056:サトコの天秤
ねぇ姫様……どうしてわかったんですか、アルゴさんが出て行くって。
虫の知らせじゃ。
虫の……
目が覚めて外を覗いたら、あやつが馬に乗っておった。旅の出で立ちじゃ。ただの気晴らしの遠乗りではないと一目見てわかった。サトコどのの餞別を受け取ったのが、何よりの証であろう。
「ぶぇへぇぇぇ」
と盛大に息をつき、あたしは自室の寝台に突っ伏した。
「つ、疲れた……」
うつぶせで倒れたまま足をもそもそ動かして靴を脱ぐ。
足指を伸ばしたり縮めたりして解放感を味わっていると、じわじわと眠気がやってきた。
腕時計を見ると、朝の七時をとうに回っている。今頃エードの城下町では、おかーさんがお店を開けている頃だろう。
……あ、そういえばコック服のままだ。脱がなきゃいけないんだけど……無理、とてもじゃないけど無理。動けない。
「もうだめだあ……」
ああ、とあたしはもう一度嘆息した。
いまだかつて、こんなに盛り沢山な朝があっただろうか。
二時半起きで働きだしたと思いきや、レオニさんが襲ってくるわアルゴさんが出て行くわ、コズサ姫はこの世の終わりみたいな顔で泣いてるし、それを宥めてお部屋に連れてって慰めてまた寝かしつけるまで……ああもう、どんなに大変だったことか!
もう無理。
動きたくない。
このまま泥のように眠りたい。
「わらわを置いて行った。あやつ、わらわを置いて行きおった」
コズサ姫はそう言って泣いた。そりゃもうボロボロと泣いた。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ、すぐ戻ってきますから」
「いいや戻らぬ、戻るくらいならば離れようか! 二度とわらわに見えぬと心に決めてこそ、不義理をしでかしたのじゃ。そうに違いあるまいッ」
「そんなことないですってば! 言ってましたもん、戻ったらどんなお叱りでも受けますから、って」
「嘘じゃ。嘘。嘘であろう!?」
「あたしが姫様に嘘つくわけないじゃないですかぁぁ」
虫の知らせがどうの、なんて話ができるようになったのは本当についさっき。
身も世もなく取り乱すのを宥めながら「アルゴさん頼むから戻ってきてぇ」と心底思ったのは言うまでもない。
いつでも一緒。
どこでも一緒。
きっと二人、離れるのはこれが十年のうちで初めてなのだ──根拠なんかないけれど、そんな気がする。
あの連続往復ビンタすごかった。アルゴさんのほっぺ、今頃パンパンに腫れてたりして……
「ふへっ」
と笑いかけて、あたしは慌てて顔を引き締めた。
ほっぺ両方腫らしてるアルゴさんなんて絵的には面白いかもしれないけれど、生で見ちゃったあの別離のシーンを思うと……とてもじゃないけど、ねぇ。
だってほら、ぶたれたほっぺよりも心の方が痛いハズで。
いつでも一緒。
どこでも一緒。
二人は仲良し、だったのに……
「あんなに仲良かったのに。別れたの!?」
仲が良くたって、別れは来るのだ。互いの意向にかかわらず。
こればっかりは仕方がない。
「なんで? そりゃー山野は来年受験だけどさ」
「だって山野くん、きっと東京の大学行くもん。こないだの模試の判定良かったみたいだし……あたしにはお店があるし」
誰だったかなあ──山野くんと別れたとき、ずいぶんびっくりされたっけ。
あれはそう、もうすぐ高三に上がろうかという頃だった。
「遠距離で付き合えばいいじゃん。ダメなの?」
「えー、だってお店は土日もやってるし、休みは全然合わないし……無理だよ、ぜったい長続きしないもん」
「そんな理由!?」
進路が全然違うから、と言って別れを切り出したのは確かにあたし。
高二が終わる春休みの直前に別れ話をして、休暇を挟んで学年が上がった時には「友達の関係」に戻っていた。
……戻った、って言えるのかな。
別れてからマトモに話なんかしなかったし、お互い顔を見るのも避けてたから……だけど基本的に、山野くんのことを嫌いになったわけじゃなかったのだ。
むしろ好きだった。
好きだったけど──
でもほら、あたしも色々考えたのよ。
色んなことを天秤にかけて。
お店のこと、将来のこと、二人の関係のこと、進路のこと、それでえーっと、えーっと……そう、結論を出したのだ。
「サトコ、あんた卒業したらどうすんのよ」
「お店で働くつもりだけど」
「ふーん」
あたしはパン屋をやって生きていこう。
小さいころからそうするんだと思って生きてきたし、お店そのものが好きだし、おじいちゃん、お父さん、おかーさんが細々と続けてきたこの生業をあたしの代で終わらせたくない。
だから一緒に生きていくんなら、あたしがパン屋では困るような人じゃあ、いけないのだ。
──そんなふうに考えた。
「あの子のことはどーすんのよ」
「……別れちゃった」
するとおかーさんはちょっとだけ意外そうな顔をして──
「あんたの人生なんだから、好きにしな」
そう言って、あたしの頭をポンポンした。
パン屋をする人生。
山野くんを追いかけて東京に行く人生。
天秤にかけて、あたしはパン屋を選んだのだ。
そうと決めた以上それに付き合わせるわけにいかないし──
いやそりゃあね、冬休みのあの日からなんとなーく気まずくて、本音の部分では「このまま付き合ってたら絶対チューとかしちゃう。チューどころか、きっともっと凄いことしちゃう。結婚できないってわかってるのに無理だよ無理無理そんなこと、遠距離だって絶対耐えられないし、だったらなるべく早く別れたほうがお互い傷が浅くて済む、そうだそうだ、そうに違いない」という、聞く人が聞いたら怒られそうな考えがあったことも……否定しない。
というかできない。
結局、住む世界が違うから。
ま、今は文字通り異世界と日本に別れてしまったんだけど……
でも日本に戻ってもう一度山野くんに会うことがあっても、「住む世界が違う」ことに変わりはないだろう。
一緒に生きていくことが叶わない相手。場所がどこでも、時代がどんなでも、そーゆー相手っているんだと思う。
例え、お互い好き同士だったとしても。
「嫌いになったって言われた方が、まだマシだ」
あの時の山野くんの声を、あたしはきっと忘れないだろう。
「嫌いじゃないのに別れようなんて、納得できない」
ごめんね山野くん。
でも、これ以上は続けられないよ。終わりが見えてるんだもん。
だから……別れよう。ごめんね。
これがあたしの、正直な気持ち。
「だってそうでしょう……心を取り繕って生きていくなんて」
お店に就職して生きていきたい。
山野くんのことは嫌いじゃない。
両立はできなかった。だから片方を選んで、もう片方は仕舞いこんだのだ。心の奥底に。
これってつまり……片方を取り繕ったってことなのかな。
「心のままに、生きてこそですよ……サトコさん」
それとも……両方とも惰性だったのかな。
惰性で「なんとなく」そう思ってたのかな。
パン屋になろうって気持ちも。
山野くんのこと好きだって気持ちも。
──あ、良くない。良くない、この考え。
ここを突き詰めると自分の根幹が揺らいでしまう。
「ねぇ、サトコさん」
だけど、きちんと考えなきゃ。
あたしはいつか選ばなくちゃいけない。
天秤に掛けなくちゃいけない。
捨てがたいもの、離れがたい人、誰かの心、自分の心、何を選び、どうやって生きていくか──
でも。
ああ、でも……
「ねぇったら、サトコさん」
……えーっと正直ですね、頭がぼーっとして考えられないんです。泣いて腫れたまぶたが恐ろしく重くって、ちっとも開かない。応えたいのは山々なんだけど、ものすごーく眠くって……
「サトコさーん」
ああ……呼んでる、あたしの名前。
目の前にいないのに、まるでそこにいるみたいに。
頭上からふわりと声が落ちてくる。だけどあたしの体はまるで泥のよう、頭の中は鉛のよう……眠い、ああ眠い……寝かせてください……
「ねぇってばーもー。サートーコーさ」
「呼ばないで……呼ばないで、レオニさん……」
「なに寝ぼけてんの、僕ですよっ!」
──げっ。
あたしは跳ねるように身体を起こし、引きつりながら恐る恐る振り向いた。
紫色のカタマリが腰に手を当ててあたしを見下ろしている。逆光が影を作り、その表情はよく見えない。
「コ、コジマくん……」
その名を呟くと、彼はとんがり帽子を乗せた頭を左右に振った。
そしてやれやれと言わんばかりに盛大な溜息をついたのだった。




