055:暇乞い 三
しばしの沈黙ののち、アルゴさんは口を開いた。
「……急な話で済まなかった」
抑揚を押さえた、いつも通りの声。エードの近衛隊長の声。
聞こえないふりでふらふら立ち上がる。ミトンを嵌めて石窯の扉を開けると、熱気が立ち昇って肌を灼いた。
ピタパン出さなきゃ……これ以上焼いたら、固くなっちゃう。
「留守中のこと、くれぐれも宜しく頼む」
さっきより重く感じるパンピールを石窯に差し入れ、焼き上がった中身を取り出して網に乗せる。
丸く膨らんだ表面の粗熱が取れるまで、しばらくこのまま。
「ファタルは先代様ゆかりの地。私がいなくとも、必ずやその御霊がひいさまをお守りくださるだろう……加えて、龍神の御加護もあろうからな」
あたしは聞こえないふりを続けたまま、また丸椅子に腰かけた。
返事をするべきなんだろう。
だけど声を出そうとしたら──きっとあたしは、泣いてしまう。
本当は、言いたいことが山ほどあるのに。
どう言葉にすればいいか、わからなくて。
「連れてってあげるわけに、いきませんか……?」
言えたのは、やっとそれだけ。
「……連れてってあげてよ……」
胸の内側が寒い。手の先が、足の先が、しびれるほどに冷たい。
蚊の鳴くような声が厨房の空気を静かに乱す。小さく、細く、震える声。
今にも泣き出しそうな、あたしの声。
「あたし、黙ってますから。誰にも言いませんから。連れてってあげて……どこか、遠くへ……」
無理だってことは、もちろんわかってる。わかってるけれど。
エードじゃなくても西の都じゃなくても、もうどこだっていいから。
誰にも見つからない、どこか遠くへ。
言い終える頃にはすっかり涙声になってしまい、あたしはみっともない顔を隠すように視線を逸らした。
「お連れしたところでどうなる」
なんて静かな声なんだろう。
さっき垣間見せた激情が、まるで嘘のように。
「誰も許さぬ泥の舟だ。そのようなものにお乗せして、沈むわけにはいかぬ」
「……でも」
アルゴさんは真っ直ぐ、あたしを見た。そして首を横に振った。
「それ以上、何も申すな」
そう言って席を立ち、厨房を出て行った。
あたしは無力だ──できることなんて、何もない。
馬の嘶きが聞こえる。
あたしは強張って動かない指を伸ばして、ピタパンの表面に触れた。
ああ、粗熱はもう取れてる。次の作業……始めなきゃ。
包丁で半分に割ると、中からしっとり熱い湯気が上がった。包丁を菜箸に持ち替えて、中におかずを挟むのに──箸の先が震えて、上手くできない。
きっと今頃、出発に備えて準備をしてるんだろうな……
あたしは菜箸を握ったまま、手の甲で目元を擦った。さっきレオニさんが指先で拭ってくれたことなんかがふっとよぎって──ああだめだ。結局泣いてる。
別に泣きたいわけじゃ、全然ないのに。
だいたい自分のことでも何でもないのに。
胸の辺りが痛い。
ギュッと絞られたように。
ほんの数日前に会ったばかりの異世界のお姫様。
可愛くて。
気さくで。
誇り高くて。
あたしと同い年の──
「サトコどの」
かけられた声にびくっとし、あたしは勝手口の方を振り返った。
──アルゴさんが其処にいた。
旅の装束だ。
行きと同じくたびれたマント。違うのは腰に佩いた一振りの太刀。
あたしもよく知っている、飄々とした立ち姿。
「僅かの一時だ。役目を果たし次第、すぐに戻る」
その姿から視線を外し、菜箸を持ち上げてピタパンにおかずを挟む。
一つ、二つ、三つ──五つ包んだところで、バットの上のキャベツも煮返したお肉もちょうど無くなった。また何か作らなきゃ、挟むもの……あとでコジマくんに相談しないと。
「暇乞いも無く守役の任を離れること、非礼は重々承知の上。ひいさまにおかれてはお怒りになられようが、致し方なきこと」
あたしは菜箸を置き、もう一度手の甲で頬のあたりを拭った。
「帰参ののち、如何様なお叱りでも受け申そう──そのようにお伝え願えるか」
「そんな……」
「宜しく頼む」
「そんなの……そんなの、自分で言って下さいよ!!」
思いがけず大きな声が出て──自分の声に驚いて、あたしは視線を彷徨わせた。
やだ、こんな。
キレたって仕方ないのに。
なのに言葉は奔流となって、塞き止めようとしたあたしの唇をかいくぐり、溢れていく。
「昨日の今日で、あんなに喜んだあとで……目が覚めたらアルゴさんがいないって。
退位の話も嘘っぱちで、結局お嫁に行かなきゃいけなくて、そのためにアルゴさんが一人で悪いやつのところに乗り込むって。
姫様、怒るに決まってるじゃないですか。泣くに決まってるじゃないですか。
わかってるんなら……わかってるんなら、自分で言って下さいよ」
「……」
「そんなサラッとした顔してるけど本当は違うんでしょ? そうじゃないんでしょ?
取り繕わないでよ。本音を聞かせてよ。
さっきのあの姿は何だったの。あたしの前で見せたあの姿は何だったのよ!
本当に言いたいこと、どうして言わないの!?」
──ばかじゃないの、あたし。
迸った言葉を、あたしはすぐに後悔した。
あたしはばかだ。
だからほら──アルゴさんは何も言わない。
数秒佇んだ後、アルゴさんは勝手口の手前で踵を返した。
そのまま厩舎の方へと向かったのだろう。鞍を取り付けているのか、馬がぶひぶひ騒いでいる。
やがて、ざ、ざ、と足音が聞こえ──城の裏を横切り、角をまわって遠ざかって行った。
ああ、本当に。
本当に行っちゃうんだ。
「……待って!」
あたしはごしごし目元を拭い、出来上がったピタパンを五つ全部、大急ぎで布にくるんだ。それを胸に抱え、コック服を脱ぐのもそこそこに立ち上がり走り出す。
勝手口からじゃ間に合わない。
表の道から行くんだから、城の中を通った方が早い。
薄暗い廊下を駆け抜け、暖炉のある広間を横切り、エントランスへ。明かりが無くても走れるのは夜明けが近いからだろう。
そして重い木の扉を体全体で押し開け、あたしは叫んだ。
「アルゴさん! これ、持ってって!!」
既に馬上に跨っていたアルゴさんが、あたしの声に振り返る。
「途中で食べて。五個、入ってますから」
「……かたじけない」
少し多いな、と付け加える。
どうせ三口くらいで一つ食べちゃうくせに。
運動不足のあたしは肩で息をしながら、ピタパンの包みを鞍に括りつけるアルゴさんに言い募った。
「ねぇアルゴさん、せめて……姫様の寝顔くらい、見てくわけに……いきませんか」
「……」
「しばらく会えないんだし……せめて、それくらい。寝顔を見てったって聞けば、姫様も……ちょっとは、わかってくれるかも」
「……」
「どう、でしょうか」
じっと聞いていたアルゴさんは、ふっと顔を上げた。
少しずつ白んできた空を切り取る、狩りの城のシルエット。
その視線の先にはコズサ姫の居室の窓。
「御顔を拝しては……行けなくなる」
ぽつりと呟いて。
「物音で御目覚めになっても宜しくなかろう。サトコどの」
「…………はい」
「我が姫への御心遣い、重ね重ね痛み入る。そなたのような御友人を持って、ひいさまは……」
言葉を途中で切り、アルゴさんはあたしへと──あたしを通り越した向こうへと、焦点を合わせた。
あたしもつられて振り返る。
音が聞こえる。ぱたぱた──ばたばた。
廊下を横切り、転げるように階段を下り、息を切らせて。
子どもが駆けてくる、足音。
「アルゴ!!」
その声よりも一瞬早く、アルゴさんは鞍から下りた。
下りて跪き、頭を垂れる。
「何処へ!」
どん、とあたしにぶつかって小さな体が走り出る。
息を切らせながらコズサ姫は、跪くその人を睨みつけた。
つややかな髪も寝巻の裾も乱したまま。
「何処へ行くのじゃ、アルゴよ」
「……申せませぬ」
「わらわも連れて行きやッ」
「……なりませぬ」
ぎり、と──奥歯を噛みしめる、音がした。
「おぬしの考えなど、お見通しじゃ」
あたしはただ呆然と、見つめるしかできない。
いつ気づいたの……姫様。
今、出て行くって……何故わかったの。
「鳩が戻った時から、そうすると思うておったわ。御宣下の報を受け、そうせぬはずが無いと思うたわ。
エードへ戻るのじゃろう。戻って父上様やおじじと秘密の話し合いをするのじゃろう。わらわのことを、わらわを抜きで、内緒でこそこそと決めるつもりであろう。わらわの身柄をどうするか、どこへやるかの相談であろう、違うかッ」
「……ひいさまの御為に御座います」
「黙れッ」
「ひいさま」
「黙れ、黙れ、黙れーッ!!」
叫び、コズサ姫は小さな手を振り上げた。
そしてアルゴさんの横っ面を張り飛ばした。
「おぬしの主は誰じゃ、申してみよ!!」
何度も。往復で。
「おぬしの務目は何じゃ、申してみよ!!」
アルゴさんはじっと黙ってる。動かない。コズサ姫の怒りの往復ビンタを、ただ受け止めている。
「おぬしの居るべきところは……!」
もう一度高く上げた掌は──
「わらわの傍であろうにっ……」
──張りつめた糸がプツンと切れたように──
コズサ姫はもう、アルゴさんを叩かなかった。
ただその首っ玉に両腕を回して、押し殺した声で泣いた。
アルゴさんは跪いた姿勢のまま、頭を垂れたまま──あたしは祈るような気持ちで、何の役にも立たずに、ただ見つめていた。
「我が生涯において……主はただ御一人。ひいさま御一人に御座います」
聞こえた声は、苦渋に満ちていて。
「ひいさまのお幸せを願うのが、アルゴの務目に御座います」
だったらお願い。
一度でいいから。
抱きしめてあげてよ、アルゴさん……
空の片方は白く、もう片方はいまだ星が瞬いている。
今日でもなく明日でもない空の下で、アルゴさんはちらりとあたしに目配せした。
あたしは一瞬迷った。迷ったけど──結局ふらふらとコズサ姫に近づいて、その小さな肩を抱くしか出来なかった。
姫様は泣いている。いやいやをするように首を横に振り、細い腕に力を込めた。
だけどアルゴさんは、そこからするりと抜け出した。
振りほどくでもなく、掴んでどけるでもなく、風がそよいで髪が揺れるような、わずかな動きで。
「サトコどの、ひいさまを頼み参らせるぞ!」
そして鐙に足を掛け、馬上の人となるや馬の尻に鞭をくれた。
「御免ッ」
馬は嘶き、走り出す。
土埃に目を瞑る。
まぶたを開けたとき、その姿はもうだいぶ彼方に遠ざかっていた。




