054:暇乞い 二
聞こえた言葉に耳を疑い、あたしは顔を上げた。
行かない、って聞こえた気がするんですけど。
いやぁ──いやいやいや。
なにを言ってるんだろうか、この人は。
「ひいさまをお連れし四人で参られよ。近衛隊長が詣でぬ非礼、代わって神職方に詫びてはくれぬか」
あたしは飲みかけたお茶を作業台に戻し、訝しげな顔でアルゴさんの方を見た。
「……なんで?」
アルゴさんは受け取った時と同じ姿勢で湯呑を手にしたまま、どこかを見つめている。
あたしでもなく。湯呑でもなく。
蝋燭が作った影が揺れる、その影の向こうを見つめている。
「なんで、どうしたんですか急に行かないなんて。えっじゃあ……お城に残ってお留守番?」
「違う」
「だったら、なんでまた」
アルゴさんは壁に映る影の、その闇の奥を見つめていた。
何か考えてる。
何か言おうとしてる。
やがてアルゴさんは暗闇から視線を外し、目を伏せた。それからお茶を飲み──意を決したように、顔を上げた。
「私はエードに戻る」
その瞳の昏さに、あたしは息を詰まらせた。
沈黙した。
そしてもう一度、耳を疑った。
この人──今、なんて言ったの。
「……………………エードに戻る?」
「典医どのが戻られたそうだ。昨日、鳩からの報告があった」
「ポッポちゃんの?」
「然様。話さねばなるまい──鴉のこと、御宣下のこと」
「でも……でも、それって!」
ガタンと音を立て、あたしは腰を浮かせた。
「手紙でのやりとりとかじゃダメなんですか? ポッポちゃんに届けてもらうとかして」
「行き来の時間が惜しい。これから出立して単騎で駆ければ、明日になる前に城に入れる。お輿入れまで日が無いのだ」
「日が無い、って……」
すぅっ、と胸のあたりが冷えて行く。あたしの唇は小さく震え、声は上ずってひっくり返った。
「行かなくていいんじゃないんですか? だって西の大王は退位するんでしょ!?」
立ち上がって動揺するあたしに対し、アルゴさんは微動だにしない。
ただ、わずかに沈黙し──目だけを動かしてあたしを見た。
「あの御宣下、真実ではあるまい」
すとん、と……あたしは丸椅子にまた腰を下ろした。
真実ではない。
あの御宣下は真実ではない。
「……なにそれ」
アルゴさんは目を伏せる。思案するように。あたしの視線を避けるように。
「ひどい。なんですか……真実じゃないって」
あたしはぐっと拳を握りしめた。頬から、唇から、指先から、血の気が引いていく。
「だってポッポちゃんは嘘つかないって。コジマくん言ってたのに」
「鳩は偽の情報を掴まされたのであろう」
「偽のって……」
「西の大王はひいさまよりも歳下だ。病を得たのでもなければ、怪我を負ったわけでもない。婚儀を控えながら若くして退位する理由が見つからぬ」
「でも、でも……じゃあ姫様は? あんなに喜んでたのに……何処へも行かぬって泣いてたのに。笑ってたのに」
「行かねばならぬのだ。ひいさまは」
「なんで!!」
あたしは両の拳で、作業台を叩いた。
一度、二度、三度。
「なんで! どうして! あんまりじゃないですか!!」
わかってる。わかってる。
言ったってしょうがない。
怒ったってしょうがない。
この人を詰ったって、仕方がない。
あたしがそれを言ったって──どうにもならない。
「姫様の気持ちはどうなるんですか。行かねばならぬ、ってどうして言えるんですか。
ずっと一緒にいたんでしょ? ずっと近くで見てたんでしょ? だったら、わかっているくせに。姫様の気持ち、本当は一番わかっているくせに。
行かなきゃいけないなんて。
よそにお嫁に行けなんて。
……どうして、どうして、どうしてアルゴさん、そんなに冷たいことが言えるの!?」
「言わねばならぬからだ!!」
ダン!!
と大きな音がして、あたしはびくっと震え──アルゴさんが作業台を叩いたのだと悟り、その場に凍りついた。
アルゴさんの眼はぎらぎらと鈍く光っている。刃物のように、どこかを睨みつけている。
それを見て──
唐突にあたしは理解した。
あたしは今、この人の触れられたくないところに直に触れようとしているのだ。
「ひいさまは……エードの姫でいらっしゃる」
作業台を叩いた拳をぎこちなく解き、アルゴさんは「すまない」と呟いた。
その手で目元を覆い──項垂れる。
俯いて。
絞り出すような声で。
もう片方の拳を、きつく握りしめて。
「西の大王とご一緒になり、天下泰平の礎を築く……そのためにこれまで、お守り申し上げてきた」
「……」
「今は幼き姿なれど、あの通り美しく聡明で……なにより朗らかでいらっしゃる」
「……」
「必ずや大王の覚えも目出度く……お幸せに……なられよう」
あたしの目は、磁石に吸いつけられたように動かない。
アルゴさんの姿から動かない。
頑丈だと信じていたダムの壁に穿たれた、見えないほどの小さな亀裂。そこから少しずつ、少しずつ、水が漏れるのを、為すすべなく見つめるだけ。
「黒幕の狙いを何と考える、サトコどの」
地を這うような声が漏れる。食いしばった歯の隙間から。
「御子が出来ては困るのだと、鴉は言っていた。そのためにひいさまの御身を傷つけ、御子の出来ぬ体にすると。
それが成せぬようならば、ひいさまが……大王の褥に上がれぬよう、辱めることも致そうと。
そして此度の御宣下だ。すべて──すべて、ひいさまがお輿入れをお嫌になるよう、揺さぶりをかけんがためのこと」
どうして、と合いの手を入れるべきなんだろう。
だけど凍りついたまま、あたしの口は動かない。
「お輿入れを、ひいては西の大王を……お嫌になるように。さすれば夫婦の仲は冷えよう。御子は出来るまい」
あたしを置き去りにしたまま独白は続く。
本当に言いたいことを飲み込み、押し流すように。
「御子がお生まれになっては困るのだろう。御子とはすなわち、御世継だ。西の大王の御世継ができては困る人間が、どこかにいるということだ。他国の王なれば、ひいさまの御命そのものを狙うはず……これまでがそうであった。
御世継ができて困るのは、西の大王に近しいもの。その座を欲っする者──そう考えれば、おのずと絞られよう」
「……」
「あるいは、鴉はこうも言っていた。エードの姫が后に就こうとも、御世継がエードの子であってはまかりならん、と。
世継の正統なることに固執する者は誰であるか──これもやはり、西の大王に近しいものであろう。しかして、魔法を頼みと致すもの」
アルゴさんは目元を覆っていた手を外した。
その瞳が、昏く光る。
強い、強い、視線があたしの体を射抜く。
「私は西に赴き、其奴を探し出し──この手で、討つ」
頭の中が混乱して、何も考えられない。
アルゴさんがここを出て行く。
姫様を残して。
悪いやつを斬りに。
姫様のために。
姫様の──幸せのために。




