044:自転車 一
サドルに跨り両手でハンドルを掴んで、コジマくんはクルッとあたしの方を振り返った。
「サトコさん、ぜったい手ぇ離しちゃダメですよっ! 離しちゃダメですからね!」
「わかったわかった」
「うそ、離す気でしょ! 顔に離すって書いてあるーっ」
疑り深いわねぇ、と言いながらあたしは自転車の荷台を両手で掴む。
「大丈夫だって離さないから。ほら、漕いでみて」
緊張した面持ちのコジマくん、ゆっくりとペダルを踏み込んでいく。
『狩りの城』から臨む湖畔、あたしたちはそこで自転車の練習をしていた。
「イヤーッ、よろけるよろけるっ。湖に落ちちゃう!」
鴉を撃退し、距離と沈黙を守りつつ、あたしとレオニさんは『狩りの城』へと戻ってきた。
それがほんの数分前のこと。
ちょっとお部屋に引っ込んで、頭ん中を整理したい……とか思ってたんだけどなあ。
コジマくんが許してくれなかったのだ。「サトコさーん、自転車教えてくださいよー」と言いながら容赦なくあたしを城の前庭にひっぱって行き、そのまま自転車講習がスタートした──そして現在に至るというわけ。
「湖見てるからハンドルがそっち向いちゃうのよ。行きたい方見るんだってば」
ちなみにレオニさんは、戻ってすぐアルゴさんのところへ報告に出向いた。
あたしもあとで呼ばれて「詳しく聞かせろ」とか言われるんだろうな……んー、ちょっと気が重い。
「だって! だって! よろよろするんだもん!」
「それねえ、自転車じゃなくてコジマくんがふらついてるのよ」
「わかってますよう、わかってますけどー!」
コジマくんとあたしは、お城の前を行ったり来たり。
だんだん汗ばんでくるけれど、目の前の大きな湖から風が吹きぬけてきて気持ちがいい。
そうだ、今は亡きあたしのおとーさんも、こうやって後ろで自転車支えてくれたっけ。小さかったあたしは「ぜったい離さないでね」って何度も何度も念を押して、それをおかーさんが店の前でけらけら笑いながら見てて……それにしてもこの体勢、腰にクルわー。
「サトコさん、サトコさんっ」
「手ぇ離してないわよー」
「違う違う、そうじゃなくって!」
コジマくん、急にブレーキを握る。あたしは前につんのめり、ドン、とその背中に顔をぶつけた。
「なによぉ、急に止まったりして……」
「レオニさんと何かあったでしょ」
ぎくっ。
「な……なな、なんでそう思うの」
「見りゃわかりますって。
出て行くときは星屑散りばめたよーな目をしてたくせに、戻ってきたら死んだ魚みたいになってるんだもん。レオニさんも何だかどよーんとしちゃってるし、どうしたんです? ケンカでもしました?」
別にケンカなんかしていない。
してないけど──鴉がレオニさんを焚きつけたあの場面。あれがどーにもこーにも、脳裏をちらつくのだ。
下を向く矢じり、急速に光を失う瞳、何も映さない横顔──たぶんそれを、レオニさん自身ハッキリと覚えている。
飲まれかけた瞬間が、感覚が、光景が、なんとなーくあたしたちに距離を取らせたのだ。
「僕ねぇ、ホントはついて行こうと思ったんですよ“境界”まで。
でも遠慮したんです。だってほら、そろそろ二人っきりになりたい頃でしょうし、ファタルは言ってみりゃ別荘、リゾート地ですよ。お城じゃーさすがにアレですけれど、木陰なり湖畔なりお好みの場所で燃えるようなアバンチュー……いたっ、何するんですかもー!」
「何もしてないわよっ、れれ、練習するんでしょ!? 漕いで、さあ漕いで!」
コジマくんはズレて落っこちそうなとんがり帽子を直し、「サトコさんひどーい」と口を尖らせる。
んもー、この子は!
アバンチュールなんて言葉、一体どこで覚えたんだろう。この昭和を感じる言葉のチョイスがまた妙にヤラシイのだ。若いくせに。
でも、とあたしは考える。
もしもあの時コジマくんが一緒だったら、どうなっていただろう。本人はあたしとレオニさんに遠慮した、なんて言ってるけれど。
ついて来てもらった方が良かったのかもしれない。
そりゃあね。
もう、起きてしまったことだけど。
「ねえコジマくん」
なんですー? とコジマくんは振り向かずに返事をする。よろよろペダルを踏みながら。
魔法使いの“使い鴉”が絡んでいるのだ。レオニさんの報告はきっとアルゴさんを経由して、この魔法使いの弟子にも伝わるだろう。
だったらあたしが今相談しても、問題は無いはずだ。
「魔法使いってさ、人を呪うこともできるの?」
ドン、とまたしても紫ローブの背中に鼻先をぶつける。
なによう……と言いかけて顔を上げると、魔法使いの弟子は「何言ってんですか」と言わんばかりの目つきでこちらを凝視していた。
「何言ってんですか」
「あ、本当に言った」
「呪いだなんて。何のためのどんな呪いにしても、下手すりゃ命取られますよ」
「命を取られる?」
なにこの不穏な響き。コジマくんはキーコキーコと車輪を軋ませながら、解説を続ける。
「魔法の行使というのはですね、サトコさん。命を削って行うんです。
魔法をたくさん使った日はものすごく疲れますし、たっぷり寝ないと翌日動けません。そりゃあ僕みたいに極めて稀な優れた資質を有するなら別ですけれど、例えば姫様のように最近魔法を使うようになった所謂『素人さん』なんかは大変ですよ。
無理するとアッとゆーまに体壊します」
「ねえ、それなんだけど」
自転車を支えながら、あたしは以前からの疑問を思い返した。
「姫様はどうして魔法を使えるようになったの? 元々ふつーの人間なんでしょ」
「ええ、そうです」
大きく蛇行しながら、手ぇ離しちゃダメですよっ、と付け加える。
離しませんけど、ああー腰が痛い。
「姿を子どもに変える魔法がとてつもなく強力だったんでしょーね。副作用みたいな感じで姫様ご本人に魔力が備わっちゃったんです」
「魔法の薬の副作用で、頭が冴える……みたいな感じ?」
「ま、そんなトコです。もちろん魔力が備わったと言っても、本チャンの魔法使いに比べれば微々たるもんですよ。
そもそも魔力というのはですね、己の生命の一部が燃えて出来る、その火の粉みたいなもんなんです。たくさん燃やせば当然、燃料だって早く無くなります。これはもう魔障と言い換えてもいいでしょうね」
「魔障?」
「ようするに普通のお人であったコズサ姫は、無理して魔法を使ってるんですよ。ご健康を損ね、ご寿命を縮めながら」
「すごくまずいんじゃないの、それ。初めて聞いたわよそんなの」
「だって聞かれなかったもん」
そりゃーそうだけど……そっか体に良くないのか、魔法って。
そういえば姫様、上様の執務室で急に眠り込んだりしてたっけ。あれもひょっとしたら、魔法疲れのせいかもしれない。
よろよろフラフラ自転車を漕ぎ、ある程度進んだところでUターン。上手く曲がれず妙に大きくカーブしながら、コジマくんの解説は続く。
「魔法使いにとっちゃ、今の話は常識です。ま、ふつーの人にはあんまり関係のないことですけどね。
そもそも、姫様に魔法がかけられたこと自体が国家機密なんですから……ですからね、政治的な向きとはまた別に、姫様のお体の為にもかかった魔法は解かなくてはいけないんです。偶然の産物とはいえ、これもまたある種の呪いと言えるかもしれません」
たしかにそうだ。
魔法を使える、なんてワクワクしそうだけど──体を壊すとか寿命が縮むなんて聞いちゃったら、ねぇ。
呪いじみてるじゃない。
コズサ姫はいいんだろうか。
目隠し魔法を大盤振る舞いしてるけど、寿命が縮むの嫌じゃないのかな。
だって今のコジマくんの話だと、普通の人間が魔法を使うってゆーのは、言ってみれば緩慢な自殺をしてるようなもので……いやいやなんて不吉な考え、縁起でもない!
あたしはぶんぶんと首を横に振った。
まさかまさか、あの朗らかな姫様がそんなこと。先日その本音の一部を聞いてしまったけど、いくらなんでも自殺だなんて。
「でもね、本当の呪いはかける方も大変なんです。普通の魔法は現象に作用しますけど、呪いってヤツは運命や宿命に作用しますから。術者の運命や宿命も影響を免れないし、人ひとりの在り方を変えるには大層な犠牲を払わなければいけないんです。それが術者の命であれ、運であれ、他の大切な何かであれ──ま、平たく言うと『人を呪わば穴二つ』ということですね」
「なんだかチンプンカンプンだわよ……」
「で、なんでサトコさんは呪いのことなんか聞くんです?」
そうそう、それだ。
もはや何が話の本筋なのか見失いかけてたけど──あたしは声を潜め、呟いた。
「来たのよ“境界”に。鴉が」
鴉? とコジマくんは訝しげに繰り返す。
「覚えてるでしょコジマくん、温泉で襲ってきたおばさんのこと。『鴉に声かけられた』って言ってたじゃない、たぶんそれと同じヤツよ。本当にあのおばさんの言った通りでね、鴉の声なのに言葉に聞こえるの。ガァガァ言って『エードの近衛士か、知っておるぞ』って。
しかもとんでもなくヤラシイ鴉でね、その、姫様のことを……」
鴉の言葉を思い出し、あたしは言い淀む。とてもじゃないけど自分の口からは再現できない。
というか、したくない。
「……とにかく、あの黒い鳥はレオニさんを唆したの。姫様に悪いことするようにって」
「悪いことって? 穢してしまえとか、夜這ってしまえとか?」
「やーねぇ、せっかく伏せたのに」
するとコジマくん、「はあぁぁー!?」と声を上げて振り向いた。
「ちょっと! それ本当に? とんでもないことですよそれ!」
「ま……前見て前! 倒れる倒れるーっ」
「前なんか見てられますかっ! それでソイツどうしたんです、まさか呪いをかけてそのまま飛んでったなんてことはないでしょーねッ!? そもそも言葉というのは一番簡単な魔法であり、かつ同時に呪いでもあり、使い方如何によっては本当に本当に強力な」
「代わりましょうか、サトコさん」
ポンと肩に手がおかれ、かけられた声にあたしは硬直した。
──瞬間、「ガシャーン!」とか「キャー!」とか聞こえた気もするけれど。
「レ……レレレレオニさんっ」
レオニさんはあたしの肩にそっと手を置き、昼下がりの眩い日差しに目を細めながら、あたしを見つめていた──いつも通りの、やわらかい笑顔で。




