003:母と娘のおしゃべりクッキング
遠くで目覚ましが鳴っている。
止めたい。
止めたい。
でも体が動かない。
体だけじゃない、頭も動かない。
あーでもうるさい、限界だ、もう止める。
もう止める、止める、止め……
「サトコ!!」
「……ぬわっ!?」
あたしを起こしたのは結局目覚ましではなく、耳元で炸裂した母の大声だった。
「な、なに? まだ寝坊してないよ?」
「あー、してないしてない、たしかにしてない」
「じゃあなんなのよう……」
頭を枕で隠してまた横になると、母は容赦なくその枕を奪い取る。
ああ、眩しい。
でも眩しいのは太陽じゃなくて部屋の蛍光灯だ。
外はまだ日の出前。しょうがない、パン屋の朝は……早い……のだ……
「寝ーるーなっ! 今日は営業初日なんだからね」
「……何の初日……?」
「あほっ。ブーランジェリー松尾の異世界営業初日だよ」
はっ、とあたしの思考回路にようやく電気が流れ始める。
そうだ。
昨日、店ごと異世界に来てしまったんだった。
営業初日って、うわーほんとに店やるんだ。なんでうちのおかーさんてこんなタフなの……
「ま……待って、待ってよ。店やるのはわかったけどさ」
「じゃー早く支度しな。下行ってさっそく仕込みだよ」
「だからその……来るの? お客さん」
さっさと部屋から出ようとしていた母は、あたしの言葉にくるっと振り向いた。
そして言い切った。
「来る」
「えー……ほんと?」
「疑り深いなあ。店開けりゃわかるよ、早くおいで!」
そう言ってどすどす階段を下りて行く。
少しの間ぽかんとしていたあたしは、重い体を動かしてのろのろと着替えを始めた。着替えったって、ジーパン履いて髪を結わえるくらいだけど。
目覚まし代わりのスマホを見ると、今は午前三時。電波は……あー、やっぱり圏外だ。
異世界だもんねえ。
繋がるわけないか。
カレンダーは四月の上旬だ。もう何週間かしたら五月の連休で、帰省する友達と皆で会おうよ、なんて話も出てたんだけどな……この調子じゃ参加は無理だし、欠席の連絡もできやしない。
階下の洗面所で顔を洗い、白いコック服を羽織って前を留める。あくびと溜息を噛み殺しながら厨房に入ると、母はホワイトボードに今日作るパンを書き出していた。
食パン。
バゲット。
コッペパン。
アンパン。
「惣菜パンは?」
「……じゃ、コッペ半分を焼きそばパンにするか」
焼きそばパン、追加。
うちで売るパンはプレーンなパンが六割近くを占める。もともと住宅街のパン屋だし、おやつに買う人よりも食事と一緒に、って買って行く人がほとんどだから。
それにプレーンなパンは利益率も良いから、これが主力商品であることは零細パン屋にとって大事なことなのだ──これは、あたしがブーランジェリー松尾に就職して最初に教わったこと。
「あとはメロンパン?」
「おー、それそれ。忘れたらえらいこっちゃ」
母はホワイトボードにメロンパン、と書き足した。
あたしは店の冷蔵庫から、昨日捏ねて寝かせておいたパン生地を取り出した。発酵の具合は、いい感じ。あとは分割して成形して、食パンの型に入れて……
──あたしはふと作業の手を止め、厨房の中を見回した。
いつも通りのうちの厨房。
いつも通りに働く母は、目の前でコッペパンの成形をしている。
「……ねえ、おかーさん」
「あーん?」
「おかーさんは初めてじゃないんだよね……ここで店やるの」
「そうだよ」
「この異世界ってさ、やっぱり中世ヨーロッパ風なの?」
母は顔を上げた。眉間に皺が寄っている。
そして言った。
「わからん」
「でも異世界トリップと言えば中世ヨーロッパ風、でしょ?」
「そうなの?」
「うん、たぶん。それにあのお城、どう見てもヨーロッパだよね」
「そうかい? 私には千葉県に見えるけどね」
おかーさん……その千葉のお城も、きっとモデルはヨーロッパだよ。
「中世ヨーロッパなんて行ったことないからねえ」
そりゃ誰だって過去の世界には行ったことないだろう。でも、異世界に行ったことある人だっていないんじゃない?……ま、母は別として。
「でもヨーロッパは何となくわかるでしょ、テレビとかで」
うーん、と歯切れの悪い返事をして、母は成形したコッペパンをプラスチックのケースに並べている。
「サトコが言いたいこと、なんとなくわかるけどね。あんたがイメージしてるのってシンデレラの世界みたいな感じでしょ。魔法使いがいて、お城で舞踏会」
「んー……いや、そーゆーのじゃなくて」
「じゃあどーゆーの?」
成形したコッペパン、型に入れた食パンを発酵室に運び入れながら、あたしは答えた。
「たとえば悪いドラゴンとかいてさ。魔王とか。それを勇者と仲間たちが倒すような感じ」
「ああ、ファミコンの世界か」
ファミコン!
携帯ゲーム世代のあたしは思わず吹き出しそうになる。ファミコンかー、存在は知ってるけど現物は見たことがない。
そのファミコン世代の母はというと、今度は菓子パン用の生地を分割して丸めている。あれがアンパン、メロンパンに変身するのだ。
「いないよ、そんな派手なモン」
リズミカルに生地を丸める姿は職人そのものだ。ついでに言えば性格も。
「まあ私だってここのことよく知ってるわけじゃないけどさ、聞いたことないね。そんな派手な悪役」
「なーんだ、いないのかあ」
「なにを期待してたか知らないけどね、そんなんいない方がいいんだって。悪の大魔王なんてさ」
「でも夢があるじゃん」
「夢ぇ?」
「囚われのお姫様を勇者が助け出すの。で、最終的に結婚するの」
ふへっ、と変な声がして母の方を見ると、その顔には失笑が浮かんでいる。
……うわあ。
言わなきゃ良かったー!
「あんたもファミコン世代か、サトコ」
「え、違っ! あたしは携帯ゲーム世代です。一人一台!」
「でもさ、さっきの例えちょっと古いよね。三、四十年前だわ」
「そ、そーお?」
「そおーさ。現実は日本と大して変わんないよ、皆それぞれお勤めしてんだから。日本と違って戦争があるぶん、こっちの方がキビシイかもよ」
「……戦争?」
「ま、それも前来た時には終わってたけどね」
なんだ、良かったあ。
異世界にトリップして戦争に巻き込まれるなんて、そんな展開はまっぴらごめんだ。昨日の母の言葉を借りれば『粛々とパン作り』をしてた方が、身の丈にも合っている。
あたしは菓子パン用の生地に濡れ布巾をかぶせると、冷蔵庫からあんこを出した。
「おかーさん、アンパンいくつ?」
「三十」
「りょーかい」
バットにあんこの玉を三十個、ゴムベラですくって並べていく。母はメロンパン用のビスケット生地に取り掛かるようだ。
今は違うけど、学校行ってた頃はこれと同時進行であたしのお弁当を作ってたんだよね……で、さらに掃除洗濯炊事まで。しかも一人でこなしていたのだ。
とても頭が上がらない。
「サトコ、焼きそば頼んだ。麺五百で」
「五百グラム、りょーかい……ここの人たちって焼きそば食べるの?」
冷蔵庫から中華麺を取り出す。五百グラムってけっこうな量。そのうちの何グラムかは、あたしたちのお昼になるのだろう。
「食べるんだよ、それが」
「食べるんだ」
「ぜーんぜんヨーロッパじゃないよ、ご飯、うどん、そば食べてるんだもん」
うっそお。
あたしはちょっと笑ってしまった。
今のところ異世界っぽい出来事といったら、ゴージャスなお城と魔法使いのマーロウさんだけだ。
「でも甘味には乏しいらしくてね、うちのささやかなジャムコッペが、前は大人気でさあ……」
「へー、あの地味なのが」
「そう。ま、それがご馳走なんだよここでは。他の料理もシンプルなもんだよ、七輪で魚焼いたりね」
「七輪!」
「便利な調理家電なんてないからね、ここは。その点は中世だね」
ふうーん、と返事をしながら焼きそばを炒めていく。
ご飯、うどん、そば、でもって焼きそばかあ。このぶんだと納豆や醤油なんかもありそうだ。
異世界っぽさのカケラもない。
「食が日本に近いからね。最初にトリップしたのが何代前の松尾サンかわかんないけど、住みよいところだーとか思ってたんじゃないの」
そう言いながら、母はあんこを生地で包む作業に入った。
早い。
あっと言う間に一つ包み、二つ包み……みるみるうちに三十個できあがり、それを発酵室に入れる。
「外観はヨーロッパかもしれないけどね、中身は江戸時代っぽいところがあるよ」
「そうだよねえ、異世界に来て七輪なんて単語聞くとは思わなかったもん」
「面白いのはさ、あのお城だよ」
「お城? あれは完全にヨーロッパじゃん」
「見た目はね。当然王様がいるんだけどさ、何て呼ばれてると思うよ」
「……王様、でしょ?」
でなきゃ陛下とか閣下とか?
するとビスケット生地を分割して丸めたり伸ばしたりしながら、母はちょっと笑ってこう続けた。
「違うんだよ。あそこに住んでるのはね、“上様”なの」
炒めた焼きそばをバットに移しながら、ぶふっ、とあたしはついに吹きだした。
「上様ぁ?」
「私も最初聞いたときは耳を疑ったよ。二度聞きしたからね」
「じゃあさ、じゃあさ、大奥みたいのがあってナントカの局様が幅を利かせてたりするの?」
「いや、ここは偉い人でも一夫一妻が基本なんだと。そりゃ浮気する人はするだろうけどね」
そうなんだ。
時代劇なんて最近では、大河ドラマか地方局での再放送をチラッと見かけるくらい。でも大奥が舞台のドラマは何年か前にテレビでやってたし、映画にもなっていた。
ご多分にもれずあたしも友達と観に行って、はからずもちょっと泣いてしまったものだ。
「……あ、でも昨日ちょっと思ったよ。マーロウさんがお姫様を“ひいさま”って言ってたでしょ。なんか時代がかってるなーって」
「コズサ姫ねえ。あんたと同い年よ」
「そーなんだ」
「だから前会った時は三歳か。その頃からね、なんかオーラが違ったわよ。高貴なお方ーって感じのなんかが出てたよね。きりっとしてて、背筋も伸びててねえ。あんたなんかふにゃふにゃの甘えん坊だったんだけどね」
ふうん。
おかーさん、ここじゃ『異世界人のパン屋』なのになんでお姫様に会ったんだろう。
もしかしてお忍びでご来店、とかするんだろうか。
「それがもうお嫁入りだっていうんだからビックリよ。人の子の成長は早いっていうけど、このことかーってね。
しかも聞いた? お相手、年下ですってよ」
菓子パン生地にクッキー生地をかぶせ、ナイフで模様をつけながら、母の口調は完全に『近所のおばちゃん』だ。あたしも食パンとコッペパンをオーブンに移しながら耳を傾ける。
女同士で良かったのは、こーゆー時間だ。
母と娘のおしゃべりクッキング。
これが男同士だったりしたら、厨房はやっぱり静かなんだろう。
「そうそう、私午後はいないからね。店番頼んだよ」
「えっ」
思わぬ言葉にあたしは母の方を見た。メロンパンを発酵室に入れてタイマーをそれぞれ確認し、コック服を脱いで壁のフックに引っかけている。
異世界営業初日で留守番って。
ちょっとー嫌なんですけど……何か事件とか起きちゃうんじゃないの?
「なんで、どこ行くの?」
「役所。トリップしましたって言いに行くの」
「なにそれ」
「前回そう言われたんだよ、ちゃんと開業届出してくれって。いきなり現れて商売始めて『怪しい奴らめ、引っ立てい!』なんてなったら困るでしょ。
何事にも根回しが肝心ってこと。
日本だろーが異世界だろーが、結局はコミュニケーションが胆だってことよ」
この世界では、パン屋が異世界からトリップしてくることがフツーに受け入れられているらしい。
……ホントにー?
あたしは首を傾げたけれど、それは代々トリップしてきたご先祖様の努力の賜物なのかもしれない。子孫がいつトリップしても困らないように、きちっと根回し……いやーそんなの聞いたことがない。
母は厨房を出て、今度は洗濯機を回しに行った。
主婦の仕事には終わりがない。
あたしはお湯を沸かしてマグを二つ出した。食パンが焼きあがったら朝ごはんだ。
「おかーさん、食パン何枚切り?」
洗面所の方から『六枚ー!』と母の声。
この異世界にはドラゴンも魔王も勇者もいないっぽい。今のところ、昨日までと何も変わらないパン屋の朝だ。
……ま、いっか。平和だってことだもの。
厨房はだんだんと香ばしい小麦の香りで満ちてくる。
あたしが一番好きな時間だ。
「おかーさん、珈琲入れとくね!」
洗面所の母は『サンキュー』と答え、お風呂場の掃除を始めたようだ。
大丈夫、暮らしていける。
友達に会えないのは寂しいけれど、おかーさんも一緒だし、大丈夫。
パンも焼けた。よし、いつも通りの朝ごはんだ。
バターとジャムと冷蔵庫にあったアスパラを添え、あたしは母を呼んだ。
「できたよー!」
「よーし、じゃ食べようか」
手を拭きながら母も来て、あたしたちはいつものように食事を始めた。
平和な朝。
そう、この時はまだ。
あたしは信じ込んでいた。
この異世界はきっと平和で、トラブルなんて何もないのだ──と。