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050:楔 三

「──来ないんですか、サトコさん」


 パンピールを片手にレオニさんが迫ってくる。


「あなたが来ないから、追うんですよ」


 あたしは作業台に沿って一歩、また一歩と後ずさる。


「あなたが逃げるからこうして追うんです」


 おかしいでしょ。

 この展開おかしいでしょ。

 有り得無すぎて、変な笑いが込み上げてくる。


「逃げる必要なんてないのに。言わなくたって、わかるでしょう?」


 額に、背中に、脇に、ダラダラと冷や汗が流れる──これ、捕まったらどうなるんだろう。

 どんな目に遭うんだろう。


「言わなくてもわかる、目を見ればわかる……そうでしょう、サトコさん。

 自分の気持ちも、あなたの気持ちも、お互いにわかっている──違いますか?」


 わかります、わかります。どう考えても異常事態だ、ということが。


「あなたを手に入れたい。他の誰にも渡したくない」


 ヒエッ……!


 かつてなく情熱的に迫られてるのに、突き付けられたパンピールのおかげで台無しだ。しかも片手で軽々振り回して、日ごろの鍛錬の賜物に違いない。


「抱きすくめて唇を重ねてしまえば、きっと、あなたはどこにも行かないはずだ」


 ヒエェェェェ……!!


 全身が総毛立ち、あたしは思わず身震いした。

 レオニさんってこんな人だったっけ?

 違う気がする。

 手は握るわ髪は撫でるわ、その挙句武器を片手に押しまくり、「ぎゅっとしてチューすればコッチのもん!」なんて、まるで人が変わったみたいじゃない!


「だからサトコさん」


 や、そりゃー知り合ってまだ数日だから、コッチが本性かもしれないけれど!

 でも、でも、とてもそうとは思えないのだ。

 だってほら雰囲気とか言葉の端々からわかるじゃない。

 この人はこんな強引な人じゃない。ペラペラと女を口説けるタイプじゃない。もちろんモテるだろうとは思うけど、そこに胡坐をかかないというか、そのこと自体に気づいてないというか、そーゆータイプだと思ってたわけで……少なくとも、あたしは。

 でもって、それが安心感というか魅力の一部とゆーか、あたしにとっては好ましい部分だったわけで。


「逃げないで」


 こーゆーことに免疫のない、自分でもどうかと思うくらい奥手なあたしと、同じペースで歩いてくれる人。

 どこかでそんな気がしてたのに、それが御覧の有り様だ。いつからこんなんなっちゃったのレオニさん!?


 ……いつから?


 つう、と背筋を汗が伝った。

 そうだ、昨日の昼からだ。(カラス)を退治して狩りの城に戻ってからだ。

 それ以前のレオニさんはあたしを口説くそぶりなんて見せなかったんだから。なんて言ってたっけあの鴉──今宵じゃ。今宵じゃ。姫は其の方を、待っておる。


「や……やだやだ、やめましょうよレオニさん!」


 聞こえた自分の声は、ほとんど悲鳴。


「やめましょうよ、まずいですって。こんなところ誰かに見られでもしたら……」


 キョロキョロと視線を左右に動かす。

 何か、何か身を守るものが欲しい……だけどあったところで役に立つんだろうか。だって相手は近衛士、しかもその隊長肝いりの精鋭なんだから。


「それこそ姫様にでも見られたりしたら」


 力じゃ敵わない。だったら助けを呼ぶしかない。


「今度こそ……今度こそ御手討ちになっちゃいますよ!?」

「なっても構わない!」


 どん、と音を立てて背中が壁にぶつかった。レオニさんの両腕は、あたしの体を厨房の隅に縫い留めている。

 ──追い詰められてしまった。

 警報音が脳内に鳴り響く。危険、退避せよ。危険、退避せよ──でもどこに、どうやって!?


「こっちを見て、サトコさん」


 心臓が破れそう。膝が震える。


「目を逸らさないで」


 その眼を見て、あたしは心底ゾッとした。

 光がない。

 何も映さない。

 あの時と同じだ。鴉の時と!


「わかっていましたよ。あなたは待っていた。自分を待っていた。だからこんな時間から起きていたんでしょう?」


 違う違う、あれは変な夢とか見ちゃったせいで。


「今宵、自分に抱かれようと、あなたは待っていた──そうでしょう?」

「だ!?……いやいやいや! 違いますってば!!」


 やばいやばい。

 これは本当にやばい。

 あたしの開きっぱなしの瞳孔に、かなりアブナイ感じに目が据わったレオニさんの姿が映る。

 1ミリ、2ミリと距離が縮まる。

 吐息が首筋にかかり、ぞわっと鳥肌が立つ。昨日は腰抜けそうになったけど、今は別の意味で腰抜けそうです!


「抵抗しても無駄ですよ。心に決めて来たんです。必ずあなたを手に入れると──」

「ぎゃー!! やめてやめて、絶対やめてーーー!!」


 顔近い、顔近い。うわーもういっそのこと気絶してしまいたい!!

 あたしは悲愴な覚悟を決め、ギュッと目を閉じた。

 できれば紳士なままでいてほしかった。初めてなんだからもっと優しくリードしてほしかった。こんな親不孝なことになってるなんて、おかーさんは思いもしないだろう。

 ああ、あたしもうお嫁にいけない。こんなんじゃ誰も貰ってくれない。さよなら人生、さよなら未来……


 ごんっ


「……?」


 鈍い音とともに、ギラつく獣の気配が急に消え失せ──あたしは恐る恐る目を開けた。

 あたしを壁に縫いとめていた両腕が、ない。

 目の前にレオニさんの姿が、ない。


 た、助かった……


 そう思った途端立てなくなり、壁に背をつけたままズルズルと座り込む。

 ふと足元を見れば、膝から崩れ落ちたレオニさんが昏倒していて。

 思わず「ヒッ」と声を上げる。


「大事ないか、サトコどの」


 静かな声に顔を上げれば、そこには近衛士の隊長と、寝ぼけ眼をこすってあくびをする魔法使いの弟子。そしてアルゴさんの手には、コジマくんの杖。

 一瞬の間を置いて、あたしは理解した。

 厨房に踏み込むと同時に、アルゴさんはコジマくんから杖をもぎ取り、レオニさんの後頭部を思いっきり殴打したらしい──ということ。


(くさび)は?」


 短い問いを受け、コジマくんはランタンを手にしゃがみこんだ。

 指を伸ばして、レオニさんの閉じられたまぶたをこじ開ける。右、それから左。そして──首を横に振った。


「ばっちり刺さってます」

「然様か」


 いったい何が何やらさっぱりわからず、あたしはへたり込んだまま震えていた。

 わかったことはただ一つ、『人生最大の危機をからくも脱した』──ただ、それだけだった。




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