだから。
あたしはまた横目で、こんどは魔法使いの弟子を見た……やだ、ちょっと。寝てるんですけどこの子!
──叶わぬ恋に身をやつし 腕よりまなごを奪はれて ざんばら髪を振り乱し げに恐ろしき鬼となる──
ひどいもんだわよ、あたしはがんばって眠気を堪えてるってゆーのに。
だいたい気にならないのかしら、マーロウさんが若い頃どんな鬼を退治したのか。山の主とか山の鬼とか、獣だとか化生だとか、言ってたの自分じゃない。
……まあ神楽の歌を聞く限り、鬼の正体は可哀想な女の人のようだけど。腕より愛児を奪われて、なんて気も狂わんばかりの悲しみだろう。
──若武者これを討ち取りて ここに葬りたてまつる げに哀れなり 哀れなり──
鬼退治にどんな伝説があるのやらわからないけど、あたしのおじいちゃんが大昔ここで大冒険したのは間違いない。
先代様と、マーロウさんと、おじいちゃん。
悲しい鬼を退治して、一体どんなことを考えたんだろう。思ったんだろう。あたしはそれを聞くことは無かったけれど、コズサ姫はもしかしたら少しくらい、聞いたかもしれない。
あたしは舞手から目を外し、前にチョコンと座る姫様を……やだ、ちょっと。姫様、今「かくっ」てなったんですけど! うそでしょー!?
──我が身は鬼となり果てて 遠き月日を思ひけり 吾子のあしたを思ひけり──
えぇぇぇ、もー信じられない二人して……いや、そりゃー色々あって疲れてるのはわかってるし、あたし一人がたっぷりお昼寝したのは事実だけど。でもどうしたらこの空気の中で寝られるんだろう。
きっと二人の心臓にはよっぽど固くて太い毛が生えてるんだ。
そうに違いない。
──若武者これを憐みて 清め祓ひてたてまつる──
檜舞台の頭上の空に、星がいくつも瞬き始めている。
どうどうと落ちる滝はその光を跳ね返し、松明の明かりを跳ね返し、しぶきを上げて滝壺に渦を巻く。
舞手の持つ神剣も。
鞘から抜き放たれギラリと光る白刃にさっきの『剣の誓い』を思い出してしまい、あたしはレオニさんを横目で窺った。
レオニさんは身じろぎもせず、どこかを見据えている。
滝か。舞手か。松明の炎か。あるいはあの岩壁の祠だろうか。あたしもそちらに視線を向けて──目を凝らした。
──遥かなり 山のすそ野に鬼が棲む──
そして目を疑い、眉根を寄せた。
先代様の隣の、小さい祠。
格子戸の嵌った小さい祠。
……その格子戸が開いている。開いているどころか、揺れている。
それこそ風に吹かれるように、ゆらゆらと。
──若き女の鬼が棲む──
なんで開いてるの。
おかしくない?
だって普通、閉じてるもんでしょ。
そりゃ中の掃除のために入ったりすることもあるだろうけど……こんな、つるぎの舞の真っ最中に。
それにこの舞は、先代様に捧げているのに。
だってあの祠は……
──いと哀れなり 哀れなり──
……鬼を祀った祠でしょ?
その時、急に舞が激しくなった。
鳴り物が轟いて雷のよう。コズサ姫がふっと気づいたように顔を上げ、あたしの隣ではコジマくんが目をこすり「んもーすごいボリューム……」と呟いてあくびをする。
レオニさんは動かない。
あたしは只々、圧倒されていた。
ぐるぐるとめまぐるしい速さで、舞手が踊る。滑るような足さばきは音を立てて舞台を踏み鳴らす。捧げ持っていた剣でひゅん、ひゅんと風を切る。
なんて激しいの。
白刃を煌めかせて舞手が回転する。
一度、二度、三度。
近づいては遠ざかり、また近づく。
そして刃を頭上高くに振りかぶり────コズサ姫へと、振り下ろした!




