065:裏参道 三
「んもぉぉぉっ、サトコさんたらもー! ほんとにもー!」
弾かれたようにコジマくんが立ち上がった。
広げたお店を慌ててしまい、帽子をかぶり直して杖を握る。
「勢い任せにも程がありますよ! いいえわかりますけどね、理解できないわけじゃないですけどね!? でも言っていいこととダメなことが……ああーもう! と、に、か、くっ。姫様のご様子は僕が見てきます。サトコさんはそこで海より深く反省してて下さい! じっくりと! 心の赴くまま! いーですねっ」
そう叫んでぴょこぴょこと数段上がり、今度はくるっと振り向いた。
「ポッポちゃんっ」
名指しされたポッポちゃんは飼い主の方を見るでもなく、まだ地面をつついている。
「あと頼んだからねっ」
いったい、何を頼んだんだろう。
魔法使いの弟子はまた前を向き、「姫様お待ちになってー」と言いながら駆けて行った。後に残されたのはレオニさんと──自己嫌悪に顔が上げられない、あたし。
そして我関せずといったふうのポッポちゃん。
一様に黙りこくって、どのくらい、そうしていただろうか。
「レオニさん、あたし……ごめんなさい」
「謝る相手が違いますよ。サトコさん」
──顔から、ざっ、と音を立てて血の気が引いた。
「コジマさんの言うとおり、心情的には理解できますが……言い方に配慮を欠きましたね」
その声は穏やかなんだけど。
いつものような、優しい声なんだけど。
「ごめんなさい、あたし……わ、わかってます、わかってるんです、直接謝らなきゃいけないって。酷いこと言ったって」
口から弁解の言葉が流れ出る。声が掠れる。
レオニさんがどんな顔で聞いてるのか、こわくて確認できない。
「カチンときちゃったんです。姫様の声が……すごく、投げやりに聞こえて。何もかも諦めてるみたいな、感じで……」
「それを指摘して、何かいいことがありましたか?」
「ほ、本当にばかだったと思います、考えなしだったと思います、姫様はずっとずっと我慢してきたのに一瞬イラっとしたからって、あんな言い方して……無責任なこと、平気で。だから、だから……」
「だから、許して下さい、と?」
あたしは恐る恐る顔を上げた。目が合うと、レオニさんはにっこり微笑んだ。
「たとえコズサ姫がお許しにならなくても、自分はあなたを許すだろうと、そう思ってるんですね」
そんなことは──そう言おうとしたけど、あたしの口は動かなかった。
無自覚に抱いてた甘い考えを指摘され、凍りついて目を瞠るだけ。
「誰かがあなたを許せば、まだここにいることが出来る。そして自分ならあなたを許すだろうと、あなたがここにいる理由を失わずに済むだろうと……そう考えているんでしょう」
こめかみに汗の伝う感覚を覚え、あたしはごくりと息を飲んだ。
視線がキョロキョロと定まらない。
顔を上げられない。
こわい。
「その顔は、図星ですね」
あくまでにっこり微笑みながら、レオニさんはあたしを追い込んでいく。
「なぜそんなことを言うの、と言いたげな顔ですが。
先ほどコズサ姫も同じように思われたでしょうね。正しいことをぶつけるのが正しいこととは限らない……そうでしょう?」
陽がどんどん傾いていく。声も出せず、凍りついてる間に。
心臓がばくばくと、痛い。膝の上で握った手のひらが、痛い。
レオニさんは微笑むのをやめたようだった。
「しょうがない人だ」
地面をつついていたポッポちゃんがヒョイと頭を持ち上げる。
白い鳩は夕陽に翼を染め上げて、身じろぎもせずに一点を──レオニさんを見つめている。
ざわ、と風が吹く。
「本当にしょうがない人ですね、サトコさん。自分のことには言葉足らずなくせに、人のことには雄弁で」
じわり、額に汗がにじむ。
「そんな調子で生きていらしたのでしょうが……それでは、いつか大切なものを失くしかねませんよ」
「あ、あたしは……そんな」
「そんな、何です?」
そんな目で、あたしを見ないで。
「……でもね、サトコさん。自分は、わかっていますから。あなたが誰かを傷つけようとして、やっているのではないということ」
落とした後で、持ち上げないで。
責めた後で、寄り添わないで。
「コズサ姫のことだって、もしも他人事と思っているなら、もっと平気な顔をしているでしょう。
そんなふうに青ざめて震えることは無いでしょう。
事実、言いすぎではありましたが……義憤と言えるでしょう」
耳慣れぬ言葉を、レオニさんの言葉を、頭が処理できない。
あたしはさっきから固まったまま動けず、血の気が引いて寒いのを、必死で堪えるだけ。
「わかっていますよ、サトコさん。すべて優しさから出た言葉だと」
声が上手く出ない。喉の奥がヒュウと鳴る。
「幸せになってほしいのでしょう。コズサ姫に。
どのような方でも同じ、などと仰って欲しくないのでしょう。また、同じように思われて欲しくもないのでしょう。
違いますか?」
頭の中がごちゃごちゃで、どう答えればいいかわからない。
「誤解されることもあるでしょうが、自分はわかっています。いつだって……いつだって、あなたの味方だ」
わからないけど、ついに涙がこぼれて落ちた。
「いいですかサトコさん……これから近衛士の立場を離れて発言します。
今、この時だけ。あなたの前でだけ」
すっとレオニさんが立ち上がった。涙と夕日に滲んだ真っ赤な景色の中で。
そして剣を外し、足元に置いてそのまま跪く。
涙でぼろぼろの顔を上げ、あたしの視線は釘付けになった──騎士のポーズだ。どうして。
「あなたはコズサ姫の往く道を案じている。御自分の決断で往く道ではないから尚のこと」
どうして、レオニさん。
あたしはどうしようもない人間なのに。あなたが、さっきそう言ったのに。
なぜその姿勢をあたしの前で取るの。
「例え他の道があっても、そこに姫自ら足を踏み入れることは御出来にならないでしょう──背中を押してさしあげられるのは、サトコさん。あなたです」
なぜ、と問う声は風に掠れて空に溶け、あたしの耳にも届かない。
「押す押さないはあなたが決めることです。自分はあなたの選択に従いましょう。隊長が姫の選択に従うように。
世界中があなたを咎めても、自分だけはあなたのそばに」
レオニさんは跪いたまま足元の剣を取った。片手で鞘を、もう片方で柄を握り──わずかに抜く。
「この剣に誓って」
刀身が夕陽に赤く染まる。
あたしの目の前で、レオニさんはその剣を鞘に戻した。チン、とわずかな音を立てて。
レオニさん……レオニさん。
今の言葉に、どうしたら応えられるだろう。
何を返せばつりあいが取れるだろう。
あたしはそれに見合う人間じゃない。
誓いを捧げられるに足る人間じゃない。
わけもわからず涙を流しながら、あたしはせめて頷こうとして──
わずかな違和感に、動きを止めた。
レオニさんはあたしを見ている。あたしもレオニさんを見ている──なのに、なんだろう。何かがおかしい。
眉をひそめて瞬いたその時、視界の隅で白い鳩が動いた。
くるくる くるっぽー
「行きましょうか。サトコさん」
白い翼を夕陽に染めて、ポッポちゃんが飛んでいく。
その姿を見送ってレオニさんが立ち上がった。剣を腰に戻し、にっこりと微笑んで手を差し伸べる。
なんだろう……なんだっけ。
何かが気になったはずなんだけど、わからなくなってしまった。
わかるのは──あたしは自分で思ってたよりずっとデリカシーのない甘えた人間で、この先もこうやって誰かの『一番触られたくないところ』を鷲掴みにするんだろうってこと。
そして大切なものを失くすんだ。
現に、今だって。
「姫様……許してくれませんよね、きっと……」
「さあ、どうでしょう」
そしていつか、独りになってしまうんだ。
場所がどこでも。ここでも、日本でも。
「それでも、自分はあなたのそばにいますよ」
あたしは今度こそ泣きながら頷き、レオニさんの手を取った。そしてノロノロと急な階段を上り始めた。
緑の木立がつくったトンネルの中、あたしたちはついに階段を上りつめた。
汗と涙を手の甲でぬぐい、息を整えながら前方に目を転じる。
そこには夕陽に赤く染まった山門がそびえていた。
真下には座り込む人影一つ。
コジマくんに宥められていたであろうコズサ姫は、あたしにチラと目をくれながら立ち上がった。
「姫様……」
ごめんなさい、と言おうとしたんだけど。
唇が上手く動かずに、あたしは立ち尽くした。
コズサ姫も。
言いたいことがあるのに、言えない。
恐ろしく長い一瞬をあたしたちの視線は絡み合い、先に逸らしたのはコズサ姫だった。
「……」
そして無言のまま身を翻した。山門の内側に居並ぶ神職さんたちが、一斉に頭を下げる。
やっぱり、許してなんてもらえない。ごめんなさいを聞いてもらうこともできない。
そりゃそうだ、当たり前だ、さっき言われた通りだった。
大切なものを失くしますよって。
あなたはどうしようもない人だからって──
「だいじょうぶですよ」
優しげな声に、恐る恐る視線を上げる。
「自分がついています」
もう、なにも考えられない。
動くこともできない。
全ての人があたしを非難し、あとには誰も残らない──この人以外は。
頷くのが、やっとだった。
立っているのが、やっとだった。
レオニさんは「大丈夫だから、ね?」と囁いて、コズサ姫の後に続いた。
だから──あたしは気づかなかった。
あたしの隣を通り過ぎたレオニさんの唇が、笑みの形に歪んだこと。
それをコジマくんがじーっと見ていたこと。
ちっとも、気づかなかったのだ。