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047:宣下

「……うそでしょ」


 唇から洩れた声は震えていて──それを聞いたら、体まで震えてきて。

 念を押すように、あたしの口はもう一度呟いていた。


「うそでしょ」


 岸に残ったのはひっくり返った自転車と、曲がった樫の杖を抱えたままの、あたし。

 湖面を波紋が揺らし、少し離れたところにコジマくんのとんがり帽子がプカプカ浮いている。

 他には何も見えない。


「……姫様」


 だいじょうぶだよね。

 だって、すぐにアルゴさんが飛び込んだもの。それにレオニさんも。


「コジマくん」


 早く浮いてきてよ。あたしのことカナヅチだなんて笑ってたけど、自分だって同じじゃない。


「レオニさん」


 溺れそうになったら、動かずにじっとしてれば浮きますから。

 そう、言ってたよね。だいじょうぶだよね。

 だってレオニさんが溺れるところなんて想像できない……いや、泳いでる姿を見たわけじゃないけれど。


「アルゴさん」


 だって近衛士の精鋭なんだから。

 アルゴさんが、そう言ってたんだから。

 あの妙に人間離れした、時に鬼神のようですらあるアルゴさんが──なのに、そのお墨付きを与えた張本人が上がってこない。


 あたしは震える手で樫の杖を握りしめ、四人が消えた崖のふちから恐々と湖を覗き込んだ。

 まるで鏡のようだ。

 日差しを反射して、青い空を映して、水の中は何も見えない。

 水面に映る空がざわざわと風に乱れ、あたしはぞくりとしてコジマくんの杖を胸に抱いた。

 まさかこのまま上がってこないなんてこと──ないよね?

 このまま四人沈んじゃって、あたし一人でここに残されるなんてことは……


 ……ちょっと! 絶対やだ、そんなの!!


 怖い想像にじわりと目の前の景色が滲む。

 鼻の奥がツーンと痛い。


「みんな……帰ってきてぇぇ」


 絞り出した声は情けないことに語尾が震えて、目頭に涙がじわりと溜まる。

 だってちょっと長くない?

 沈んでから長くない?

 水難救助の平均時間なんて知らないけれど、いてもたってもいられない。だけど体が動かない。

 ──怖いんだ。

 何日か前に自分がネト河で溺れた時も、勿論それなりに怖かった。でも、その時よりも今の方が怖い。

 残されるのが怖い。

 一人が怖い。

 

「お願い……」


 声を絞り出すと、ついに涙がこぼれて落ちた。

 崖のふちにへたり込み、あたしは両手を合わせた。


「お願い……」


 できることなんか何もない。神頼みくらいしか残ってない。

 お願い。

 もしも。

 ああ、もしも、この湖にも“主”がいるのなら。


「お願い、皆を飲まないで……!」


 両手を合わせ、ぎゅっと目を閉じ、あたしは湖に向かって頭を下げた。

 お願いだから。

 何でもするから。

 皆を返して。

 お願い、お願い、お願いだから!!


 ──ごわあ──


 あたしはえっ、と顔を上げ──そこに湖面を渡る風がぶわっと吹きつけた。

 その冷たさに身震いした次の瞬間。


「う……わッ!?」


 もっと強い風にあたしの体はひっくり返った!

 ごうごうと唸るような音がする。吹き荒れる風に、見上げれば天に渦巻く黒い雲。

 乱れる髪を片手で押さえると、「ごごご」と湖面が鳴り始めた。そちらに視線を転じれば、波立つ水面が白く激しく渦を巻く。

 天と地に、二つの渦。

 ぐるぐると。

 ごうごうと。

 突然の天変地異にあたしは目を瞠った。これはいったい何が起きてるの。


 そのとき──ごう、と大地を揺るがして、一本の水竜巻が空へと巻き上がった!


「……うそでしょ」 


 あたしはひっくり返ったまま半分腰を抜かし、それを見上げていた。

 ただ呆然と。

 水の柱は空を切り裂き、黒い雲を貫いた。

 光が射し、あたしは逆光に目をすがめ──その光をバックに豆粒のような影が舞うのを、いくつか発見し──

 ほんの一瞬「あれ、もしかして」と思った時には、その影はトン、とあたしの隣に着地していた。

 嘘みたいに身軽に。

 驚くほど華麗に。

 その腕に小さな主を、文字通りお姫様抱っこして。


「アルゴさん……!」

「うむ」


 その腕の中で、コズサ姫が小さく咳き込んだ。


「姫様ぁぁ」

「ン……けほっ」


 続いて、受け身を取りながらもう一人。片手から腕、肩、背、と着地の衝撃を和らげながら回転し、パッと体を起こす。

 その姿を見たとたん涙が──どころか、鼻水も──すこーし出てしまったのは、しょうがないことだと思いたい。


「レオニさぁぁん」

「サトコさん! すいません、心配かけて」


 そして最後に、紫色のカタマリが錐もみ回転しながら落ちてきた。

 べちゃっと顔面で着地し、草と土まみれの顔を上げる。


「コジマくん! だ──だいじょうぶ?」

「りゅ、龍が……」


 むせながらそう言うと、コジマくんはよろよろ体を起こし、さめざめと泣き始めた。遅れて落っこちてきたとんがり帽子をかぶり直し、ぐすぐす鼻を鳴らす。

 あたしはハッとして湖を見つめた。水竜巻は厚い雲にポッカリと穴をあけ、そこから光の柱が渦のど真ん中へと伸びている。

 まるで宗教画だ、と思ったその時だった。


 ──ごわあ──


 轟音とともに、“それ”が渦の中央から姿を現した。

 鹿のような角。口元に髭。あたしの頭よりも大きな目玉に、長く大きな体。光の柱の真ん中で一つ一つの鱗が光る。

 誰かが呟いた。


「……湖の主……」


 完全に、腰が抜けた。


 動けず喋れず、あたしは目の前の巨大な生き物を見上げていた。

 ちょっと正直なにも考えられない。

 うわぁーとか、大きいなぁーとか、そんなことすら出てこない。

 知ってか知らずか“主”はあたしたちをじっと見ている。巨大な口を半分開き、眼を炯々と光らせて。

 呆然と見上げたままのあたしの傍らで、泣くのをやめたコジマくんがぼそぼそっと耳打ちした。


「サトコさんを……ぐすっ、見てますよ」

「え」

「お礼言って、ほら早く! 呼んだのサトコさんでしょっ」


 別に呼んだわけじゃ……そう言いかけて振り返り、あたしはその場の空気に息を飲んだ。

 あたし以外の全員が、その巨大爬虫類にひれ伏していた。

 膝を折り、両手をついた礼拝の姿勢で──なんと、コズサ姫までもが。 


 こ、これは。


 前を見て、後ろを見て、また前を見る。ひれ伏す人々と巨大な龍──こうなったらもう理解せざるを得ない。

 だって、ここは龍の(しま)

 目の前にいるのは“神の眷属”。

 つまるところ、さっきの神頼みが見事に通じたということで……でもこれ、ほんとにあたしが呼んだの?

 あたしはパン屋だってこと以外、非常に平均的な十八歳のはずなのだ。

 魔法使いでも何でもないし、不思議なパワーみたいのもないし、しかもこの世界の住人ですらない。

 ファタルの龍は大きな目玉でじっとあたしを見つめている。

 あたしが呼んだから。

 うぅぅ、そうなんだろうな。コジマくんもそう言っている。

 だったら──


「えっと、あの……松尾サトコといいます。本当に……その、ありがとうございました」


 ──だったらちゃんと、お礼を言わなければ。

 あたしはそわそわと姿勢を正し、正座した。

 通じるのかな、あたしの言葉。

 コジマくんがネト河の主に語りかけたような、祝詞のような呪文じゃなくても通じるのかな。

 わからないけど、きちんとしなければ。

 届くように大きな声で、伝わるように、ちゃんと。


「皆を助けてくれて、ありがとうございました!」


 それから深く頭を下げた。


 ──ごわぁ──


 轟音というには優しげな響きが耳を打つ。ごごご、と水音が渦を巻く。

 下を向いてるから見えないけれど、でもわかる。

 龍が帰っていく。近いようで遠い、その棲み処へ。

 それは昼ごろコジマくんが話してくれた迷宮の如き龍の通路(みち)──古代の龍神の悲恋の跡だという──かどうかは、わからないけれど。


 気配がだんだんと遠くなり、小さくなり、やがて雲が切れて光が射し、青空が戻って来る。

 龍は帰っていったのだ。 

 静けさを取り戻した湖の畔で、あたしたちはずっと平伏していた。


 くしゅん、と可愛いくしゃみが聞こえるまで。


「さむい」


 と呟いてコズサ姫は身を縮めた。

 あたしは龍に遭遇した衝撃で放心状態だったんだけど──ハッと顔を上げた。

 みんな、ずぶ濡れだ。水も滴るナントカっていうけど、これだけ濡れた状態でさっきみたいな風に吹かれたら体を壊してしまう。

 姫様の唇なんか、ほとんど紫色だ。


「ひいさま、お風邪を召しまするぞ」

「うん……」

「あ……あたし、お着替え取ってきます! や、それよりお風呂に」


 そのとき何かの影が横切った。

 アルゴさんの傍らで、コズサ姫がふっと顔を上げる。

 ぱさっぱさっと空を切る翼の音。舞い降りた白い平和の使者は、あたしが持った魔法使いの杖の先にチョコンと留まった。


「ポッポちゃん」


 戻ってきたか、とアルゴさんが呟いた。

 コジマくんが「お帰りポッポちゃん、さっきの見た? 見た? すごかったねぇビックリしたねぇ」と言いながら指を伸ばす。ずぶ濡れのローブが重いのか、肘まで袖をめくりながら。

 そちらにピョンと移ったポッポちゃんがくるくる喉を鳴らすと、コジマくんは「ん、ん、なぁに?」と問い返し──「えっ?」と目を瞠った。


「弟子よ、鳩は何と」


 コジマくんはアルゴさんを見て──ポッポちゃんを見て──なぜかあたしを見て──「ちょっと」とアルゴさんを手招きした。コズサ姫が訝しげに眉をひそめる。

 なんだろう。

 姫様から一歩離れたアルゴさんに、コジマくんは何やら耳打ちした。

 途端、アルゴさんの顔色が変わる。


「確かなのか」


 訊ねた相手は白い鳩。


「僕のポッポちゃんは嘘なんかつきませんよ」


 横槍を入れたコジマくんの声も、いつになく険しくて。

 なに。

 なになに。

 あたしは正直さっきの龍のこととか、もう少し落ち着いて考えたい気分なんですけど……

 まずいことですか、とレオニさんが問う。エードで何かありましたか、と。

 その問いかけにアルゴさんは「いや」とかぶりを振った。

 そして静かに──だけど極めて厳しい声で──言った。


「西の大王(おおきみ)が、退位を御宣下(せんげ)あそばされた」


 ……

 …………

 

 …………えっ?

 

 つかの間、その場を沈黙が支配した。

 皆が口をつぐむ。もちろん、あたしも。


「まことかッ」


 その沈黙を破ったのはコズサ姫だった。鈴のような声を震わせ、口許に手をやり──目を見開いて。


「まことに、まことに、大王様が御退位なさると……」

 

 忠実なその人の襟元を、ぎゅっと掴んで。


「ま、本当(まこと)に、御退位あそばすとッ」

「……まだ、御宣下がありましたばかりに御座います」


 頭からぐっしょりと濡れそぼち、青みすら感じるほどだった頬に赤みがさす。

 ゆらゆらっと立ち上がり、コズサ姫は天を仰いだ。

 そして、わぁッ、と声を上げた。


「大王様が、御退位あそばす……!」


 その場でくるくると回り、コズサ姫は飛び跳ねた。

 渦が消え去り、さざ波ゆらめく湖に向けて「わーっ!」と叫び、小さな両手で顔を覆う。


「ならば……ならば、わらわは」


 肩が震えている。

 前のめりになり、座り込む。


「ならば、わらわは! 何処にも行かぬ!! 何処にもじゃ!!」

 

 美しい湖は静かに凪ぎ、春の光にきらめいている。

 その畔で、エードの姫が泣いていた。

 泣きながら、笑い、震えていた。


 ──しばらく、そうしていた。


 







 そのあとのコズサ姫はなんというか、だいぶハイだった。


 あたしと一緒にお風呂に入り──これが天然温泉かけ流しのすっごくいいお湯で、あたしもシッカリ温まったんだけど──その間じゅう、ずーっと喋ってたし。

 コジマくんと夕飯の支度してたら、厨房に来てやっぱりずーっと喋ってたし。

 あたしが貸した日光のガイドブックを開いて、「サトコどののいたところは荘厳な寺社があるのじゃのう」って感心したり。

 湖の写真を眺めて「ここにも龍神がおわすのか?」と訊ねたり。

 大きな滝のページを開いて「明日はこれを見に行く!」と言いだしたり──そもそも日光は華厳の滝みたいなのが、ファタル(ココ)にあるのどうか不明だけど。


 姫様は明らかに、西の大王(おおきみ)の退位を喜んでいる。


 でも、誰も一緒に喜ばなかった。

 かといって喜びに釘を刺すこともできなかった。

 お喋りな魔法使いの弟子でさえ曖昧に言葉を濁すだけで──あたしとコジマくんとレオニさんは息をひそめるように、アルゴさんの顔色を伺っていた。

 もしかしたら、それはコズサ姫も同じだったかもしれない。


 だって姫様は、アルゴさんにも喜んでほしいはずで。

「よう御座いました」と笑ってほしいはずで。


 アルゴさんがそうしないということは答えは一つ。


 喜んではいけない、ということなのだ。




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