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037:もしかしたらの万が一

 シーン……と静まり返った『狩りの城』の廊下を、あたしとコジマくんは忍び足で進む。

 べつにコソコソしなきゃいけない理由なんてないし、フカフカの絨毯が足音を抑えてくれるんだけど──なんとなく。


「……ねぇ、ちょっと静かすぎやしない?」


 ひそひそ声でささやくと、コジマくんが険しい顔でうなずいた。


「もしかしたら──もしかするのかも、しれないですよ」

「それって……」

「“万が一”の事態になったのかもしれませんよ……」


 ごくり、とあたしは息を飲んだ。

 万が一の事態。

 それはすなわち二名の怪我人のどちらかが“万が一”ということなんだけど──


「ちょっと! さっき大丈夫って言ってたじゃない、魔法医の権威の優秀な弟子なんでしょー!?」

「サトコさん声大きい、声大きい! 冗談ですってば! 大丈夫に決まってますってば!」

「やめてよほんと笑えないわよそーゆーの!」


 でもコジマくん、半分は本気で言ったのかも。

 ついさっき──厨房から一歩出たとき。

 城全体を包む、なんとも言えない重ーい空気にあたしたちは口をつぐんだ。

 人の気配がなく、吐息一つためらわれる。活気がないどころか生気がない、というかんじ。

 だからコジマくんが不吉な発言をするのも、わからなくはないと言うか……


「頼むから滅多なこと言わないでよ。本当にそうなっちゃったら、どーすんのよっ」

「だってだってこの雰囲気、御通夜みたいなんですもん」

「だからーっ、もうっ!」

「なに涙目になってるんですかぁ。大丈夫ですって、静かなのは皆さんまだ眠ってるだけですよきっと」

「それが永遠の眠りだったらどうすんの、って言ってんのよぉぉ」


 自分だって不吉なこと言ってるー! というコジマくんの抗議には答えず、あたしは忍び足で暖炉のある広間を通り抜け、小洒落たエントランスを横切った。

 そしてさらに廊下を奥へと進み、突き当りで足を止めた。


「……コジマくん、先に入ってよ」

「えーっ、なんで僕が!」


 目の前には木の扉。

 開ければ中は小さなホールになっている。かつてはそこで宴などが催されたらしいけど──


「だってコジマくんお医者さんでしょっ」

「そうですけどっ、そうですけどっ。嫌ですよぅ、僕こーゆー湿っぽい雰囲気苦手なんです!」

「得意な人なんかいないわよ、あたしだってやーよ、もしも……もしも……」

「もしも……なんです?」

「中に入って万が一(もしも)の事態になってたら、どーすればいいのよぉ」


 するとコジマくん、呆れたように息をついた。


「あのねぇ、サトコさん……ちょっと心配しすぎですってば。隊長さんはともかく、レオニさんは大丈夫ですよ」

「べべ別にっ、レオニさんのことだけ心配してるわけじゃないですからっ!?」

「万が一がありそうなのは圧倒的に隊長さんですけど、あの人そーとー頑丈ですから。よしんばそういう事態になったとしても……」


 コジマくんは途中で言葉を切り、目線をそらして扉の方を見た。

 あたしもそちらに顔を向け──


「しーっ」


 と指を口に当てて苦笑いするレオニさんと、目があったのだった。







 ぱちぱちと火が燃える。

 あたしたちは結局、厨房に戻っていた。なぜってここが一番暖かいから。

 丸椅子に腰掛け、レオニさんは石窯を眺めながら「なるほどこれが例の」などと呟いている。


「レオニさーん、お薬ですよぉ」


 コジマくんが抱えたお盆の上には、湯呑やら水差しやら薬の包みやら。

 薬の包みを手にとりレオニさんは中身を一息に飲み干した。湯呑を傾けて喉の奥へ流し込み、「苦っ」という顔をする。

 魔法の薬もよく効くものほど口に苦いらしい。


「……昨日、眠れたんですか?」

「ええ、はい」


 レオニさんは包帯だらけの体にさらっと上着だけ羽織った姿で、ニコッと笑った。

 厨房の窓に目をやると、朝の光がキラキラしている。

 差し込む朝日に照らされたレオニさんの笑顔はやわらかで──あたしもつられてニコッとなった。


「さすが典医どののお弟子さんですね。これだけすっきり目覚めたのは本当に久しぶりです。痛みもほとんど取れてますし……もちろん、多少はヒリヒリしますけど。頭まで冴え渡るようです」

「そんなに褒めちぎったら、またコジマくん調子にのっちゃいますよ」

「またって何ですか、もー。

 さっきの薬も昨日の薬も、即効性があって持続性があって栄養があって効き目がスゴイんですから。そうそう、副作用で頭の働きが滑らかになるってお師匠様が言ってましたよぉ」


 それははたして、副作用なんだろーか。

 コジマくんは例の魔法のリュックから、細々した道具を出して作業台に並べはじめる。見ればそれは、包帯だとか何かの瓶だとか──ああこの子、本当にお医者さんの卵なんだ。普段の言動がアレだから忘れがちだけど、きっと本当に優秀なんだろう。

 かと思いきや、今度は竹筒を持ってかまどの火をふーふー吹いている。

 医者なのか主婦なのか、なんにせよ働き者なのは間違いない。


「ご飯、炊きますからねー。食べれなければ煮返してお粥にしますから。レオニさん、一応傷の具合診ておきましょーね、包帯も代えなくちゃ。

 ほらサトコさん、手ぇ空いてるんなら解いたげてくださいよ、ボーッとしてないで」

「あ、うん」

「いえ、大丈夫ですよ自分で……」

「だーめっ、怪我人なんですから。元気な人にやらせりゃいーんです」


 じゃあ、とレオニさんはあたしに向き合った。羽織っていた上着をするっと肩からすべらせる。

 ああなんか……

 なんかこう、見とれちゃうんですけど……この首から肩にかけてのラインとか、鎖骨のあたりとか、厚い胸板とか、固そうな二の腕とか。

 包帯だらけで痛そうだけど、それがまた戦士ってかんじがしてイイ男感増してるというか色っぽいというか……

 ……

 ……

 ……

 うわーーーーッッ! 何考えてんのあたし、頭おかしい、頭おかしい!!


「なーにじっくり見てるんですかサトコさん、早くしてー」

「じ、じ、じっくり見てなんか」

「レオニさんも頬を染めたってしょーがないでしょっ」

「ほ……頬を染め……!?」


 まったくもー二人して、と言いながらコジマくんはまた炊事に戻る。

 な……なによなによー、まるであたしが、(よこしま)な目でレオニさんのこと見てるみたいじゃない! そんなことないのに、全然違うのにー!

 と口には出さなかったけれどやっぱり恥ずかしくて、あたしは俯き気味にレオニさんの包帯に指をかけた。

 あ、あ、手が震える。

 これじゃコジマくんにやいやい言われて動揺してるみたいで、余計に恥ずかしい。

 顔が熱いのを覚られないように、あたしは下を向いたまま包帯を解いた。そして当てておいたガーゼをとって──

 その下から現れた傷口に「ウッ」と息を詰まらせた。


「うわぁぁぁ、痛そーう」


 寄ってきたコジマくんも顔をしかめる。

 ギザギザに引き裂かれた皮膚はまだ赤味も鮮やかで、周りが少し腫れていた。深い傷、浅い傷、大きい傷、小さい傷──何本も、何本も。

 うーん、なんだか……急に……眩暈が……


「あぁっ、サトコさんしっかり!」

「ちょっとーこの程度で貧血とか情けないですよっ」


 一瞬目の前が暗くなり、気づけばあたしはレオニさんの──傷だらけの、それでいて逞しい胸の中に倒れ込んでいた。

 け、決してわざとじゃないんです。

 だって、すごく恥ずかしい。

 すごくすごく、恥ずかしい。

 本当の本当に、恥ずかし……おぇっ、気持ちわる……


「サトコさん休んでてください、ねっ? 自分のことはいいですから」

「うぅ、ごめんなさ……」

「んもーしょうがないんだからあ。ここは僕に任せて、ちょっと横になってきたらどうなんです?」

「うん、ホントごめ……おぇっ」


 じつに情けない話だけれど──

 今まで生きてきて、あたしは事故や事件の類を目撃したことは一度もない。つまり血というものに強いのか弱いのか、確かめる機会も無かったわけで。


「自分も、血は苦手ですよ」


 作業台に突っ伏したあたしに、レオニさんがそう声をかけた。


「近衛士である以上そうも言ってられないんですけどね。中々どうして……慣れません」


 頭だけそちらに傾けると、レオニさんはちょっと真面目な顔でこちらを見ていた。


「だから昨日も見ていられず、サトコさんのそばに逃げてきたんです」

「逃げて……?」

「隊長に聞かれたら、叱られるでしょうね」


 レオニさんはそう言って微笑んだけど──それはきっと、あたしへの気遣いだ。


 アルゴさんの傷を焼いてる間、あたしは一人でその場を離れた。

 離れて正解だったと思う。

 あたしは完全に足手まといで、居ても邪魔になるだけだったし、今みたいに貧血起こして迷惑かけるのも申し訳ないし。

 だから一人でじっとしていた。お城の広間のすみっこで、火のない暖炉を見つめながら。

 何にもできず。

 震えて。

 泣きそうになりながら。

 そしたらレオニさんが来て、隣に座って……

 ──あたしの肩を抱いて。

 正直、安心すればいいのか、泣けばいいのか、ドキドキすればいいのか全くわからなくて、ただガッチガチに固まってたんだけど。


「サトコさんたら、なーにウルウルしてるんですか。どうするんです? 部屋戻るんですか? 戻らないんだったら、僕ちょっと頼みたいことがあるんですけど」


 レオニさんの背中に刷毛で薬を塗りたくりながら、コジマくんが口をとがらせる。

 顔だけちょっとを持ち上げて「頼みって?」と訊ねると、彼は不機嫌さ全開であたしに言った。


「あっちの部屋の様子、見てきてくださいよ」

「えっ……えぇぇー?」

「大丈夫ですよコジマさん、隊長はちゃんと生きて」

「そんなの当然です。僕を誰だと思ってるんですか、魔法医の権威マーロウの」

「唯一にして優秀な、前途有望な弟子のコジマくんでしょ……?」

「どーして先に言っちゃうんですか!

 隊長さんが生きてることくらい知ってますよ。治療の指揮をとったの僕なんですからねっ、いちおうっ!」

「いちおう……?」

「それに何かあれば不寝番の神職さんが知らせにくるはずです。んもー、(にぶ)ちんのサトコさんにハッキリ言いますよっ。

 僕が! 本当に見てきてほしいのは! コズサ姫の御様子ですっ!」


 はっ、とあたしは体を起こした。


「姫様、もしかして一晩中……?」


 あのときコズサ姫は現場に留まった。

 あたしは部屋を出て、それから姿を見ていない。

 最後に見たのは、唇をきゅっと結び背筋を伸ばして、アルゴさんのそばに寄り添う後姿。


「……お疲れになって、眠り込んでおられましたよ」


 レオニさんの言葉を聞いてあたしは立ち上がった。

 コック服のボタンを外して、袖を抜く。


「あたし、ちょっと行ってきます」


 そして厨房を出て、静まり返る『狩りの城』を小走りで奥へと向かった。

 さっきまで眩暈がしてたことも、発酵中のパン生地のことも──すっかり、忘れて。




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