035:石窯修行ことはじめ 一
遠くで目覚ましが鳴っている。
止めたい。
止めたい。
でも体が動かない。
体だけじゃない、頭も動かない。
あーでもうるさい、限界だ、もう止める。
もう止める、止める、止め…………
「おっはよーございます、サトコさーん!!」
「……ぬぁっ!?」
あたしを起こしたのは目覚まし時計でもなければ母の大声でもなく、朝から元気いっぱいのコジマくんだった。
魔法でピッカーン! と部屋を明るくして、あたしのくるまっていた毛布を剥がしにかかる。
「起きて起きて、サトコさん。そんなのんきに寝てる場合じゃ無いですよぉ」
「やめてぇ、毛布取らないでぇ……」
「だってもう四時ですよ、朝の四時! これがお店だったら店長にどやされますよ『ぐーたら寝てんじゃない、朝いちばん早いのはパン屋のおじさんって昔から決まってんだからねっ!』って」
そう言うとコジマくんは、ぴぴぴ、ぴぴぴと騒ぐ目覚まし時計──あたしが家から持参した、旅行用の小っちゃいやつ──を止め、「えいやっ」と毛布を引っぺがした。
さ、寒っ。
一つ身震いしてしぶしぶ目を開けると、やる気満々のコジマくんは何とフリフリのエプロン姿。袖にはたすき掛け。
「なによぉ今日くらい寝かせてくれたっていーじゃなぁい……昨日は大変だったんだから……」
「だーめですよ、サトコさん何のために此処まで来たんです? 石窯でパン焼く為に頑張って来たんでしょ!」
はっ、とあたしの脳に電気が流れ始める。そうだそうだ、おじいちゃんの石窯だ。
「わかったわかった、起きるわよぅ……」と答えて一つ伸びをして、あたしは重い体を動かして寝台から下りた。
あたしたちは今、ファタルの神域と呼ばれる場所にいる。
日本でいえば日光に相当するこの場所、その山間にある美しい湖のほとり。そこに立つ古城がここ、『先代様の狩りの城』だ。
エード城が堅牢な石造りの要塞なのに対し、『狩りの城』は小洒落た洋館といった佇まい。
長らく使われていなかったものの、先代様の霊廟をお守りする神職の人たちが、ここもきちんと管理していたんだそう。塵ひとつ落ちてない、すぐに生活できる綺麗な状態がキープされていた。
「でもコジマくんまで早起きしなくてもイイんじゃない? パン屋はあたしなんだし」
「いーえっ、レジ係とはいえ僕もブーランジェリー松尾の店員です。それに言ったじゃないですか、家で美味しいアンパン作れるようになりたいんですもん。だから早く早くー、顔洗って着替えて、早く厨房いきましょーよー」
コジマくんに背中を押され、あたしは「寝室に」とあてがわれた小さな部屋を出た。部屋のある場所は一階、コジマくんの部屋はお隣さん。その横にあるのは厨房の入口だ。
つまり、あたしは料理人の部屋を貰ったってことみたい。
厨房の奥には勝手口の扉があって、出てすぐの軒先には大きな水甕が二つ。
勝手口を出て身震いひとつ。春とはいえ、少し標高が上がると夜は寒い。
寒さに身をすくめながら空を見上げれば、満天の星。
夜明けにはまだ時間がありそうだ。
「だいたいねーサトコさん、僕が起きなきゃ真っ暗で何の作業もできないでしょ。それのささやかな明かりじゃ手元を照らすので精いっぱいですし」
コジマくんに言われて胸元の“鬼の眼”を見ると、星明りを受けてほのかに輝いている。きれいだけれど厨房で作業するには光が足りない。
水甕の蓋を開けると、中には透明な水がなみなみと湛えられていた。それを柄杓で掬って顔を洗い、一口含んで口をすすぐ。
すごく冷たくて、雑味のない──ううん、わずかに甘みを感じる。美味しい水だ。
この水も毎日朝晩、ファタルの神職の人が入れ替えてるんだって。この城に誰もいなくても、雨の日も風の日も欠かさずに。
「灯りくらいつけられるわよぉ、ライター持ってきたし」
「でも蝋燭じゃやっぱり暗いでしょ?」
「まあーねぇ……」
そんなことを言い交わしながら、あたしたちは勝手口から中に入り、厨房に戻った。
猿の襲撃に遭いながらファタルの神域に入り、現在二日目。
近衛士たちは倒れ伏し、魔法使いの弟子は泣き濡れて、コズサ姫は狼狽し、あたしは呆然自失──まさにほうほうのていで辿り着いたこの場所で、一番最初に活躍したのはなんとコジマくんのポッポちゃんだった。
猿が立ち去ったとみるや主の袖から顔を出し、「くるっぽー」と一声鳴いて飛び立ったポッポちゃん。そして十分も経たぬうちに舞い戻った。ファタルの神職たちを大勢連れて。
それが、昨日のこと。
「よーし、始めましょうサトコさん! まずは何から? 何から?」
「元気ねぇ、ほんと……」
そのポッポちゃん、今朝も主の袖から抜け出していた。厨房の窓枠にチョコンと止まり、首を傾げてあたしたちの様子を伺っている。
昨日ありがとね、と声をかけると「くるくる」と喉から音を出した。
「コジマくんは疲れてないの? あたしは何だかぐったりなんだけど」
「なーに情けないこと言ってるんですかぁ。無傷のサトコさんが“ぐったり”なんて言ってたら、近衛士のお二人なんかどうなっちゃうんですか!」
確かにそのとおり。
あたしはなんだかんだで掠り傷一つ負うことなくピンピンしている。ついでに言うなら、コジマくんも。
毛布を被ってたあたしはともかく、猿に集られてたコジマくんが無傷ってゆーのがイマイチ理解できないんだけど……昨日のことを思い出し、あたしは小さく息をついた。
するとすかさずポッポちゃんが喉を鳴らす。
くるくる。くるっぽー。
「大丈夫かなあ、二人……」
厨房をぐるりと見回しながら、あたしは呟いた。
まずは設備と、道具の確認。昨日はバタバタしてて出来なかったから。
「大丈夫に決まってるじゃないですかあ。サトコさん、僕を誰だと思ってるんです?」
「……コジマくんでしょ?」
「魔法医の権威マーロウの唯一にして優秀な弟子、コジマです! ちゃんと全部言ってください」
広い厨房の真ん中には、大きな石の作業台。
壁沿いには煮炊き用の小さなかまどが三つ並び、それぞれに鍋やフライパンが置いてある。近くにお玉や木べらがかかってるところを見ると、たいていの調理道具は揃っているのだろう。
さて、製パンに使うグッズはどのくらい有るのかしら──
あたしが確認作業を進める間も、コジマくんは後ろでわいわい喋っている。
「心配いりませんよ、大丈夫です。
神職の人たちの応急処置が良かったですし、なんと言ってもお師匠様直伝の薬湯を煎じて飲ませてありますからね。お二人の回復力を最大限に高めるようなやつです。ケモノの毒はきちんと出て行きますし、熱も下がります。強制的に寝かせてありますから、疲労回復・滋養強壮にもつながりますよ。目が覚めたらいつもより元気いっぱい、お肌ツヤツヤ、髪だって黒々と」
「黒髪じゃないじゃん、二人とも」
「ものの例えですっ。
何日かぶりに上質な睡眠を味わってるんじゃないですか? 特にあの隊長さんなんかいつ寝てるのか不明ですからね、この機会にしっかり惰眠を貪ってもらわないと、いざって時に云々」
いざって時、かあ。
その「いざ」がここ数日連続したのだ。まさか最後が猿だなんて思わなかったけど。
「でも、あの怪我よ? 痛くて寝れないんじゃないの?」
レオニさんの背中。
何日か前に、あたしが魔法の薬を塗ってあげた広い背中。
そこに走る何本もの赤い筋を思い出し、あたしは身震いした。ぜんぶ猿の爪や牙でつけられた傷だ。衣服も裂かれて、血の染みが広がって──あ、だめだ。貧血起こしそう。
「そりゃ痛いに決まってますよ、けっこう深くえぐられてましたもん」
「そ、そうよね……」
「隊長さんなんて腕肩足と三カ所も齧りとられて、肉をごっそり持ってかれてましたからね。いやーあれにはビックリしました、やっぱり外にいたぶん酷くって、よく馬車から落ちなかったなー手綱を離さなかったなーって感心するというか感動するというか」
「やめてぇぇ、思い出したくないぃ」
あたしは作業台に背中を預け、ぐらつく頭を押さえながらしゃがみこんだ。
コジマくんは厨房の隅に積んであった木の丸椅子を持ってくると、そこに腰掛けて話し続ける。
「それに神職の人に言われてたじゃないですか、『隊長殿、傷口焼かねばなりませぬぞ』って」
「あぁぁ、やめて、やめてぇ」
「そしたらあの人こうですよ──『ならば焼いてくれ』。
僕は正直苦手ですけどね、隊長さん。でもあーゆーところは一目置いちゃうなあ。だって真っ赤に焼けた火箸でグリグリやられるんですよ、ものすごく痛いに決まってるじゃないですか! 普通そんなことサラッと言えませんよねえ、焼いてくれなんて」
「やめてぇコジマくん、もう許してぇ……」
焼いて固めて、血を止める。肉が腐って崩れるのを防ぐため──必要な処置だったんだろうけど、ぬるま湯育ちのあたしには衝撃過ぎた。いや、焼いてるところを目の当たりにしたわけじゃないんだけど……
……外に出てるよう、コズサ姫に言われたから。
あたしはちょっと「おぇっ」となりかけて、口元を押さえた。ああ、情けない。
「コズサ姫は強いよねぇ……」
溜息まじりに呟くと、コジマくんがすかさず言い返した。
「当たり前じゃないですか。あの方はエードの姫君、西の大王の御后になられる御方ですよっ」
アルゴさんの傷を焼く──その現場にコズサ姫はとどまった。あたしと一緒に退出して下さいと、コジマくんもレオニさんも神職の人たちも言ったんだけど。
姫様は頑として動こうとしなかった。
「見なくてはならぬ。主の務目じゃ」
そう言われてしまっては、誰も口を挟めなくて──唯ひとり翻意させられそうなアルゴさんに、皆の視線が集まった。
するとアルゴさんはこう言ったのだ。
横たえられたまま、わずかに微笑んで。
「ひいさまの御前なれば……どのような痛みでも、耐えられましょう」
それを合図にあたしは治療に使われた部屋から出された。
できることなんか何もなくて、床に座り込んで震えてただけ。胸のあたりがすーっと冷えて、きりきりと胃が痛くって──そしたら自分の治療を終えたレオニさんが来て、ずっと隣にいてくれて……
ああ、いけないいけない。今は仕事中!
「あたしパン屋ができなくなって転職の必要に迫られても、絶対に絶対に看護師さんにだけはなれそうもないわ……」
「まっ、無理でしょうね。サトコさんビビリだし」
「う、うるさいわねぇー」
「ぶへぇぇ」と息をついてどうにか立ち上がり、あたしは旅行鞄からコック服を引っ張りだした。コジマくんも椅子から立ち上がる。
しっかりしな、サトコ。やるべきことをきちんとやるんだ。
母はきっと、そう言うだろう。
そうだ、しゃきっとしなきゃ。皆それぞれ頑張ってるんだから。
あたしはコック服に袖を通し、ボタンを留めた。
自然と背筋が伸びる。
厨房の壁に目を転じれば、そこには大きな石造りの窯。
おじいちゃんの石窯。
その扉は閉ざされ、まるで眠っているみたい。
さあ、火を入れてやろう。
起こしてやろう。
あたしはこの石窯に、会いに来たのだ。




