005:小麦粉ドラゴン
次の日からコジマさん──改め、新人バイトのコジマくんはうちのレジ台に立ち始めた。
「大丈夫なのかね、あの子は」
と呟き、母が厨房から売り場の方を覗いている。
「来てもらったってたいした給料払えないんだけどね。コッチの世界の現金なんて、昨日の売り上げ分しか持ってないんだから」
「薄給でいい、とか言ってたけど……給料出せないならまかないでも出すしかないんじゃない?」
「まかないったってパンだけどね……」
あたしたちの心配をよそにコジマくんは機嫌よく接客している。
その姿を確認すると、母は厨房に引っ込んでまた呟いた。
「でもまあ助かるには違いないわ。こっちは日本より忙しいから」
「ねぇ、それなんだけどさあ」
「あーん?」
「なんで昨日といい今朝といい、こんな混んでるの?」
「ああ、それはね」
ミキサーの中のパン生地を覗き込みながら、母曰く。
「立地だよ。外に出りゃわかるけど、日本で言えば駅前かデパ地下みたいなところに来ちゃったわけ」
「デパ地下?」
「目の前が市場でさ、しかも大通りに面してるんだよ。匂いにつられて行列できちゃうから忙しいんだわ」
はあーなんだかありがたいような、気が重いような。
母はミキサーを止め、よっこらせっと一抱えはあるパン生地を取り出した。ざっくり分割して丸めると、小ぶりなメロンくらいの塊が四つ。それを発酵室に入れ、もう一度店の方に視線をくれる。
「あんたさ、午後のぶん焼きあがったら行ってくれば? 外」
「えっでも店は?」
「まあーなんとかなるんじゃないの、モノさえ出来ちゃえば。私は新人の教育でもしてるからさ」
「でも……」
「いいよ、行っといで。近所の地理くらい把握しとかないと、これから困るだろうしね」
……たしかに。
異世界トリップったって、言ってみれば引越しだ。
普通なら向こう三軒両隣に挨拶したり、役所でもろもろの手続きをしたり──それは昨日母が済ませたようだけど──引越し後のやることリストに『近所を探検する』が入ってたって全然変じゃない。
「でも迷子になったりしないかな」
「ああ、なるかもね」
「なるかもね、って。地図とかないの?」
「ない」
母は身も蓋もない返事をすると、午前中に売れ残った食パンの耳を包丁で落とし始めた。
これはサンドイッチの準備だろう。
あたしは冷蔵庫からハム、トマト、マーガリンを出し、レタスの葉をちぎって水に放った。
「大丈夫じゃないの、言葉が通じるんだし。『昨日オープンしたパン屋はどこですか』って言えば、誰かしら案内してくれるでしょ」
「えー」
「不満そうだね。だったら地元民の魔法使いに迷子にならない魔法でもかけてもらえば」
「えっ、そんなんあるの?」
「知らん。いま適当に言った」
なーんだ。
地元民の魔法使いかあ……厨房から様子を伺うと、彼は今しがた来店した若い女性客相手にペラペラとバゲットの売込み中だ。
「なんといっても食感がいいんですよねえ。外はパリッと中はしっとり、皮のカリカリからは想像できないくらい内側がみずみずしいんですよー。あとはもう言うまでもないんですけど、このお味! 噛み締めるほどにお口に広がるほのかな甘みといい、ふんわり抜ける小麦の香りといい、それからぜひご自宅で色々試していただきたいんですけどね、お肉にも魚にも野菜にも果物にも合うんですよ、これ! 食事もおやつもいけるっていうのは、いうなれば才能ですよねえ」
よくもまあ、これだけ滑らかに喋れるわ……コジマくんのセールストークこそ、才能だよ。
先ほどの女性客はバゲット二本とメロンパンをお買い上げして店を出た。コジマくんがペコっと頭を下げる。とんがり帽子は、今日は被らずにレジ台の脇。ちなみに昨日忘れていった魔法の杖は傘立ての中だ。
「ありがとうございましたぁーっ!」
「ちょっとコジマ、厨房来てー」
「はぁーい店長っ」
来客が途切れたのを見計らい、母がコジマくんを呼んだ。
あたしはレタスの水を切り、耳をカットした食パンにマーガリンを塗って、具をサンドしていく。
「あんた魔法で地図とか出せる? このあたりの」
「出せません」
「なんだ。出せないのか」
「描くことはできますよ」
「それじゃ普通じゃん」
おかーさんたら、魔法見たいのかな。
サンドイッチをカットしながら笑っていると、コジマくんはちょっと困ったような顔をした。
「うーん、魔法を使わない人ってそうなんですよねえ、何でもできると思うみたいで。そりゃーたしかにちょっと見には不思議な現象でしょうけど、やっぱり一定の法則とか縛りはあってですね、今みたいな『ここに無いものを出す』っていうのは例えばお師匠様でも」
「で、地図は?」
「あっはい今描きますねー」
「紙とペンは?」
「いえ、小麦粉で充分です」
小麦粉?
あたしと母は顔を見合わせた。
コジマくんはいそいそとレジ台脇の帽子を被り、傘立ての杖を取って厨房に戻ってくる。「ちょっと作業台使いますね」と言うので、あたしはサンドイッチを売り場に運んで棚に並べた。
もうちょっとしたら昼時になり、よく売れるだろう。
「では始めます!」
母とあたしは作業台のそばにそれぞれ椅子を運び、並んで腰掛けた。
ちらっと隣の母を見ると、いつになくわくわくしている様子。魔法、やっぱり見たかったんだ。
でもまあ見たかったのはあたしも同じ。
「じゃあ描きますよー。まずは小麦粉の出番です」
そう言うとコジマくんは小麦粉の袋を傾け、作業台にサラサラ出していく。量でいうと二カップくらい。
そして杖を両手で握った。
「では初めに、このお店の近所から!」
握った杖でコジマくんは『トン』と厨房の床を突いた。
おお、と母が目を見張る。
あたしも息を呑んだ。
作業台の上では、まるで魔法のように──じゃなくて魔法なんだけど──小麦粉が動いていた。線を引き、弧を描き、模様を形作っていく。
「すごーい、コジマくん!」
「あんた本当に魔法使いだったんだ」
「ふふふ。言ったじゃないですかあ、僕これでもマーロウの唯一の弟子ですよ!」
まさに鼻高々! という様子で、魔法使いの弟子は胸を張る。
小麦粉地図の一番真ん中に、家の形の絵。これがどうやらお店のようだ。
「……考えてみれば、代々同じ場所にトリップしてるのに地図を持ってる人っていなかったんだねぇ」
母はしきりに感心しながら、小麦粉地図を覗き込んでいる。
「見てみサトコ、店のまん前が大きい通りになってるでしょ。この通りをはさんですぐ向かいが市場なんだよ。
言ってみりゃ一等地だわ。ここの市場は面白いよ、なんでも売ってるから」
店の前の通りは真っ直ぐに延び、大小の広場を結びながら、やがてかなり大きな広場へと繋がった。そこから大きな通りがいくつも放射状に延びている。
この大広場が、きっとこの町の中心だ。
「ねえコジマくん。この広場ってもしかして、あのゴージャスなお城があるところ?」
「ええ、エード城ですね」
「そうなんだぁ」
と、あたしは一旦納得して──
ん? と首を傾げた。隣の母を横目で見ると、同じように首を傾げている。
エード城ねえ。
上様とひいさまが住んでる、エード城。なんか似たような名前のお城が日本にもあった気が……
「……ねえ、いま江戸城って言った?」
するとコジマくん、あたしの方を見て「はあ?」って感じの顔をする。
「エード城、ですよ」
「上様がいるんでしょ?」
「おられますよ」
母が『ぶふっ』と笑い、コジマくんはきょとんとしてそっちを見た。
そりゃそうだ。
日本にも似たような名前のお城があって、昔は“上様”がいた──なんてこと知るわけないんだから。
それにしたって変な異世界だ。
広場と広場が通りで繋がる町のつくりなんか、完全に西洋風なのに。
あたしが感心したり首を傾げたりしていると、母がニヤニヤしながら口を挟んできた。
「ねえコジマ、あんたもっと広い地図描ける?」
「できますけど、広いってどのあたりまでですか?」
「そうだねえ……じゃあさ、海と山が入るくらいでどうよ」
コジマくんはぱちりと瞬いた。瞳の中の星もキラリと瞬く。
ふーむと顎に手を添えて、握りなおした杖で床を一突き。すると地図を描いていた小麦粉がさーっと作業台の真ん中に集まった。
磁石に吸い寄せられる砂鉄のように。
あたしと母は『おーっ』と声を上げて小さく拍手。コジマくん、嬉しそう。
「ほんとはこーゆーことはダメって言われてるんですけどねえ。お師匠様には内緒にしといてくださいよ」
「いけないって、魔法が?」
「魔法じゃなくて、地図です。別に近所の地図くらいなら全然かまわないんですけど、特に広域はダメなんですって。店長はご存知でしょうけど、ちょっと前まで戦争してたじゃないですか。あんまり詳細な地図が他国に渡ると、地形の弱点をついて攻撃されるとか、ようは国防の妨げになるってことですよね!
まあそーゆーこと言ってたのは先代の上様で、もうとっくにお亡くなりですからそんな神経質になることも」
「うん、いいからさ、早く描きなよ」
「あっはーい」
コジマくんは少しずれたとんがり帽子を直すと、また作業台に向かった。
杖を握り、目を閉じてすっと一呼吸。
そして──『トン』と一突き。
小麦粉が作業台を走る。
「……うそ」
あたしは思わず声に出していた。
さっきまでニヤニヤしていた母も、笑いが消えて唖然としている。
「ほら、これが広域地図です。
見てください、エードの海は湾になってるんですよ。湾って良いんですってねぇ魚が育つのに。それにほら、こっちの半島は山がけっこう多いんです。山の栄養が海に入るからエードの海は豊かなんですよ。魚もそうなんですけどね、貝なんかも豊富なんです。二枚貝なんかけっこう立派に育ちますよね。海辺に行くとその場で網で焼いて食べるのなんかホントもうさいこ……」
「コジマくん、もっと広いの描ける?」
「あっハイもちろん!」
コジマくんは頷いて、またトンと床を突く。小麦粉は形を崩し、また中央に集まった。
小麦粉をそこに少し足して、魔法使いの弟子は一歩下がった。
「超広域ですからね。やっぱり小麦粉もたくさんいりますし、まずこの作業台に収まるかなあ。縦に長いんですよねえ。あと海岸線なんかは僕詳しくないんでざっくりですけど、まあいっか! じゃあちょっと描いてみましょうねぇー」
コジマくん、また目を閉じた。
そして深呼吸。すーっと深く──静かに──
そして、床を突く。
一度。
二度。
三度。
「……よし、こんなもんかな!」
あたしは絶句した。
母も絶句した。
コジマくんだけが誇らしげな笑顔を浮かべている。
「どうでしょう、こんな感じで。中々良く描けたと思いますよー手前味噌ですけど。エードは大体このあたりですね。真ん中のこのあたりは山岳地帯で、僕このへんの出身なんです。お師匠様はもっと西のここらへん。行ったことないですけど、すっごく雅な都会なんですって。こんどコズサ姫がお輿入れするのもこっちです。あとここにですね、ものすごく大きな美しい山があって昔はよく火を噴いたらしいです! お年寄りの巨大な龍が住んでるそうですけど、お師匠様も会ったことないって言っ」
「おかーさん……竜、いるって」
「あほかっ。突っ込むとこそこじゃないでしょ」
母はあたしを小突くと、腕を組んで超広域小麦粉地図に目をくれた。
はあーと感心したように、あるいは呆れたように息をつき、それからぽつりと呟いた。
「まるっきり日本じゃないの……お父さんやおじいちゃんは知らなかったのかねぇ」
そう。
小麦粉が作業台に描いたのは、あたしのふるさと──日本列島だった。
なんだか笑えてくる。
けれど、あたしの口から出たのは乾いた笑いだった。
だってお城は西洋風、町並みも西洋風、魔法使いがいて、竜もいる。
なのにお城に住んでるのは上様で、町の人はご飯を炊いて食べてるし、きっと江戸ならぬエードの町では江戸前ならぬエード前の寿司だって──それはあとでコジマくんに聞くとして。
エード湾を囲む半島なんて、そのまま房総半島だ。
竜がいるという大きくて美しい山は、富士山のことに違いない。ここではどういう名前なんだろう。
「……いったい、何がどうなってんの……?」
ここは異世界なのか、日本なのか、中世なのか、江戸時代なのか。
悪い夢でも見てるみたい──だってでたらめにも程がある。
笑えるのを通り越してなんだかちょっと泣けてきてしまい、あたしは「ぐすん」と一つ鼻を鳴らした。
すると母も今度こそ深々と息をついた。
「なんだかねえ……和洋折衷されてんのかね、ここは」
「なんです? わようせっちゅうって」
「しっかりしなよサトコ、しょげてんじゃないって。
変な異世界だけどさ、異世界にトリップするってのがまず普通じゃないんだから。“普通の異世界”なんて無いんだよ。むしろ、“普通”なんてのが幻だわ。
私たちはツイてないのかもしんないけどさ、親しみやすい異世界で良かったじゃん。その点だけはツイてるよ。
ここがどういうところで日本とどういう関係があるのかなんて、たぶん知らなくても生きていける。コジマ、あんたもそう思うでしょ」
「ええ、はい!」
妙に元気良く返事をすると、コジマくんはにっこり笑った。
キラキラキラ、擬音が聞こえてきそう。
「店長の言うとおりですよ。次元の歪みだ異世界だなんだってゆーのはですね、学者さんが研究すればいいことです。美味しいパンを焼いて平和に暮らせればそれが一番!」
「そうそれ! よく言った、コジマ」
「ですから元気出してサトコさん、もしよろしければ、片付けついでに魔法をお見せしますから」
あたしは目元をティッシュでぬぐった。コジマくんが体をかがめてあたしの顔を覗き込み、
「ねっ?」
と笑いかける。
眩しい。金色の髪も、白い歯も。
なんか……なんかこのスマイル、ずるくない?
「なによう、魔法って……」
「まあ見ててください、いきますよー。立て、小麦粉!」
床を一突き、小麦粉地図は──文字通り、立った。
母が「おぉー」と歓声を上げる。あたしも思わず声が出た。
ふふんとまた得意げに笑うコジマくん、魔法の杖をサッと一振り。
「さー、お片づけしますよ。飛べ小麦粉、袋まで!」
小麦粉地図は作業台から離れ、ふわあ、と浮かび上がる。
頭をもたげて昇るその形──これは龍だ!
「やるじゃんコジマ、縁起がいいねえ。店が繁盛しそうだわ」
「でしょぉー、ここは“龍の洲”ですからね!」
頭上で廻る小麦粉龍を見て、満足そうに母は笑う。あたしは「チン!」と鼻をかみ、そちらに体を向けた。
「……ね、おかーさん」
「あーん?」
「なんか……思ったんだけどさ。異世界に来たってこと、あんまり意識しないほうがいいのかな」
「……」
「コジマくんが言うようにさ、美味しいパンを焼いて、平和に暮らしてれば……そのうち、もとの日本に戻れるんだよね」
母は横目であたしを見て、フッと笑った。そして手を伸ばし、頭をポンポンと撫でた。
小さい子にするみたいに。
コジマくんも、あのずるい笑顔でまた微笑んだ。キラリンって。そして握った樫の杖を、
ちりん
ちりん
ちりりん──
「はぁーいっ、いらっしゃいませぇーっ!!」
ぽーん、と放り投げてレジ台に直行した!
バファッ
不審な音に、あたしは恐る恐る振り返る。
そこには母の姿。
魔法が解けて、ただの粉に戻った小麦粉龍を浴びた、真っ白々な母の姿。
「……コォォォ……ジィィィ……マァァァ……」
地底から響くような声に、あたしは慄き椅子ごと後ずさる。
ひえぇぇぇ怒ってる……
めちゃめちゃ怒ってる……!
「お買い上げありがとうございましたあ、またのお越しをーっ!」
「コジマーーーーッッッ!!」
お客さんのお帰りと同時に母の怒号が響き渡り、あたしは厨房の隅に避難した。
その後のコジマくんの災難は、思い返せば胸が痛む。
彼は真っ白々な母に正座を命じられ、小一時間に渡る説教を受けた挙句──『ドジマ』という冴えない二つ名がついたのだった。