043:鴉(カラス)
いったい何がどうなっているんだろう。
あたしの記憶に間違いがなければ、コズサ姫が子どもになったのは悪い魔法使いの仕業のはず。
次元が歪んで、次元の通路が開いて、西の都とコズサ姫の箪笥が繋がって……そこから悪い魔法使いが出てきた、と聞いたのだ。しかもそれはマーロウさんの実の兄。
だって、マーロウさんがそう言っていた。
「神域の“境界”について、サトコさんに説明してませんでしたね」
でもさっきレオニさんから聞いた話だと、受ける印象がまるで違う。
箪笥から出てきたのは悪い魔法使いじゃない、コズサ姫だ。
大人の姿で箪笥に入り、子どもの姿になって戻ってきたのだ。
「自分は魔法使いではないので詳しくは無いのですが……あれはエード城の城門と同じ、守りの魔法のようなものだそうです」
つまりコズサ姫は、箪笥の通路のその先で魔法にかけられたんだ。
自分がこれからお嫁に行くはずの、西の都で。
「神域の“境界”はファタル霊廟の神職方が作ったものです。エードの守り神となられた先代様のお力を借りて」
──そのことを、アルゴさんは知っている。
コズサ姫が箪笥から出てきた、その現場に居合わせたのだから。
上様はきっと知らないだろう。
マーロウさんは……アルゴさんが話してなければ、やはり知らないだろう。
「“境界”はエードに仇なすものを受け入れません。悪意ある魔法は消し去ります。害をなす可能性のある武器、刃物の類も寄せ付けません」
でも、なんで?
どうして秘密にしているの?
言えばいいじゃない。言わない理由が、あたしにはわからない。
「猿の襲撃が突然止んだのは、群れにかかった悪意ある魔法を“境界”が打ち消したからです。もしかしたら、コズサ姫の御身にかけられた魔法も“境界”の力で消え去るのではないか……という思惑も、実はあったようですけど」
無意識にいじっていた鬼の眼から、あたしは手を離した。
神域の“境界”は、悪意ある魔法を消し去る──なのにコズサ姫の姿は子どものまま。
じゃあなに。
姫様にかけらた魔法は、『悪意なき』魔法だってこと?
「ほら、見えてきました」
ああー誰かに相談したい。
でも誰に?
姫様に直接訊いてみる?
本当は何があったんですか。
どうして本当のことを黙ってるんですか。
誰が何を、どこまで知ってるんですか。
──でも聞いたら最後、藪を突いて蛇を出しそうだ。いやー訊けない、とてもじゃないけれど。
「着きましたよ。ここが“境界”です」
レオニさんは足を止め、あたしは顔をあげた。堂々巡りの思考が一旦ストップし、意識と視線は目の前の景色へ。
ああ、ここ──覚えてる。
長い長い、どこまでも続くような杉の並木道。
そうだ、疾走する馬車で頭っから毛布を被り、猿に追われてみんなボロボロで……ここで“何か”を、くぐった。
「ねぇレオニさん」
「はい」
「……猿、もう来ませんよね?」
「大丈夫ですよ」
「本当に?」
「ええ、本当です」
レオニさんはそう言うけれど。
いやー、どうしたって思い出してしまう……猿たちの爪、牙、咆哮。
ああもう完全にトラウマだ。
もしも日本に戻って動物園とか行く機会があっても、猿エリアだけは心底遠慮したい。今はそんな気分。
「だってあの時、本当に怖かったですもん。猿の声凄いし、力も凄いし、数も凄いし。なのにコジマくんは寝てるし、アルゴさんは齧られてるし、レオニさんも完全に丸腰だったし」
「でもサトコさん、自分が剣を持って猿を次々串刺しにするところなんて見たいですか?」
「や、それは勿論イヤですけど」
げんなりした顔のあたしを見て、レオニさんは微笑んだ。
「隊長と自分が武器らしい武器を持たなかったのにも、ちゃんと理由があるんですよ」
「理由?」
「刃を身に帯びていては神域に入れませんから。持ち出すことはできても、持ち込むことはできないんです」
レオニさんが語るところによると──
コズサ姫のご滞在に備え、ファタルの神職さんたちはまず神域の拡大をはかったそうな。
姫をお守りできるよう、より強く。より広く。
そしてエード城にはこう伝えた。『“境界”は杉の参道の上、万が一にも漏れてはならぬゆえ詳しい在り処は控え申す』と。
知らせを受けとり、アルゴさんは言った。
「道中、刺客は必ずある。どこで仕掛けてくるかはわからぬが、最後は必ずこの杉並木であろう」
理由はこう。
長い一本道を往くあたしたちの姿は、遠くからでもすぐわかる。逆にあたしたちからは、杉並木に身を隠した刺客の姿は見えない。
それに“境界”がこの道のどこかにあると敵も遅かれ早かれ気づくだろう。ここで決着をつけなければ、コズサ姫を狙う機会は失われる。神域に入られては終わりなのだ。
「もし武器を持ったまま“境界”をくぐろうとしたら、どうなるんですか?」
「刃ごと消え失せます」
「消え失せる?」
「あとでちゃーんとお見せしますよ」
どのような手段で襲いくるとも、取るべき手立ては只一つ。一刻も早く神域に駆け込むこと──そのようにアルゴさんは判断した。
もちろん、その気になれば返り討ちにすることだって出来るだろう。
しかしコズサ姫を背に庇いながらの大立ち回りは、賢いとは言い難い。そして武器を手にしたまま“境界”を抜けることはできないのだ。直前で剣を捨てるにしても、この道のどこに“境界”があるかはわからない。
──ならば初めから、武器を持たない。
アルゴさんは思案の末、それを選択した。
「それに、武器の有無はそれほど問題ではないんです」
レオニさんは一歩、前に出た。そして弓を持たぬ方の手をすっと上げ、“境界”に触れた。
何もない空間に波紋が浮かぶ。レオニさんが触れたところを中心に、いくつも円を描いて。
まるで見えない水の壁。
「お忍びの姫に刺客を放つとして、大軍を寄越すでしょうか。来るとすれば少人数です。徒手空拳であっても、立ち向かうことは充分に可能でしょう。もちろん猿が来るとは思いませんでしたが……それに」
レオニさんは振り返り、言葉を続けた。
「大切なのはただ一つ。決して、お側を離れないことです」
隊長からの受け売りですけどね。そう言って、やわらかく笑う。
ぶる、とあたしは身震いした。
何に震えたのかはわからない。わからないけど両手で自分の体をぎゅっと抱いた。
それは何か、予感のようなものだったのかもしれない。
「ちょっと『そちら側』で待ってて下さい」
そう言うとレオニさんはまた一歩踏み出し、“境界”を越えた。
あっ、と追いかけようとして、あたしは足を止める。
レオニさんはくるっと振り返り、“境界”を挟んで真正面にあたしの方を向いた。
「そこにいますか、サトコさん」
あたしは一つ頷いた。
「こちらからはサトコさんの姿は見えないんです。ただ杉並木が続いてる……そのように見えています」
「あ、そうなんですか?」
「もちろん、声も聞こえません」
そうなんだ。
見えてないし、聞こえていない、はずなのに。
レオニさんの目の焦点はぴたりとあたしに据えられている。わかるんだろうか。不思議。
「そこにいますか、サトコさん」
もう一度訊ね、レオニさんはすっと指を伸ばした。
また波紋が現れる。
円の中心から、レオニさんの手が『こちら』にやって来る。
あたしを招くように。
こっちにおいで、と。
自分の体を抱いていた腕を解き、あたしはレオニさんの手に自分の手を重ねようとして……
──ハッ! と我に返った。
い……今あたし、何しようとしてた?
ももも、もしかして、手をつなごうとしてた?
えー。
ええー!
いやぁーそれは、ちょっとそれは、付き合ってもいないのに手をつなぐっていうのは、どうなんだろう。まずくない? まずいよね?
や、でもスルーするのもどうかしら。傷ついちゃうか。じゃあだめだ。いやいやそんな、思い上がりも甚だしい。
そりゃねえ、あたしとレオニさんは仲が悪いわけじゃないですし? むしろ仲良い方ですし。それに一緒にいると落ち着くというか、和むというか、安心感があるというか、時が経つのが早くてそれがすごく勿体なくて、ああでも、でも……
でも──住む世界が、違う。
「来てください。こちらへ」
この手を取ったら。
この手を握って『あちら側』へ行ったら。
きっとあたしは帰れない。
日本には帰れない。
もう、元の暮らしには戻れない。
根拠なんかない──だけど、そんな気がする。
「来てください」
じゃあどうすればいいの?
この差し出された手に、触れたらだめなの?
呼ばれても応えてはいけないの?
ほんの一言でも。
ほんの一瞬でも。
結果がどうであっても。
「……レオニさん、あたし」
「下がって!」
刹那、レオニさんは鋭く叫んであたしを突き飛ばした。
「そこにいて。来てはいけない」
盛大にひっくり返ってしりもちをつき、思わず「あだっ!」と声が出る。
なになにどうしたの、何なのいったい──強かに打ったお尻をさすりながら、あたしはぎこちなく体を起こした。
そして見た。
『こちら』に背を向け、弓に矢をつがえるレオニさん。
ぎりりと引き絞ったその先に──
──巨きな、黒い鴉。
しわがれた声で「ガァァ」と鳴き、そいつは杉並木の真ん中でレオニさんと対峙していた。
『エードの姫はいずこにおわす』
ガァァー ガァ ガァァァー
『其の方、エードの近衛士か。知っておるぞ。知っておるぞ』
かなり立派なサイズの鴉だった。
黒く大きく、羽が濡れたようにツヤツヤ光っている。
目をクリクリさせて首を傾げるそいつに、レオニさんは構えを崩さず矢を向けている。
『知っておるぞ。知っておるぞ。
姫のおわすところにその人ありと知れた近衛の長じゃ。姫をお守りすること十年、攻めても攻めても難攻不落、守りに守り、守りぬく。名を何というたかその男──』
耳に入るのは鴉の声なのに。
頭に届くときには、言葉になっている。
真っ黒なそいつはピョンピョンと地面を飛び跳ねる。楽しそうな、馬鹿にしてるような──そんな動きで。
『そうじゃ。アルゴというたな、其の方か』
レオニさんは答えない。引き絞った弓はそのままに。
『なかなかの男ぶりと聞き及ぶ。見れば噂はまことのようじゃ。弓引く姿も佳きかな。佳きかな』
なにこれ。怖い。
全身から血の気が引き、あたしはただ青ざめて座り込んでいた。
頭の中に直接語りかけるこの黒い鳥が、恐ろしい。
『姫に仕えること十年、親なく、子なく、妻も無し──寂しゅうはないか。悔しゅうはないか』
鴉は翼を広げバサバサと羽ばたいた。高く飛び、すーっと降りて、ぐるぐると旋回する。
レオニさんはつがえた矢で、上空のそいつの影を追う。
『姫は御年十八か、さぞや美しゅうあらせよう』
そして鴉は、ささやいた。
『──抱きとうないか』
畳みかけるように。
『其の方、姫を抱きとうないか』
すぅっと胸のあたりが冷えていく。同じだ。あの時と同じ。温泉宿の大浴堂で、おばさんの魂を目にした時と。
おぞましい。
聞きたくない。
早く射ってレオニさん。そいつの言葉に、耳を貸さないで。
『白く輝く柔肌に、紅く艶めく唇に、己のその手で触れとうないか。鈴振る声で哭かせとうないか。其の方の名を、呼ばせとうないか』
矢じりがゆっくり下を向く。
あたしはハッとして鴉から視線を外し、レオニさんの顔を見上げ──そして、息を飲んだ。
『他の男のものになるのを、指を咥えて見ておるか。指を咥えて見ておるか』
表情がない。目の光が褪せてゆく。
姿が翳る。
おばさんの魂が翳って揺らめいたように。
『姫は待っておるぞ。其の方に抱かれとうて、抱かれとうて、堪らんのよ。
往け。奔れ。猛っておるのじゃろう。狂わんばかりに燃えたぎる己の血を、姫に注いでやればよい。姫が待っておるぞ……今宵じゃ。今宵じゃ。姫は其の方を、待っておる』
鴉は頭上をぐるぐる回る。レオニさんはそれを、見ていない。
レオニさんは、何処も見ていない。
何も聞こえていない。
鴉が勝ち誇ったように鳴きわめく。
ガァァー、ガァァー、ガァァー!
『重畳、重畳、まことに重畳!!』
ぐるぐると飛び回り、あたしたちの頭上から呪詛を降らせる。
『穢れある姫なれば! 穢れある姫なれば!』
嫌だ。嫌だ。嫌だ、こんなの──唆さないで!!
『大王様は触れもせぬ。大王様は……』
「レオニさん、そいつの言うこと聞いちゃダメ!!」
あたしは立ち上がり“境界”を越えた。
越えて叫んだ。
レオニさんの瞳に光が戻る。
──瞬間、弓を引き絞り、それを放った!
ガァァァ!! ガァァァ!!
放たれた矢は、鴉の右の翼を射抜いた。
落ちる鴉にレオニさんは二の矢を放つ。それは鴉の胴に刺さって“境界”に触れ──
パァン──!
風船が割れるような音がして、一瞬、閃光があたしの目を灼いた。
恐る恐るまぶたを開くと、そこには何も無い。
何も。
ただ黒い鳥の羽が一枚、二枚──ひらり、ひらりと落ちてきた。
ゆっくり。
くるくると。
回りながら。
それが地面に落ちると、レオニさんはふーっと息を吐いた。長く。深く。
そして弓を持っていた手を下げ、もう片方の手で汗を拭い、目元を覆う。
あたしの方を見ずに。
俯いて。
しばらくそうして立ち尽くした後──静かに呟いた。
「隊長に、報告しましょう……」
それからあたしたちは今来た道を、『狩りの城』へと引き返した。
お互い無言で。
何も喋らずに。
肩を並べ──ほんのわずか、距離を取って。




