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051:佳い男 一

「うっ、うう……ぐすっ……うううぅぅっ」


 午前四時。

 あたしは作業台に突っ伏してむせび泣いていた。

 あたりはまだ暗い──目の前には蝋燭と、それからレオニさんが持っていたランタン。

 心もとなく揺れる炎が、まるであたしの心を表してるようで……だめだ、今は何を見ても泣けてくる。


「うぅ……ぐすっ、うぅぅ。うぅーっ」

「そりゃーね、ショックだと思いますよぉ」


 泣き続けるあたしを見て、エプロン姿のコジマくんが溜息まじりに呟いた。

 とてもじゃないけど作業に戻れないあたしの代わりに、発酵室から取り出したピタパンの生地を十個に等分し、手でコロコロと丸めている。


「だってねぇ、でっかいヘラ持って迫られて、追いつめられて壁際にドンされて、怖かったと思いますよぉ。よしよし可哀想にサトコさん、涙をお拭き?」


 あたしは突っ伏したまま震える指先を伸ばして、手に触れた布を引き寄せた。

 そのまま涙のにじむ目元を拭い──ってうわーこれ台布巾じゃん! でももう、なんでもいい。台布巾だろーと雑巾だろーと。

 そのくらい投げやりな気持ちでいっぱいなんだけど、それを責められる人なんていないはず。たぶん。


「しかも相手はレオニさんですよ。真面目で優しくて誠実で職務熱心でおまけに優秀、温かい眼差しと爽やかな笑顔に定評のある近衛士随一のイケメン、レオニさんですよ」

「ぐすっ、うぅ……うぅぅ」

「それがねぇ、あんなギラギラした野性味あふれるいかにもケダモノ! って感じになっちゃって。しかもサトコさんは手を合わせて見つめるだけで意識が飛んじゃうくらいウブウブしいのに、いやーこれはもう人生ひっくり返っちゃうくらいの衝撃でしょうねぇ」

「う……うぅっ……」


 生地をぜんぶ丸め終え、コジマくんは絞った布巾を上からかける。それからさっき床に落ちたフライパンを拾い、ふーっとホコリを吹き飛ばして石窯の焜炉に乗せた。

 窯からはパチパチと音がする。メラメラと火が燃え、薪が爆ぜる音。

 ……さっきこの窯に火が入った時は、まさかこんなことになるなんて思ってもみなかったのに……


「まーでもしょうがないですよ、犬に噛まれたとでも思って忘れることです。良かったじゃないですか、ちょっと危なかったけどギリギリ実害は出ていな」

「良くないっ、良くないっ、いっこも良くないーーー!」


 うわぁぁぁん、とあたしは泣き喚き、コジマくんが「おーよしよし」と背中をさする。

 しゃくりあげながら、あたしは一生懸命訴えた。


「じ、実害が出なかったからって……うぅ、ぐすっ……あ、あと少しで大変なことに、な、な、なってたんだからねっ。あ、あんなことされて、あたし、あたし……」


 そしてもう一度、あたしは作業台に突っ伏した。


「もうお嫁に行けないーーーッ!!」

「……気の毒に……」


 落ち着いた呟きにちょっとだけ顔を上げる。

 見上げた先に、揺れる灯りに照らされた物憂げな顔。呟いたアルゴさんの目は──あたしではなく、床に転がされたままのレオニさんに注がれていた。


「ちょっとー隊長さん、気の毒がるならそっちじゃなくてサトコさんでしょーよ。被害者の目の前で加害者に同情してどーするんですか。見て下さい、可哀想にこんなにまぶたが腫れちゃって」

「うむ。たしかにその通りではあるのだが」

「あるのだが、何です?」

「この嘆きようを此奴が見たら、はたしてどう思うかと……」


 そして左右に首を振り、溜息とともにこう言った。


「やはり、もう少し早く踏み込むべきであったか」


 ──え?


 あたしの顔にはくっきりと不審が刻まれていたと思う。

 あの……もう少し早く、って聞こえたんですけど。それってつまり登場のタイミングを見計らっていた、ということで。

 ってことはこのひと厨房の外であたしたちの様子を──


「……うそ、見てたんですか?」

「うむ」

「あたしたちの様子を見ながら、いつ乱入しようか考えてた?」

「……うむ」

「じゃ、じゃあ──あたしのピンチを、途中まで見て見ぬふりをして……」

「……」


 ジットリとそちらを見ると、アルゴさんはススー……と視線を逸らす。それから小さく「見て見ぬふりでは無くてだな」とのたまった。

 するとフライパンでお肉を煮返しながら、コジマくんがすかさず横槍を入れた。


「でも隊長さん言ってたじゃないですか、『これはもう捨て置いても良かろうな』って」

「捨て……!?」


 捨て置く、ですって!?

 あたしはガバッと体を起こした。

 そしたらアルゴさん、片手をあげて「いや違うのだ」だって!


「……捨て置くって、放っとく、って意味ですよね」

「誤解なされるなサトコどの──これはつまり」

「……つまり『ま、いっか』って思ったんですよね。あたしがあのままヤリタイ放題にヤラれちゃっても『ま、いっか』って」

「待たれよ、私は何もそのような」

「うそつくなーーーっ!!」


 あたしは叫び、アルゴさんは短く息をついた。


「だってそうなんでしょ、アルゴさんの仕事はコズサ姫を守ることなんだから! 姫様がつつがなくお元気ならオールオッケー、異世界から来たぽっと出のパン屋の娘がどうなろーと知ったこっちゃないって、だからあたしをここまで同行させて、危険な目にもアレコレ遭わせて、『ま、いっか』って放っといたんですよねっ。そんなのって……そんなのって……」


 あんまりだぁーーーッッ!!


 と、絶叫する前に。

 煮返したお肉を小鉢に移しながら、コジマくんが「まあまあ」とあたしを宥めにかかる。

 な、なによぉー話を混ぜっ返したの自分のくせに……


「叫びたくなる気持ちもわかりますけどね、晴天の霹靂ってまさにこーゆーことだと思いますし。でもねぇサトコさん、たしかに隊長さんは姫様一番その他は二の次って人ですよ。そのブレの無さときたらいっそすがすがしいほどです」

「そんなん……知ってるわよっ」

「けれどレオニさんは違うんですから。隊長さんと違って、サトコさんを粗末に扱うことを良しとはしませんよ」


 アルゴさんは無言で微動だにせず、あたしは眉間にシワを寄せる。

 すると魔法使いの弟子はにまにまーっと笑った。

 そこはかとなく、小ばかにしたような顔つきで。


「んもー、言わなきゃわかんないかなぁ」


 まったく鈍ちんなんだからサトコさんは、と言いながらキャベツの千切りに取り掛かる。あたし何も指示してないんだけど……これも魔法か何かで、わかるんだろーか。

 トントンと小気味よく包丁の音を響かせながら、コジマくんは言った。


「つ、ま、り! サトコさんが嫌がるようなことを、レオニさんは“普通なら”絶対にしやしません。現にいま色々されかけたのだって、決してわざとじゃないんです」


 ねっ隊長さん、とコジマくんは同意を求め。


「然様」


 とアルゴさんは頷いた。


「すべて、呪詛の(くさび)によるものだ」


 なにそれ。

 と、あたしは眉間のシワを深くした。コジマくんは機嫌良くキャベツを千切りし、アルゴさんはいつも通り静かに座っている。

 何がどうなってるのか、二人はわかっているようだった──あたしは当事者だというのに、首を傾げるばかり。


 そして話は少し遡る──昨日の昼、あたしとレオニさんが『狩りの城』へ戻った、その少し後の時刻まで。




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