053:暇乞い 一
厨房の入口は、ぽっかり空いた真っ暗な闇の中。
あたしはぼんやりとその闇の向こうを見つめていた。
陽はまだ、昇らない。
「赦してやってはくれぬか、サトコどの」
あたしは口を半分開け、返事に詰まって固まっていた。
するとアルゴさんがわずかに首を傾げた。蝋燭の明かりが揺れて、壁に映った影も揺れる。
「……やはり赦せぬか」
「いや……いやいや別に、赦さないとか赦せないとかじゃなくって、えーと……」
アルゴさんは片眉をわずかに動かし、目だけであたしに続きを促す。
「えーっと……優しい上司だなー、と思って」
アルゴさんがレオニさんを庇っている。赦してくれ、と下手に出ている。
あたしにとっては、それは少しばかり意外なことだった──だってほら、もうちょっとシビアな人だと思ってたから。隊内の規律を何よりも重んじる、じゃないけれど。
「どうであろうな。これがエードの城内であれば、その場で首を刎ねているところだ」
「え」
「だが、それはサトコどのの望むところではあるまい」
普段の口数だって決して多くはないし、表情だってあんまり変わらない。声のトーンだって、いっつも同じだし。
「そなたが嘆くような行いは、ひいさまも御咎めになろう。なればこそ……赦してやってはくれぬか」
そりゃ時々は笑ったりもするけれど──まあ大抵それは、コズサ姫のことだけど。
「それに私とて、己の部下を手にかけたくはない」
だからこの人が姫様以外のことで人情家の側面を発揮するというのは、とっても意外に思えたのだ。
あたしは小さく頷こうと目を伏せた。すると出しっぱなしのピタパンの生地が視界の隅に映る。
ああいけない、乾いちゃう。
こわばっていた腕を伸ばして、あたしはノロノロ成形を始めた。
だけど色々ショックを受けたせいか、指があまり動かない。
いつもなら三つは出来上がるくらいの時間をかけて、ようやく一つ……するとアルゴさんが生地に手を伸ばし、思いもよらぬことを言った。
「私も手伝おう」
「えっ……ええぇぇ、いいですよう、あたしの仕事なんですから」
「遠慮はいらぬ。先ほどの騒ぎで疲れてもいるだろう。座っていればよい」
「いやいや! しますよ、遠慮」
アルゴさんは丸めた生地を一つ取り、あたしの手元を観察しながら成形に取り掛かる。
な、なんかそんなにジックリ見られると緊張しちゃうんですけど……
「パン屋の仕事は、いつから始めたのだ」
「ちゃんと就職したのはついこないだですけど……お店の手伝いなら、小学校くらいから」
「しょうがっこう?」
「あ……えーっと、今の姫様くらいの頃からです」
「然様か」
平たく、丸く。
掌を使って少しずつ形を作っていく。
出来上がったら、また布巾をかけて。
「では、およそ十年か」
そう呟いて、アルゴさんはかすかに微笑んだ。
……こんな風に笑うっていうのはきっと、思い出しているのだろう。コズサ姫にお仕えし始めた十年前を。
「ではその頃から、こうして作業を?」
「ええまぁ……簡単なことばっかりですけどね」
「ひいさまがこれを御覧になれば、お怒りになるであろうな。『わらわを差し置いてけしからん』と仰せになろう」
あーうん、言いそう。
眉を吊り上げ、唇を尖らせ、ほっぺをぷーっと膨らませて。その姿を思い浮かべ、あたしも少し気持ちが和んだ。
「ひいさまはパンがどのように作られるのか御存知ないのだ。いつか見せて差し上げてくれぬか」
「言いそうですよね、『わらわもやる!』って」
「もしも差支えなければ」
「ええ、いいですよ。やらせてあげる分には、あたしは全然」
するとアルゴさん「かたじけない」だって。
この人と差向かいでパンを作る日が来るとは思わなかった。初めて会った時なんて剣を向けられたのに。
最初の頃なんかとてもじゃないけど間がもたなくて、気まずくってしょうがなかったのに。
「でもけっこう大変ですよ。成形はともかく、捏ねるのなんか力仕事だし」
「かまわぬ。食事とは黙っていても出てくるものではないと、御自分の手を動かして知るのも良いことであろうからな」
そしてアルゴさんはこう続けた。
「作物を育て、その命を頂き、作るものの心を頂く。知る機会がなければ知り得ぬことだ」
……その通りかも。
食育じゃないけれど、まさに同じようなことをおじいちゃんが言ってたっけ。
「それに『ありがてぇありがてぇ』って食べた方が美味ぇに決まってらあな」って。
「もちろん、ひいさまはわかっておられる。しかしながら一国の姫であるがゆえ、間近でご覧になったことは無い。労働というものにも馴染みがない。これが良い機会となろう。
御自分と同い年のサトコどのが、額に汗して働く姿を見るのも……また良いことだ」
あたしはふっと顔を上げた。
言い終えたアルゴさんもちらりと目だけを動かして、あたしを見た。
「……如何した?」
なんでもないです、とあたしは首を横に振った。
この人が何故あたしを連れてきたのか、本当の理由を聞いたような気がして。
きっと見せたかったのだ。
城の外。城以外の人々。普通の人々の暮らし、日々の生業。そういうの。
それから普通の十八歳の、あたし。
そのあたしが普通なりにアレコレ考えたり働いたりして、毎日生きてるってこと……まーね、さんざん怖い目に遭わされてるから、すぐにこの人の株が上がったりはしませんけれども!
……いやでも、何度も窮地を救われてるのも確かなわけですけれども……
「このようなもので宜しいか」
とアルゴさんは成形した生地をあたしに見せる。あ、どうもスイマセンと受け取って──あたしは思わず吹き出しそうになった。
だって渡された生地のいびつなことったら!
丸く平たく整えるのに、端と真ん中の厚みも全然違うし、隠れた性格が出ちゃってますよアルゴさん。コジマくんなら「隊長さんって案外雑ですね!」とか言っちゃうところだ。
「ねえ、アルゴさん」
いびつなピタパンのおかげで、なんとなく元気が戻ってきた。
このまま焼いちゃおう。
上手く膨らまなくてもいいじゃない。「これアルゴさんが成形したんですよ」って言ったら、コズサ姫はきっと笑うだろうな。「ヘタクソじゃのう」とか言いながら、きっとすごく嬉しそうな顔をするに違いない。
うん、有りだ。大いに有り。
「今日、行くんですよね。霊廟まで」
あたしは石窯の扉を開けた。
薪は丁度いい感じに燃え、中はすっかり熱くなっている。灰をどかして、あたしはパンピールに生地を乗せた。薄くて小さいから二十分もしないうちに焼き上がるだろう。
「見えるんですってね、滝……霊廟の奥の間から。今作ってるの、お弁当に持って行きましょーよ」
ピタパンの丸い生地が十個。焼いて膨らんだところを二等分するから、全部で二十個出来上がる。
これだけあればバッチリ、霊廟の神職さんたちにお配りしても少し余裕があるかもしれない。
あたしはパンピールの先を石窯に差し込み、間隔を取りながら生地を窯の中に並べていく。
「きっと今まで無かったんですよね、こーゆーこと。みんなで遊びに行って外でお昼を食べるのって。喜びますよ、姫様」
並べ終えて石窯を閉じ、あたしは焜炉の上のヤカンを取った。
お茶淹れよう。喉、乾いちゃった。
さっきさんざん泣いたから。
「自転車で行くんだーなんて言ってましたけど、昨日湖に落ちたのがトラウマになってたりしないかしら」
焼けるまで一服しよう。手伝ってくれたアルゴさんも一緒に。
急須に茶葉を入れてお湯を注ぎ、ゆっくり揺らす。
ああ……一人じゃなくて、良かったかも。レオニさんがあんなんなってショックだったけど、なんだかちゃんと赦せそうな気がしてきた。
まあ悪いのは鴉というか黒幕だから、赦すも何も、なんだけど。
「ほんとあの時、何事も無くて良かったです。まさか龍に助けられるとは思わなかったけど、きっと日ごろの行いが良かったんですよね」
だいじょうぶ。
刺さった楔はコジマくんが抜いてくれる。そしたらきっと元通り。
昨日までと同じ。
ちゃんと話せる。向かい合って笑える。
だいじょうぶ。
気まずくない、気まずくない。
未来への希望が少し見えてきたように思えて、あたしはホッとした気分でお茶を淹れた。
湯呑を差し出すとアルゴさんは「かたじけない」と受け取って──すぐには口をつけず、真っ直ぐにあたしを見た。
そして言った。
「私は、霊廟には参らぬ」




