038:本音
小ホールの扉をそっとを押して、中に足を踏み入れる。
窓に嵌まった木戸はすべて閉ざされ、隙間からわずかな光が漏れるばかり。
薄暗い中じっと目を凝らせば、扉を開けたすぐ横に不寝番の神職さんが……あらら、寝ちゃってる。
しょうがない、しょうがない。みんな疲れているのだ。
昨日はすごく大変だったし一晩ぐっすり眠れたのは──あれ、もしかしてあたしだけ?
ホールの中ほどには寝台が二つ。空の方はレオニさんが使っていたのだろう、きちんと畳んで毛布が置いてある。
もう一台には重傷患者が寝かされていて──あたしはその傍らに、小さな人影を見つけた。
「いたいた……」
呟いて近寄ってもピクリともしない。
静かに胸を上下させるアルゴさんのそばで、コズサ姫は眠り込んでいた。
「姫様、寝るんなら横にならないと体痛くなっちゃいますよー」
声をかけても反応なし。
どうしよう、起こしたら悪いだろうか……とはいえ授業中の居眠りのようなこの姿勢で放っておくのも、どうだろう。
できるだけ静かに窓際に寄り、あたしは観音開きの戸を片方開けた。すると一気に涼しさが入り込み──おぉ、眩しい。あっ、湖が見える。
「うー……ん」
湖面が朝日を跳ね返してキラキラ光る。眩しさに目をすがめながら、あたしは小さな声に振り返った。
もぞもぞと体を起こし、コズサ姫は細い両腕を大きく伸ばす。
「ん……サトコどのか」
おはようございます、と声をかければ姫様も目をこすりながら「ン、おはよう」と答え──
「あぁ!」
と両手で顔を覆ってかぶりを振った。なんだなんだ、いったいどうしたの。
「寝てしまったァ……ずっと起きていようと思うたに……」
「えっ、徹夜する気だったんですか?」
寝てしまったー寝てしまったー、と小さなお姫様は繰り返している。状況はまったく違うけど、試験前の一夜漬けに失敗したあたしのようだ。
「それは無理ですよぉ、夜中ずっとだなんて……代わりましょうか、付き添い。なんならコジマくんでも呼んで」
「……嫌じゃ」
「えぇー」
「ここがいい」
コズサ姫はぷーっと頬を膨らませ、唇を尖らせて主張する。
「アルゴが起きるまで、ここにいるッ」
うわーもうこの姫様ときたら!
ぷいっとそっぽを向いちゃって、こうなったら梃でも動かないだろう。
でも……これでアルゴさんが起きたら、誰かしら叱られるんじゃなかろうか。
『ひいさまに不寝番をさせるとは何事か』とか、でなけりゃ『ひいさま御自らお付添い頂いたこと、まことに面目次第も云々』とか、それこそ死んでお詫びしかねない。
いや、それはさすがに無いか。
「だったらあたしも一緒に付き添いますよ」
すると姫様、横目でチラリとこちらを見た。
「よいのか?」
「いいですよ」
その途端、ホッとしたように笑顔が咲いた。あたしは少し苦笑い。
しょうがないなあ、もう。
「……さすがに苦しかったのであろうな」
アルゴさんは目覚める様子もなく、ただひたすら規則正しく胸を上下させている。ほつれた前髪が額にかかり、わずかな陰が目元に落ちていた。
「取り乱しはせなんだが、顔を歪めて歯を食いしばっておった」
「……むしろ、それだけで済んでるのが信じられないです」
「まったくじゃ。気を失うた方が楽であったろうに」
よいしょよいしょと椅子を運んで隣に腰掛けると、姫様は小さく息をついた。
横たわるアルゴさんをよくよく見ると、巻かれた包帯にもじんわりと血が滲んでいる。
うわー……この下の傷をもし見たら、貧血では済まないかも。それこそ気絶しかねない。
「わらわの守役であるばっかりに。災難なことじゃ」
きっと、こういうことが今までもあったのだろう。
そりゃ知り合ってまだ日が浅いし、十年の間にどんなことがあったかなんて、聞いた範囲でしかわからないけど。
見ている方は堪らぬ、かあ──本当にそう思う。思うんだけど。
「でもアルゴさんは災難だなんて思ってないんじゃないですか」
「まことに?」
「まことですよ。だって時代劇でも滅多にいないもの、こんな忠義に厚い人」
少なくとも、あたしにはそう見える。
姫様のお守役が嫌だなんて、きっとアルゴさんは考えたことも無いだろう。それこそ頭の隅をかすめたことすら無い、ってレベルで。
すると耳慣れぬ言葉にコズサ姫が顔を上げた。
「じだいげきとはなんじゃ」
「あー……そうですね。ずっとずっと昔の、歴史上のことを題材にしたお芝居、かな」
「芝居とな。どのような?」
時代劇をよく見てたのはおじいちゃん。あたしも膝に抱っこしてもらって、小さい頃は一緒に見たりした。
たとえば──
「身分を隠したお殿様が、庶民のふりをして城下町の事件を解決する話とか。引退した元お殿様が、側近たちと旅をして各地の悪代官をやっつける話とか。それから愛憎渦巻く大奥のドロドロした話とか……まぁそんなかんじです」
すると姫様、「ほほぉ」と感心したように声を上げた。
いつのまにか体ごとあたしの方を向き、瞳がキラキラ輝きだしている。うん、なかなかの食いつきだ。
「おもしろそうじゃの、じだいげき。特にその一城の主が良民をコッソリ助けてまわるやつじゃ。痛快ではないか」
「姫様そーゆーの好きそうですよね。お忍びで町に出て、っていう話」
「わらわもエードの町を歩きたい。自分の足で、自由に」
夢見るような眼差しでコズサ姫は呟いた。
そうだよね……そうだよねぇ。小さい頃から命を狙われているのなら、町中を自由に歩くなんて夢のまた夢だろう。
「あーでも時代劇のお殿様だって、本当の本当に一人で出掛けてるわけじゃないですよ」
「なぬッ」
「ちゃーんと護衛する人がいて、こっそり御供してるんです。で、ピンチになると現れて」
「なるほど、わらわが常にアルゴに見張られているようなものか」
「またそんなぁ。姫様わかってるくせに、こんな一生懸命やってる人いないですよ」
「しかし窮屈じゃっ」
ぷふっ、とあたしは思わず吹きだした。だって姫様、ほっぺをぷーっと膨らませて子どもそのものなんだもん。
あたしが慌てて口元を手で隠すと、コズサ姫は膨らませたほっぺをちょっと赤くした。それから恥ずかしそうに呟いた──嗤うたな。サトコどの。
「ならば訊くが、じだいげきには此奴のような頭の堅い忠義者の話もあるのか?」
「いっぱいありますよ」
「どのような?」
アルゴさんが起きていたら、きっと目を細めて笑うだろう。
さっきのやり取り、聞かせてあげたい。
「えーと……あるお城で刃傷沙汰がありました、って所から始まる話なんですけどね」
続きを、と姫様は催促する。
あたしは記憶の糸をくいくいと引っ張った。
そして日本人なら一度は耳にしたことがあろう年末のド定番、『忠臣蔵』のあらすじを手繰り寄せた。
「……昔々、龍の洲でいうエード城みたいなところで、刃傷沙汰がありました。家臣どうしのいさかいです。長い長いお城の廊下で、ある大名が──大名って貴族みたいなやつなんですけど、『この間の遺恨おぼえたるや!』と叫んで短刀を抜き放ち、他の大名に斬りかかったそうです」
「ほぉぉ……穏やかでないのう」
「オデコに傷をつけたところで他の人が止めに入り、斬られた方は御咎めなし、斬りつけた方はその日のうちに切腹させられ、家はお取り潰しになってしまいました」
そこまで話すと、コズサ姫は訝しげに首を傾げた。どうやら腑に落ちない部分があったようで。
「未遂であろう? 即日腹を召せとは、厳しすぎはすまいか」
「斬りつけた理由もよくわからないうちに切腹させたそうですよ。
……で、やっぱり納得いかなかったのが切腹した大名の家来たちです。すったもんだの末、主人の仇討ちを決意しました」
「お上が裁かぬなら己の手で、か。さもあろう、仕える主を失うた上、相手が御咎めなしでは面白いはずがあるまい」
「まーそんな感じだったと思います。
……そして敵討ちのために集まったのが四十七人。綿密な計画を練り、ある冬の夜を仇討ちの日と決めました」
コズサ姫はいつのまにか身を乗り出し、真剣な顔で聞いている。
おお、食いついてる食いついてる。
「決行の日、四十七人は完全武装で仇の屋敷に討ち入りました。門を破り、名乗りを上げ、相手方の家臣と切り結びながら屋敷中を探し回り、ついに台所の隅に隠れていた憎い仇を探し出したのです。
そして見事その首を打ち落とし、主人の墓前に供えました」
姫様は「ほぉー」と感嘆の吐息を漏らした。
忠実な家臣を召し抱えるお姫様としては、なにか心の琴線に触れるものがあったのだろう。
「なるほどのう……それで、主の無念を晴らした忠義の者どもは如何した」
「結局処罰が下り、全員切腹したんですって」
そう、琴線に触れるものが。
コズサ姫は御顔を曇らせた。そして「なんと」と呟いて少し沈黙した。
それからまたあたしを見つめ、ぽつりとお訊ねになった。
「……忠義とは、何であろうの」
「え?」
「その四十七人、天涯孤独ではなかろうに。妻も子も、親も兄弟もあろう者たちが……それを捨て置いて行くほど、忠義というのは大層なものなのか?」
「どうでしょう、あたしのいたところじゃ人気のある話でしたけど……師走には必ずテレビでやるし」
「納得いかぬ。忠義とはいったい何じゃ」
なんて難しいことを訊くんだろう。
答えられない。
だって現代日本には王様もお殿様もいないのだ。誰かに『お仕えする』こと自体が無いのだから。お店で働いたり、会社で働いたり、皆それぞれ仕事はあっても誰かに『お仕えする』のとは根本的に意識が違う。
あたしが言葉に詰まっていると、コズサ姫は沈痛な面持ちで声を震わせた。
「わらわがその立場であれば、とても耐えられぬ。近衛士がすべて命を落とすのと同じようなものではないか」
「……まあ、そんな感じかもしれないですよね」
「それも己が不始末ゆえに……忠義とはいったい何じゃ。忠義が厚ければ、如何な目に遭おうとも耐えられるものなのか? 死ぬることも厭わぬものなのか?」
「どうなんでしょう……あたしにはちょっと」
「己が肉を焼く熱さにも耐えようものなのか?」
コズサ姫の視線の先には、昨日まさに己が肉を焼いた、忠義のかたまりのような人が横たわっていて。
「例えばそれがわらわ以外を守るためであっても、此奴はそうするのか?」
あたしは驚いてコズサ姫の横顔を見つめた。
アルゴさんが、コズサ姫以外を守る──姫様、どうしたの。なんで急にそんなこと言いだすの。
あたしの驚きをよそに、小さな姫はぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
「例えば、わらわが西の都に嫁したのち……近衛士の長としてエードにとどまるとしよう。あるいは、ともに西へ赴くとしよう」
「……」
「さすればアルゴはわらわだけではなく、夫となる大王様をも守護いたすこととなろう」
「……」
「こたびのように我が身を楯にするその忠義は、主がわらわでなくとも持ち得べきものであろうか」
膝に置いていた手をそっと持ち上げ、コズサ姫は指を伸ばした。横たわるアルゴさんの、ほつれた前髪へ。
「主が誰であっても……此奴は忠誠を誓うのかのう」
だけどその手はためらうように動きを止め、小さな膝へと戻っていった。その人の額には、触れることなく。
コズサ姫の表情は美しい髪に隠れてわからない。
わからないけど、あたしは答えた。
「きっと姫様だけですよ」
もちろんわかっていることもある。
姫様が聞きたい答え。それはあたしの口から聞くんじゃダメだってこと。
「姫様だけだと思います。アルゴさんが守りたいのは」
だからアルゴさん、早く起きて。
早く起きて。
「……もしもじゃ」
膝の上で拳を握り、小さな背中をわずかに丸め、コズサ姫は声を絞り出す。
まるで迷子になった子どものように──迎えに来てくれるはずの人は、横たわったまま目を覚まさない。
「もしも、わらわの不始末で……アルゴが命を落とすことにでもなれば」
やめてよ姫様。そんな泣きそうな顔しないで。
「何言ってるんですか、アルゴさんちゃんと生きてるじゃないですか」
「しかしこの先、そういうことになったら」
やめて。
やめて。
「──その時はわらわも、生きてはおれぬ」
「やめて! 姫様なんの不始末もしてないじゃない!」
「エードの姫に生まれたことが一番の不始末じゃ!」
あたしは絶句した。
コズサ姫は一瞬「あっ」という顔をして、体をこわばらせた。
聞いてはいけないことを。
言ってはいけないことを。
──あたしたち二人は、共有してしまったのだ。
結局その日、石窯で焼いた初めてのパンは失敗に終わった。
失敗の原因は過発酵。
まあ、姫様と時代劇の話なんかしてたからだけど……味も焼き色もイマイチという、じつに残念な仕上がりに。
しかも荷物に入れてたはずのパン切り包丁も見当たらない。あーなんでだろう、確かに持ってきてたハズなんだけど。
だけどもっと困ったことが起きて、あたしの思考は全部そっちに持ってかれた。
それはだいぶ日も高くなった、正午より少し前のこと。
重傷を負ったアルゴさんが、ようやく目を覚ました時のこと。
こともあろうに彼はこう言ったのだ。ずーっと付き添っていたコズサ姫を差し置いて。
「……弟子のやつを、呼んでくれ」
もちろん、あたしはバッチリ目撃した──頬を怒りで朱く染め、柳眉を逆立てたコズサ姫の御姿を。
それからしばらく姫様がご機嫌斜めだったことは、言うまでもない。