002:アンパンと魔法使い 二
魔法使いのおじいさんは、あたしの目の前に腰を下ろした。
「どれどれどっこらしょ」
と樫の杖をテーブルに立てかける。バランスが悪かったのか杖はそのまま傾いて──
床に、落ちない。
おじいさんが人差し指をぴっと立てると、杖もぴっと姿勢を正した。あたしの口はポカンと開きっぱなし。
この人本当に、本っ当に魔法使いなんだ……!
「椅子があるとは、年寄りに優しい店になったのう」
優しい声でそう言って、ヒゲを撫でながら笑う。
この声はあれだ、冬になると「フォッフォッフォッ。メーリィクリスマース!」って町中で言ってるあの声、あれにそっくり。
母はトレーを取り、トングでアンパンを掴んでレジに運んだ。四枚切りの食パンも一緒に。
「それ、娘のアイデアなんですよ」
パンを紙袋に詰めながら、チラリと目配せ。
な、な、なんだろう。あたしの話?
「都会のお洒落なパン屋はどこもお店の中で食べられるんだから、うちもそうしようって。狭いから三席しか置けないんですけどね」
「ほぉー、それじゃあ焼きたても頂けるのかの?」
「ええもちろん! 朝昼二回焼いてますからね、今度来てくださいよ」
腰掛けた母から紙袋を受け取り、おじいさんはにっこり笑って頷いた。
「行くとも行くとも。いやあ嬉しいのう、またしばらくおたくのパンが食べられるとは。十五年は長かった……首を長ーくして待っておったよ」
「マーロウさんでも十五年は長いんですね。私には長いんだか短いんだか」
魔法使いのおじいさん──マーロウさん。
マーロウさんはまたヒゲを撫でると、人差し指をすっと動かした。杖がぴたっと、今度は大きな手の中へ。
「忙しい者にとって一日は短く、振り返れば一年は長い。ワシみたいにぼんやり生きてる者にとって一日は長く、振り返れば一年はあっという間じゃ。
それでも、おたくのパンを待ちわびる年月は長く感じたのう……サトコちゃんがこんなに大きくなるわけじゃよ」
「へっ」
「へっ、じゃないよサトコ。あんたマーロウさん初めてじゃないわよ」
あたしはもう口あんぐり、何て答えればいいやらさっぱりわからない。初めてじゃないわよって言うけど、魔法使いに会うのは正真正銘これが初めてだ。
すると母、呆れ果てたようにこう言った。
「あんたが覚えてないだけ。十五年前も私たちここにいたんだよ」
「……え、うそ」
「うそついてどーする。あんたマーロウさんにはずいぶんお世話になってんだから。お腹痛くなった時も、熱出したときも、近所の子とふざけてて怪我した時もさあ」
「近所の子?」
「日本じゃなくて、ここの近所」
えええ。
十五年前ならあたしは三歳──ちょっと、この話をいきなり飲み込めっていうほうが無理じゃない?
だんだん頭が痛くなってくる。どうやら気のせいではなさそうだ。
「だからほれ早く挨拶しなサトコ。
マーロウさん、コレうちの娘。ちょうど十八歳、番茶も出花ですわ」
優しげな目で、マーロウさんはあたしのほうを見る。
ばっちりと目が合ってしまい──どういうわけか逸らすことができなくて、あたしは魔法使いのおじいさんとしばし見つめ合った。
おじいさんの瞳は、すみれ色。
魔法みたいに綺麗な色……
「……あ、サトコです。その……えっと、すいません」
「そんな挨拶あるかいな、もーこのあほたれっ」
マーロウさんはふぉっふぉっと笑う。
「素直な娘さんに育ったようじゃのう、タカコさんが大事に育てたのが見えるようじゃて」
母もそんなそんなと言いながら、なにやら照れくさそうに笑っている。マーロウさんがいい人そうなので、あたしの緊張も少しずつ解けてきた。
異世界って言うけどけっこう普通かも。
いや、魔法使いがいるんだから普通ではないのか。とは言ってもここでは普通のことだから……いやいや結局は人次第。それに尽きそうだ。
「この十五年、どうでした? なんか変わったこととかあったりします? あ、サトコお茶淹れてきてよ」
「……あっ、うん」
厨房に引っ込んで蛇口を捻ると、ちゃんと水が出た。
ガラスの紅茶ポットを残っていたお湯で温め、電気ポットに水を足す。
あっとゆー間にすぐに沸くまでは他の作業。カップを三つ出し、お盆を出し、シュガーポットとミルクジャグも。
茶葉はどうしよう。
引き出しを開けると、黄色いラベルのティーパックもあれば缶入りのイイやつもある。
「……イイやつにしよ」
深緑の缶を取ってラベルを見れば、セイロン産ウバ茶と書いてある。
次に蓋を取って匂いを確認。よし、これに決まり。
「えーっ、ほんとに。コズサ姫、ついにお輿入れですか!」
やっぱりいるんだお姫様。あのゴージャスなお城にお住まいなんだろう。
母の驚く声に耳をそばだてながら、あたしは紅茶ポットのお湯を払って茶葉を入れた。
「大きくなられたんでしょうねえ。うちのメロンパンが好きって言ってくださって、私もうとろけそうでしたよ」
……って、うちのパン食べたんだ! やだ、なんか脇から汗出てきた……
電気ポットで沸かしたお湯を注ぎ、茶葉がはねるのを眺めながらあたしは溜息をついた。ぶへぇぇ、って。
母はテンション高めの声でマーロウさんと話し込んでいる。友達に電話でもするように。
「ひいさまもブーランジェリー松尾のパンを覚えておられてのう、あの上に乗ってるカリカリのところが好きだと仰るんじゃよ。『次にタカコが来たら必ずわらわに教えよ』と、それはもう厳しく仰せじゃったわい」
「あらあーそうだったんですか。だったら明日メロンパン焼きますから、マーロウさん届けて差し上げて下さいよ」
お姫様の一人称ってやっぱり『わらわ』なんだ、なんて思いながら紅茶をカップに注いでいく。
うーん、なんと豊かな、それでいて刺激的なこの香り。
やっぱ缶入りは違う。お客様に出すものはケチってはいけないのだ。
「はいっ、お待たせしましたあー」
お盆を抱えて売り場に戻ると、母とマーロウさんがなぜか拍手で出迎えてくれた。
マーロウさんがまた指をすっと動かすと、杖がふわーっと宙に浮く。そして入り口の傘立に行儀よく納まった。
「おーっやるじゃんサトコ、うちで一番イイやつ淹れてきたか」
「ちょっと褒められるとコワイんですけど」
「失礼しちゃうね、よくできた時はそりゃー褒めるって。あんただって褒められれば嬉しいくせに」
そりゃまあそうですけど。
なるべく得意げな顔をしないよう、気をつけながら配膳する。マーロウさんはしわしわの大きな手でカップを持つと、くんくん匂いをかいでから口をつけた。
「これは……いーい香りじゃのう……」
「ミルク足してみて下さいよマーロウさん、あっそうだ角砂糖も」
「お、こりゃありがたい……うーむ、これはまた格別」
マーロウさんは紅茶を気に入ってくれたよう。
あたしの頬はあっけなく緩み、母もそれを見てにやりと笑う。
「しかしタカコさんや、ワシはアンパンだけで良かったんじゃが」
紙袋を横目にマーロウさんが言うのは、おまけに入れた四枚切りの食パンのことだろう。母はというと紅茶のカップから唇を離し「いーんですよサービスです」と笑ってみせた。
なんで珈琲はずるずる音立てて飲むのに、紅茶は上品に飲むんだろう。
あたしにはよくわからない。
「お弟子さんと一緒に召し上がってくださいよ。固くなっちゃったら、ミルクと卵に漬けて弱火で焼くんです。最後にハチミツでも絡めれば、簡単ですけどご馳走ですよ」
「ほー、なるほどのう! いやーワシも長いこと生きとるが、タカコさんには会うたびに教えられるわい」
「やだ褒めすぎですよ、食いしん坊だから色々思いつくってことです」
こんな楽しそうに接客するおかーさん、久しぶりかも。
あたしは談笑する母とマーロウさんの顔を交互に見比べた。
客とパン屋というよりも、昔からの友人みたいだ。こんなお客さん日本の近所にいたかしら……もしかしたら、あたしが学校とか行ってる間はこんな風だったのかもしれないけれど。
あまり目にしない母の顔を見て、何とも言えない不思議な気持ちが湧き上がる。
タカコさん、だって。
おかーさんをタカコって呼ぶ人、おじいちゃん以外で初めてじゃない?
「……さて、そろそろ御暇するとしよう。パン屋さんは朝が早いからの」
マーロウさんは紅茶の最後の一口を飲むと、よっこらせ、と立ち上がった。とんがり帽子が天井につかえそう。
母も席を立ち、あたしも腰を浮かせた。
指をすっと動かすと杖はまたふわーっと浮かび、マーロウさんはそれを握ってひょいと一振り。
すると空になった紅茶のカップたちが浮き上がり、音もなく店の奥へと飛んで行く。一瞬後に、カチャン、とシンクに入った音。
「まーすいません、置いといてもらって良かったのに」
「いやいやいいんじゃよ。また来るからの、おやすみタカコさん、サトコちゃん」
マーロウさんはドアを開け──といってもドアノブには触っていないから、魔法の力で開けたんだろう──縦長の身体を屈めてくぐり、店の外へと一歩出た。
そして、ひゅんっ、という音とともに見えなくなる。
あとに残ったのは一筋の光だけ。
「……帰ったの?」
「ま、そういうことよ」
母は今度こそシャッターを下ろした。
そして店のドアを閉めた途端、「ぶあぁぁぁ」と呻いてイートインの椅子に腰かける。
どかっと、ではなく、がっくりと。
「ああ……だめだ、今日はもう何もできない……」
「だ、大丈夫?」
「いやもう疲れちゃって……気疲れだよ、気疲れ」
母はのろのろと顔を上げた。
なんか、一気に五歳くらい老けたみたいだ。
「サトコ……あのさあ……」
「なになに、ほんと大丈夫?」
「夕飯……カップ麺でいいかな……」
そう言い残し、べたっとテーブルに突っ伏した。
夜、十時。
あたしと母はシーフード味のカップラーメンを半分こした後、シャワーも浴びずに布団に潜り込み、異世界での一日目を終えたのだった。