049:楔 二
あたしは下を向き、パン生地を捏ね続けた。
まだ固い。
もう少し。
柔らかくなるまで。
「……御宣下の報せを受け、自分はこう思いました」
あたしの発言を遮ったレオニさんが、ぎこちなく口を開いた。
慎重に。
言葉を選びながら。
「自分たちは、幸せなのだと。心のままに生きられるんですから」
蝋燭の炎が揺れる。
レオニさんがどんな表情をしているのか、前髪が影になって、あたしからはよく見えない。
「困難なこともあるでしょう。反対する人もいるでしょう。咎める人だって、いるかもしれません」
作業を続けなきゃ。
途中で止めてはいけない。もう少し、もう少し、力を込めて。
「けれど背負っているのは自分たちの人生だけです。拾うも投げるも、自分の判断です。その判断で他の誰かの人生が変わってしまうような──ひいては罰を受けるような──そんな荷物を背負っているわけじゃない」
「……」
「どんな選択をしても、命を取られるわけじゃない。努力と気持ち次第で幸せになれる──そうでしょう? サトコさん」
捏ね上げた生地をボウルに戻し、絞った布巾をかけて発酵室に入れる。
上の段にパン生地、下の段には容器にお湯を張って。ちょっと寒いから、少し時間をかけることにして。
これはピタパンの生地だから、今のうちに挟むおかずを作らなきゃ。
昨日焼いたお肉を甘辛く煮返して、キャベツっぽい野菜があったから、それも一緒に入れようかな。千切りにすれば味もよく絡むし、歯触りもいいし。
うん、なかなかいい考えじゃない? きっと皆喜んでくれる──と、そこまで考えて立ち上がろうとしたのに。
あたしは立てなかった。
誰のことを言ってるのか、何のことを言ってるのか──考えたくなくて、しゃがみこんだままレオニさんの方を振り向けずにいた。
だって。
「一緒に喜ぶくらい、いいじゃないですか……」
そう、あたしは腹が立ってたのだ。
「可哀想ですよ、姫様。
ずっとずっと我慢してたと思うんです。でなきゃあんな泣かないし、あんなハイにだってならないもの」
コズサ姫は泣いていた。
泣きながら笑っていた。
あの湖の畔で、うずくまって震えながら──あの姿を見て心が動かない人なんて、きっといない。
いたらどうかしてる。
「そりゃあたしは異世界から来た人間ですから、口出しするような立場じゃないですよ。こっちの政治のことだってわからないし」
出会って数日のあたしがそうだって言うのに。
どうして十年近く傍にいた人が、どうしてああも表情を変えずにいられるの──あたしはそれに、腹を立てていた。
「エードからここに来るまでだって、色々ヒドイ目に遭って。ヒドイことも結構言われて。ぜんぶ我慢して、来るものぜんぶ受けて立って」
勿論わかってる。こんなこと言うのはお門違いだし、余計なお世話だ。
だけどもう黙っていられない。
誰も言わないし、言っちゃいけないと思ってるんだろうけれど、姫様の気持ちを思うと──
あ、だめだ。
目頭が熱くなってきた。
「小っちゃい頃からずっとそうだったんでしょう?
それをずっと、見てきたわけでしょう?
どーゆー立場の人が企んでやってるのか知らないけれど、そんな物言いのつくような縁談ふつーならイヤですよ。それが好きな相手だったら『障害があって一層燃え上がる』のかもしれませんけど……でも、違うじゃないですか。だって姫様は」
「サトコさん」
レオニさんが椅子から下りた。あたしの肩にそっと手を置く。
ああ、まただ──また、あたしの言葉を遮って。
そこから先は言ってはいけないって。
「いいじゃないですか一緒に喜ぶくらい……ぐすっ……だってもう行かなくていいんだし。あたし間違ってますか、レオニさん」
「いいえ。……いいえ」
レオニさんがあたしの隣にしゃがみこむ。
もう片方の手で、指先で、あたしの頬をぬぐい──やだ、なに泣いてんだろ。自分のことでも何でもないのに。
涙を自覚したとたん鼻が垂れ始め、ぐすぐす言ってるとレオニさんがあたしの髪を二度撫でた。
それからあたしを立たせて、そっと手を握った。
「優しいんですね、サトコさん」
なんでかな……あんまり緊張しないのは。
昨日、一度握られてるからかしら。
「いーえ……ぐすっ、別にそんなんじゃ」
「いいえ。優しさです」
そう言ってレオニさんは微笑んだ。
大きな手──触れあったところがじんわりして、あったかいものが流れ込んでくるような、そんな気がする。
「違いますよぉ。だって……ぐすっ……皆が湖に落ちた時だって泣きましたけど、六対四くらいで自分の心配でしたもん。こんなところで一人になっちゃったら、どーしよーって」
「ははは、そうですか」
「えー何で笑うんですか」
「いや、だって……すいません、『言わなけりゃわからないのに』って。ははは」
あ、たしかに。
思わず口を半分開くと、それを見たレオニさんは苦笑いで──あたしの手を握り直した。どきん、と心臓が跳ねる。急に。
「正直ですね」
そう言って、にこっと笑った。
「言わなきゃいいのかもしんないですよね……」
あたしもつい、苦笑い。魔法のように涙が止まった。
ずいぶんゲンキンで、自分のことだけど呆れてしまう。
「いいと思いますよ。取り繕ってるより、よっぽど」
何してんだろう、あたし……昨日といい今日といい。
ここは厨房だし、時間外だけど仕事中だし、それにさっきまでコズサ姫の心境に思いを馳せてちょっと泣いたりしてたのに。
見つめ合って、手を握って──ドキドキしたりなんかして。
「だってそうでしょう。心を取り繕って生きていくなんて」
あたしの顔を覗き込むような瞳が、蝋燭の明かりに照らされる。窓からは山の冷気と、夢のような星明り。
熱を帯びた眼差しが降りそそいで、すごく熱い──あの星空みたい。
燃えるよう。
思わず視線を彷徨わせると、レオニさんの指がまたあたしの目元を撫でた。
ほんの少し残っていた涙をぬぐって、目元から頬へ、頬から顎の先へ──そして少しだけ、上を向かせる。
あ、あ、この流れ……なんか身に覚えがあるんですけど!
「心のままに、生きてこそですよ……サトコさ」
「あーっ! そそそうだピタパンに挟むおかず! 発酵させてるうちに作っておかなきゃ、すいませんレオニさんそこのフライパンとってもらえます!?」
ああ。
あああーー! またやってしまった!!
なんであたしってこうなの、どうしていつもいつも肝心なところで逃げ腰になるの、関係ないことを口走るの、高二の冬から何一つ進歩していない!!
──と心の中で叫びながら、あたしは二、三歩後ずさった。い、いや別に嫌なわけでも怖いわけでもなくて、ただこの空気が!
この空気がどうしても……!
「ほら、ほら、昨日姫様が言ってたじゃないですか自転車で遊びに行くって! 遊びに行くんならお弁当がいるし今のうちに作っておかないと、ねっ?」
バクバクする胸を押さえながら、あたしはペラペラ喋り続ける。
なんで、どうして、こんな時に限って口がよく回るんだろう!
「なんか『滝を見たい』とか仰ってたけど、このあたり滝なんかあるんですかねぇそれも華厳の滝みたいな大きいの! レオニさん知ってます!?」
「滝、ですか。それなら霊廟の奥の間からちょうど望めたと……どうぞ、フライパン」
「アー良かったそれならちょうどいいですね! 姫様行く気まんまんだったし、コジマくんがファタルはリゾート地って言ってたし、たまには楽しまなくちゃ。ねっ!」
「……あの、サトコさん」
「でも霊廟の奥だと『シート広げて皆でお弁当』って空気じゃないかもしれないですよね、むしろ飲食禁止かも知れないですよね、あらどーしましょ!」
「サトコさん」
「まーでも作っておけば食べる機会はいくらでもあるわけだし、うんやっぱりピタパン作っとこう、初志貫徹がいちば」
「こっちを見てサトコさん、逃げないで!」
うっ──
汗がつつー……と背筋を伝う。
ばれてる。あたしの逃げ腰が。ばっちり伝わっている。
「嫌なら、そう言ってください」
「い……嫌だなんて」
それまでの勢いはどこへやら、あたしはずりずりと作業台に沿って後ずさった。
あたしが一歩下がると、レオニさんが一歩距離を詰め。
「嫌じゃないなら、逃げないで」
「にに、に、逃げてなんか」
うぅぅ、言われてることが若干デジャヴだ──いや、わかってる、わかってるのよ本当は。
過去のアレコレを鑑みるに、あたしと山野くんの別れの一因に、あたしの逃げ腰があったことくらい。
「ならどうして離れていくんですか」
「いやその、これはえーっと」
そう、高二の冬休みのあの日から山野くんとの間に気まずい空気が流れ始めて、心配した友達に「実はこれこれこーゆーことが」と打ち明けたら「山野かわいそう……」って皆山野くんに同情してて。
たしかに自分でも思うもの、アレはちょっと無いな、って。
「それに何故フライパンを構えるんです?」
「べ、べべ別にこれは偶々さっき受け取ったから」
だから次にこーゆーことがあったら逃げずに立ち向かうんだ、ってさっき目が覚めたとき反省したはずなのに。
はずなのにー!
ああーもう、あたしのばかっ、ばかっ、ばかーーーッッ!
「──まさか、それで自分に立ち向かおうとでも?」
へっ?
思いもよらぬ言葉にあたしは瞬いた。
たしかにフライパンの柄を両手で持って、顔を隠すように構えている。でも別に立ち向かおうなんて気はカケラもない。ないはずだ。
するとレオニさんはすっと目を細め──片手を伸ばし、壁に立てかけられたパンピールを手に取った。
「いいでしょう」
そしてその切っ先を──って木製のパンピールの先は丸まってるけど──あたしに突き付けた。
「お相手しましょう。もちろん手加減はします」
「な……な……」
「打ちこんでいらっしゃい、サトコさん。来なければ──自分が」
え……えええーー!?
何この展開。
どうしてそうなるの。
だいたいフライパン対パンピールって絵的におかしいでしょ。
さっきまで迫られてたけど別の意味で迫られちゃって何コレほんとどーゆーこと!?
と、思う間もなく。
レオニさんが一歩踏み込み、腕を一閃させた。
その瞬間あたしの手からフライパンが吹っ飛び、床に落っこちてグワァァァンと反響音を立てる。
じわりとにじむ冷や汗を感じながら、あたしはそれを横目で追った──
口の中、カラッカラなんですけど……




