048:楔 一
長い一日を終えてベッドにもぐりこんだとき、時刻はたしか夜の十時をまわっていた。
あたしはまた変な夢を見た。
それはどうやら、いつかの夢の続きのようで──
暗い洞窟の中、足元がぐらぐら揺れている。
まるで大きな生き物の背中に乗ったように。
しゃがみこんだまま揺れがおさまるのを待って、あたしは目の前に落ちていたパンを拾い上げた。
「こんなところに落ちてたんだ、プチフランス……」
手の中のパンを見つめて呟く。
焼きあがったばかりなのか、ホカホカと温かい。
そうだよね。一人に二個ずつ、合わせて十個焼いたんだから。九個しかない、なんてこと有るはずないのだ。
あたりを見回せば、そこは緩やかな一本道。真っ暗なのに妙にハッキリ見えて、不思議な感じ。顔を上げると向こうの方に、ぽっかり出口が開いている。
あたしはトコトコそちらに歩いて行き、何の疑問も持たずにそこを潜り抜け──今こうして思い返すと疑問だらけなんだけど、夢ってそういうもんだろうし──
「よいしょっ」
と潜り抜けた先はなぜかお店の厨房、しかもパンを焼く業務用のオーブンだった。
作業台では母がパンの成形をしている。
「おかーさん。あった、プチフランス」
オーブンから出てきたあたしに、母も「あ、そう」とふつーに答え。
それから夢の中のあたしは、これまた至ってふつーに自分の部屋に上がった。
急いで出かける準備しなきゃ。
カバンの中にハンカチ、ティッシュ、携帯。リップクリームは色つきのにしようかな。だってほら、今日は山野くんちに行くんだから。
階段をパタパタ下りて「行ってきまーす」と声をかけると、母が厨房からヒョイと顔を出した。
「サトコ。あんたどこ行くの?」
「友達んち」
「ほぉー」
すると母はニヤァ、と笑うような吹きだすような変な形に口元を歪め──
「ま、あんたの人生だ。好きにしなさい」
「なっ」
「私はずーっとお店にいるから。帰りたくなったら、帰ってらっしゃいよ」
そう言って作業に戻っていった。
なによう、おかーさんたら。なんか馬鹿にされたような感じなんですけどー!
あたしは内心わずかに反発しつつ、店の裏に停めた自転車に鍵を挿した。
さ、早く行こう。山野くん待ってるし。
「うわあぁぁぁーーー!!」
目覚めると同時に叫んだあたしは、両手で顔を覆い寝台の上でのたうちまわった。
うわーもー信じらんない、何だって今このタイミングであの時の夢なんか見るのよばかーばかーばかー!
「うちに来る? 今日、両親いないから」
そう言って誘われたのは、忘れもしない高二の冬休みのこと。
あたしは「うん行く行くー!」と返事して、ホイホイ遊びに行った。
それで最初はお茶飲んだりゲームしたり漫画読んだりゴロゴロしてたんだけど、そのうちなーんか距離が近くなって、手とか握られちゃって、顔がやたら近くなって、ちゅ、ちゅちゅ、ちゅーとかしそうな感じになって……うわぁぁぁー!!
「あっ、ごめんね山野くん、あたし今日夕飯当番だから、ちょっと早めに帰らなきゃいけなくてホントごめん明日また学校でね!」
なーんて冬休みなのに「学校でね!」とか、すっごい苦しい言い訳をして逃げるように帰って……
三日寝てない人みたいな顔であっとゆーまに帰ってきたあたしに、おかーさんは「あんた……」と呆れたように首を振るばかり。
いや、いや、自分でもちょっと思うのよ。
いくらなんでも奥手すぎるかな、とか。
これじゃまたコジマくんに「ウブにもほどがありますよ」って言われるな、とか。
次にこーゆーことがあったら逃げずに立ち向かおうそうしよう、とか。
だから今日、いやすでに昨日、レオニさんに顔を掴まれた時も内心ちょっとは腹をくくったのに……って何の腹よ! 何の覚悟を決めたのよ!
あーもぉぉぉ。やだぁ、ほんとにもう。
「ううぅっ、恥ずかしい……」
もう一回眠ろう。眠って忘れよう。
頭っから毛布を被って決意するも、まぶたの裏を走馬灯のように色んなことが駆け巡る。
それは「嫌ならそう言ってよ、松尾さん」と悲しげに呟く山野くんの横顔だったり、「あんた結婚とかできるのかねぇ……」と溜息をつくおかーさんの後姿だったり、あたしの頬に添えられたレオニさんの大きな手の感触だったり、アルゴさんの背中にほっぺをくっつけたコズサ姫の笑い声だったり、光の柱の中で煌めくファタルの龍の目玉だったり……
だめだ。寝れやしない。
「起きよう……」
胸元から“鬼の眼”を出して時計を照らすと、時刻はもうすぐ二時半だった。
ほぼ四時間睡眠か……人も獣も草も木も、パン屋もお豆腐屋さんもフツーは眠っているはずなのに。あーなんて愚かなんだろう、あたし。
いいやいいや、ぐずぐずしてたってしょうがない。
着替えて、顔洗って、働こう。
パンでも捏ねてた方が余計なことを考えなくて済む。たぶん。
“鬼の眼”のぼんやりした明かりを頼りに、のそのそ着替えて厨房へ向かう。
勝手口の裏で顔を洗い、冷たい水を一口飲んで、見上げれば空には満天の星がびっしりと。
「きれい……」
標高が少し高いからかな。エードで見上げた時よりも、星の一つ一つが近いみたいだ。
けっこう明るいな。
星の光だけで外を歩けそう。
ほう……と息をつくと白い色。それが夜空に溶けて消えるのを見送って、あたしは厨房に戻った。
明かりをつけなきゃ。コジマくんはまだまだ起きて来ないだろうから。
コック服を羽織りポッケの百円ライターを蝋燭に近づける。オレンジの明かりがささやかに揺れるのを、あたしはじっと見つめた。
「暗いなぁ……」
蛍光灯に目が慣れちゃってるせいだろう。でも精密機械を作るわけじゃなし、これで充分だ。
さあ、次はかまどに火を入れよう。
あたしはもう一度ライターを取り出し──
「火打石、やってみようかな」
と思い返して、そのままポッケに戻した。
コジマくんに「これあげますよ」と渡された火打石セット、見よう見まねでカチカチと打ち合わせる。
うーん。
つかない。
気を取り直して、もう一度。カチカチ。
うーん……
おじいちゃんが苦戦したの、わかるわ。全然つかない。パッパッと光るから火花が出てるのはたしかなんだけど。
「だめだぁ……」
首を横に振って、あたしは丸椅子に腰かけた。これは三日くらい練習しないとだめかも……
目の前にはぽっかりと石窯の扉が開いている。
中は暗くてちっとも見えない。まるでさっきの夢で見た、不思議な洞窟だ。
そーいえば昨日のプチフランスは結局数え間違いだったのかしら、今日は十個じゃなくて十一個数えて焼こうかしら──なんて考えていたそのとき。
あたしの肩に、何かが触れた。
「ぎゃっ……!」
今度は口が塞がれて、あたしの心臓は思いっきり縮み上がる。
なに!?
なになに、なんなの!? 不審者? 殺される!
と、目を白黒させていると──
「しーっ」
と指を立てて、目の前に見知った微笑みが。
「すいません、驚かせて。明かりが見えたものですから」
「レ……レオニさぁぁん……」
びっくりしたぁぁ……
思わず作業台に突っ伏すと、レオニさんは苦笑いであたしの隣に腰掛けた。片手のランタンはさっきあたしが点けた燭台のとなりへ。
あ、そうか……きっと夜警の最中だったんだ。
「もう、てっきり不審者に捕まったのかと思いましたよぉ……良かった、レオニさんで」
「自分も不審者が出たのかと思いました。捕まえて、とっちめるつもりでいたんですけどね」
「わー、ひどーい」
あたしがそう言って笑うと、「冗談ですよ」とレオニさんも笑った。
「何か手伝いましょうか」
そう言いながら薪を何本か手に取って、ポンポンと石窯の中へ。暗くてよく見えないけれど、ただ放り込んでるんじゃなくてキチンと組んで入れてるようだ。
「あたしまだ何も言ってないのに……」
「火打石の音、聞こえてましたから。竃に火を入れなきゃパン屋さんの仕事は始まらないんでしょう?」
「やだぁ、わかってたんですね苦戦してるの」
「ええ」
カチッ
と一度だけ大きな音がして、火花と細い煙が上がる。出来た火種を焚き木に移し、それをレオニさんは石窯にくべた。
中がオレンジ色に照らされる。
助かるなぁ。ホッとするし、心強い。
それにこちらの世界じゃ当たり前のことでも、自分にできないことを簡単にやってみせるってゆーのはやっぱり素敵。
小さな火種にふーっと息を吹きかけると、少し大きくなった炎が石窯の中をほのかに照らす。
こちらを向いた、レオニさんの横顔も。
なんかこの色……すごく、ロマンチック。
冬に街を彩るイルミネーションとか、そーゆー煌びやかな光じゃないけれど、この素朴さが逆にいいってゆーか。
こうして暗い中に二人っきりでいると、お互いの息遣いまで聞こえてきそうな気さえする。鼓動の音も。
瞳が炎に照らされて、壁に映った影が揺れて、胸の奥から何かが溢れてきそうな、そんな気がして──
ああ、いいなあ。
こんな風に暗いうちから一緒に働いて、朝一番のパンが焼きあがる頃にはお店じゅうが、きっといい香り。
朝食を買いに来る奥様たちのお相手は、お任せしちゃおう。あたしは厨房で作業があるから。
代金を頂いて御釣りをお渡しする横を通って、焼き立てを並べにお店に出る。そしたら「いつも仲がよろしいのね」なーんて声かけられたりなんかして……
「少し見て行っていいですか? サトコさんの仕事ぶり」
「えっ!? あ、はい! ええもう全然、どうぞどうぞ!」
うわーうわー、自分で自分に引いちゃうんですけど妄想が具体的すぎて! なんて恥ずかしい人なの、あたし……!
かーっと頬が熱いのを誤魔化しながら、作業台に材料を並べていく。
小麦粉に水、砂糖、塩、イースト、それから少しの油分。
「パン屋さんはいつも、こんなに早いんですか?」
「や、そんなことないです。今日はたまたま目が覚めちゃって」
ああもう暗くて良かった。顔真っ赤だけど多分ばれない。これなら。
量った材料を合わせてボウルの中で一つにまとめていく。
隣からの視線が気になるけれど──あたしも職人の端くれ、仕事が始まった以上どんな状況でも誰が一緒でも、心を乱さず全神経を作業に集中させるのだ。
そう、いつもどおり平常心で。
だってほら、これでも一応プロなわけですからね。
仕事とプライベートは別物ですからね、うん。
「普段、厨房に入るのは四時頃なんです。だから今、ちょうどおかーさんが起きたあたりじゃないかしら。今日はたまたま変な夢とか見て寝れなくなっちゃって……ほんとはすっごく疲れてたはずなんだけど」
「昨日は大変でしたからね。姫様もクタクタのご様子でしたし」
そうそうコズサ姫ったら、夕食の最中に寝そうになったのだ。
ずーっとハイテンションで喋り続けて、食事も結局「厨房で食べる!」と仰って。
アルゴさんは意外と叱るでもたしなめるでもなく、全員ここに並んで座って、「いただきます」と「ごちそうさま」をした。
食事が始まって喋るのをやめた途端、疲れがどっときたのか少しずつまぶたが下がっていって……完全に“おねむ”になってしまったのは、食後のお茶の時。
「あたし、笑っちゃいました。コジマくんが『虫歯になりますよ』って歯ブラシ渡したら、目を閉じたままシャカシャカしてるんだもん」
「隊長の肩にもたれたまま、ね」
「ねぇ。そりゃ眠くもなりますよ、昨日は色々あったから」
「かなりはしゃいでおられたから無理もありません。自転車にお乗りになって、そのまま湖に転落されて」
「おっきい龍に助けられて。その前には鴉も出たし」
「御存知ないことですけどね」
微笑んで、レオニさんは目を伏せた。
「ぜんぶ、あの御宣下で吹っ飛んじゃいましたけど、ね」
あたしは作業台に生地を出して、本格的に捏ね始めてたんだけど──御宣下、という言葉にふと手を止めた。
西の大王が退位する。
だったら、その人の御后になる予定のコズサ姫はどうなるんだろう。
「ねぇ、レオニさん。姫様……行かなくていいんですよね。西の都」
手を止めたまま、あたしは呟いた。
「だって退位する人のところにお嫁に行ったって、仕方ないですもんね」
レオニさんは目を伏せたまま、それを聞いている。
あたしの口からは言葉がポロポロ溢れてくる。なぜだろう。止まらない。
「それに元々周りが決めた相手でしょ? 天下の為、平和の為、って言い聞かされて。あたしだったら──ううん、人間だったら誰でも、自分で選んだ相手のところへ行きたいですよ。
一番好きな人のところへ。
あたし本当は言いたかったもの『良かったですね』って。きっともう、姫様は」
「サトコさん」
レオニさんの声は少し硬かった。
あたしは口をつぐみ、またパン生地を捏ね始めた。
作業を続けなきゃ──何か余計なことを、口走らないように。




