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030:夕映え 一

 いつしか日は傾きはじめ、貴賓室の窓から望む日光連山──もといファタルの山並みも、だんだんと赤く染まりつつあった。

 オレンジのような、ピンクのような、不思議な燃える赤。

 薔薇みたい。

 あたしはそれを遠目に眺めながら、コジマくんの淹れてくれたお茶を啜っていた。


「それでねぇ、サトコさん。僕はちゃんと言ったんですよ、魔法解くには取っ掛かりが必要だって。やみくもにぶつかるのは良くないって、だからちょっと集中させてほしいって」

「……あー、うん」

「隊長さんも『承知した』って言ったんですよ。で、その後に『頼むぞ』って言ったんですよ。そう言われたら僕だって嬉しいし、自分のペースでさせてもらえるって思うじゃないですか」

「……うん……」

「なのにあの人、自分でそう言ったくせに後ろから凄い殺気バンバン送ってくるんですよ!『トロットロやってんじゃねーぞコラ』みたいな! そりゃー僕だって急がなきゃいけないってことは重々承知してましたよ、だからあれでも急いだんです。けど案外しっかり魔法が組んであって……

 ……ってサトコさん聞いてます? サトコさん?」

「えっ?……あ、うん。聞いてる聞いてる」


 ぼんやり外を眺めていたあたしは、コジマくんの方に視線を戻した。ああ、この子のほっぺも薔薇色だわ……


 ──あのあと。


 大浴堂で掃除のおばさんに襲われ、それをアルゴさんが濡れ手ぬぐいでしばき倒したあと。

 あたしは例の貴賓室でコジマくんから『事の顛末』を聞いていた。

 すなわち三人の男衆が、いかにしてあたしたちの窮地に駆けつけたのか──





 さて、魔法使いの弟子曰く。


 あたしたちがお風呂に向かった後、何とも言えないイヤーな「魔法くささ」を感じたそうな。

 これはおかしいぞ。ただごとではない──そこで彼は近衛士二人にこう告げた。


「何かありますよ、このお宿」


 それを聞いてアルゴさんとレオニさんはすぐに立ち上がった。

 コジマくんも魔法くささの原因を探るべく、鼻をくんくんさせながら一緒に貴賓室を後にした。そして部屋を出て数歩のところで気がついた。

 これは、昨夜の偽コジマにかけられていた『誤魔化し魔法』と同じものだ。

 しかしその時点では、何をどう誤魔化されているのか、とんとわからなかったという。


「たしかに、おかしいですね」


 次にそう呟いたのはレオニさん。


「貴賓室から客が出て、宿の人間が誰も対応に現れないというのは不審(おかしい)です」


 とにもかくにも彼ら三人は大浴堂へと急いだ。

 異変はそこにもあった。

 扉を開けたら番台のおじさんがいないのだ。

 そればかりか、脱衣カゴにあるはずのあたしたちの衣服も見当たらない。


「でもね、そこは間違いなく大浴堂で、どこかに姫様とサトコさんがいる。それは確実だったんです」

「なんで? 服が無かったらいないって思いそうなもんだけど」

「ですからあ、僕はこう見えて優秀なんです! 一嗅ぎ、二嗅ぎすればわかります。姫様が使った目隠し魔法の匂い、ほんのり漂ってましたからね。

 それがですねえー、何とも言えず甘くて可憐で、それはそれはかぐわしい香りだったんです! あれは魔法を嗅げる人間なら思わずスーハーするのもやむなしですよ。例えるなら野に咲く花々のようにささやかな、それでいてきりっと華やかで、言うなれば姫様のお人柄を表すような」

「あーはいはい。それで、誰もいない大浴堂からどうやってあたしたちの所に来たの?」


 魔法が相手となると近衛士二人にはどうすることもできない。アルゴさんに「頼むぞ」と言われ、コジマくんはイイ気分で杖を握って目を閉じた。

 あたしは魔法使いじゃないからサッパリわからないけれど──魔法というのは上手い人と下手な人では緻密さというものが違うらしい。目を閉じて「見えた」誤魔化し魔法は、パッと見には粗雑な代物だったそうで。


「ところがどっこい、解こうとしたら取っ掛かりが見当たらないんですよ。雑に見せて実は巧い、ってパターンですね。これはちょっと本気出した方がいいのかな、って感じで」


 しかしながら誤魔化しの大浴堂の向こうでは姫様とあたしが大ピンチなハズなのだ。でなきゃ、姫様が目隠し魔法なんか使うわけがない。

 コジマくんが苦戦してると背後に揺らめくような殺気を感じ、恐る恐る確認すれば──それは近衛士の長アルゴさんが放っていた、というわけ。


「ほんともーやんなっちゃいますよあの人、僕だって一生懸命やってるのに!

 だいたい気になっちゃって全然集中できないじゃないですか。なーのーに、振り返って見ると涼しい顔してるんですよねぇ。あれ何なんでしょうホント!」

「さあー……心の声が漏れ出ちゃったんでしょ」

「でも顔だけ見てるとサラっとしたもんですよービジネスライクってゆーか冷たいってゆーか」


 そんな感じで大いに急かされたコジマくん、きちんと魔法を解くのではなく、荒っぽい手段に出た。曰く「手で無理やり引っぺがしてバリバリ破く」力技で。

 ──結果、まずは閂になっていたデッキブラシが弾け飛んだ。さらにその余波があの富士山タイル絵大噴火。

 他人の魔法を無理やり解くとあんな風になるんだそうだ。


「なるほどねぇ……手間取った、ってそーゆーことだったんだ」

「いやーほんと姫様とサトコさんにお怪我がなくて良かったですよ、爆発したのがブラシと壁で。座り込んでた床が爆発したら大変ですもん。そうならずに済んだのはアレですよ、僕の筋の良さってやつです。タイミングもばっちりだったでしょ?」

「え? あ、まあねえ。もう少し遅かったら逃げられてたわけだし……」


 そう言って、あたしは温かいお茶を啜った。

 啜った後も湯呑を握ったまま指先を温める。あの騒動のおかげで、あたしも姫様も体が冷え切ったままなのだ。

 ──結局、あのおばさんは宿の人では無かったらしい。

 番台のおじさん、宿のご主人に女将さん、誰もが「知らない、このあたりの人間ではない」と首を横に振った。どうやって侵入したのか不明だけれど、それもまた魔法の力を使ったようだ。

 やっぱり、マーロウさんのお兄さんが一枚噛んでいるのだろうか。


「逃げられてたどころか命は無かったかもしれませんよー。あんな言い方した後じゃ、あのおばさんでなくても逆上するでしょうし」


 え、とあたしは顔を上げた。


「ビックリですよもう、魔法を解いてる間じゅうサトコさんの怒声が聞こえてくるんだもん」

「うそ、聞こえてたの?」

「あんたそれでも女の端くれかーってすごい剣幕で、いやほんと仰天しました。でもあの店長の血を引いてるわけですから、まあ納得といえば納得ですけど。隊長さんもちょっと驚いてましたし、レオニさんなんか『サトコさんですよね、これ……』って若干引いてましたし」

「ひ……引いてた!?」


 えー、うそぉ。

 あたしの顔はきっと、かーっと赤くなってたに違いない。でもそれは朝の薔薇とか夕方の薔薇とか、コズサ姫の唇とかコジマくんのほっぺとか、そーゆー魅力的な赤さではなくて……

 うわー聞こえてたんだ、あたしの人生初啖呵。

 やだあ。

 やだあぁぁ。


「あのお掃除おばさんに何言われたのか知りませんけど、素っ裸であれだけ怒号を響かせるってのは、そーとーですよね。僕サトコさんのこと見直しましたよ、どっちかっていうと状況に流されるタイプじゃないですか」

「な……何よ言ってくれちゃって! だってあのおばさんホントーにひどかったんだから。嫁入り話がおじゃんになるように、顔をダメにするとか子どもを産めない体にするとか、聞いててこう……ムカムカしてきちゃったのよ、とにかく」

「へー! そんなこと言ってたんですか」

「それに何でそうなったのか知らないけれど、あたしのことお姫様だと勘違いしてて……それでね、こっち見てなんて言ったと思う?」

「さー、なんて言ったんですか?」

「大したお顔じゃない、って言ったのよ!」


 ぷふっ、とコジマくんが吹きだした。あははと笑いだし、笑いすぎて長い睫の隙間に涙が溜まっている。

 ひ、ひどい。なーにツボってんのよ、笑ってんじゃないわよもう!


「うっわあーそれひどいですね! そりゃ腹も立ちますよ! サイテーです、あはは、サイテーです。ひどーい、乙女に向かって」

「ひどいのはどっちよ、笑いすぎだわよ!」

「だって大したお顔……あー可笑しい、僕こんな楽しい気分になったの久しぶりです!」

「コジマくんいつだって楽しそうじゃない。もー何よ、あたしそんなビミョーな顔してる? 一応これでも、彼氏がいたことだってあるんだから」

「何ですか、かれしって」


 そう訊ねたのは、コジマくんじゃなくて──聞こえたその声に、あたしは椅子から腰を浮かせた。


「レ……レレレオニさんっ」

「おつかれさまです、サトコさん」


 爽やかに笑って、レオニさんが貴賓室に戻ってきた。

 顔が……顔が熱い。心臓がバクバクいってる。

 なによあたし、どうしちゃったの。

 なに意識してるのよ。

 ちょっと挙動不審じゃないの、ハダカを見られたからどうだって言うの、減るもんでもないんだし、緊急事態だったんだし、しょうがなかったのよ、そうよそうよ。

 だから──とりあえず落ち着こう、深呼吸、深呼吸。

 “かれし”のことは、ひとまず置いといて。


「レオニさーん、どうでしたあ?」


 椅子を引いて腰掛けたレオニさんに、コジマくんがちょっと心配そうに尋ねる。

 あたしは熱くなってしまった顔を両手でパタパタ仰ぎながら、横目でチラチラと様子を伺った。

 なんか……なんだろ、レオニさんの方をまっすぐ見れない。


「大丈夫ですよ、コジマさんに請求が行くことはないと思います」


 レオニさんはそう言って笑った。


「でも、上手い言い訳って思いつかないものですね。宿の人間はほとんど、我々の素性に気づいてます。あえて言わないのはファタル詣出の宿としての地位を守るためでしょう。うかつに口を滑らせて、宿がお取り潰しになるのを避けようということでしょうね」


 レオニさんは宿の人と何やら交渉して戻ってきた。

 大破した大浴堂をどうするか、お宿が営業できない分の保障をどうするか、そんな話をしたようだ。

 あの吹き飛んだタイル絵、けっこうな大きさだったから修復するのも大変そう。温泉宿なのに温泉が使えないんじゃ商売上がったりだろうし……


「あの曲者の素性が割れれば、そちらに請求するんですけどねぇ。中々口を開いてくれません」


 レオニさんは困ったように笑った。そして一言「尋問は苦手です」だって。

 あたしはぽわーんとしたまま、それを聞いていた。いいんです、レオニさん。尋問なんか得意じゃなくていいんです。

 あのおばさんは今、縄でぐるぐる巻きにされて大浴堂に転がされているらしい。番台のおじさんに見張ってもらっているようだけど、おじさんもそんな役目はきっと嫌だろうな。

 ……そんなことを考えていたら、ぎゅるるる、とおなかが鳴った。

 もちろんあたしのおなか、しかも結構なボリュームで……いやんなっちゃう、もう。

 するとレオニさんはくすっと笑い、何やらがさごそ包みを開け始めた。


「宿の厨房で握ってもらいました。中身、梅だそうです」


 わーいおにぎりやったー、とコジマくんが手を伸ばす。

 どうぞと微笑まれてあたしも一つ。いただきます、と一口噛みしめたお米の甘いこと。ああ、染みるぅ……

 頬張ってもぐもぐしていると、あたしは自分がかなり疲れていることに気づいてしまった。

 そりゃそうだ。

 昨日の夜はほとんど眠れず、今日の昼間にほんの二時間眠っただけ。その間三度も襲撃され、妙な緊張状態がずっと続いている。

 二十四時間の間に三度って、ちょっと襲われすぎじゃないの?

 現代日本なら、一生暴漢に遭遇しない人の方がはるかに多いのに。


 そのとき、貴賓室の奥の間が静かに開いた。

 出てきたアルゴさんはその扉をそっと閉ざし──あたしを見た。


「あの、姫様は……」

「先ほど、おやすみになられたところだ」


 そう言ってこちらに来たアルゴさん、腰掛けるなり「ふぅー」と息をついて眉間のあたりを揉んだ。

 この人も疲れるんだ。

 なんだかそれが意外に見えて、あたしはおにぎりを包みに置いた。お茶でも淹れてあげよう、あたしにはそれくらいしかできないし。


「隊長、大浴堂の修理費ですがだいたいこのくらいになるそうです」


 どれ、とレオニさんが渡した書類に目を通し、今度は「あぁ……」と呟いて天井を仰ぐ。コジマくんたら、それを聞いてサッと目を逸らした。

 お茶を淹れて湯呑を渡す。アルゴさんは「かたじけない」と受け取ると、おにぎりに手を伸ばして三口くらいで平らげた。

 早っ! 戦場の兵士みたい。


「……姫様、大丈夫でした?」


 おにぎりをお茶で流し込み、アルゴさんはふっと息をついた。


「サトコどのに申し訳ないと仰せであった」

「え……いやいやそんな申し訳ないだなんて」

「あのように取り乱したこと、許されよ──と」

「……」


 取り乱す、か……

 たしかに、あのコズサ姫があんなんなるとは思わなかった。見た目が子どもだからまだしも、これが十八歳の姿だったらと思うとかなり危うい。

 ──でもやっぱり、その後の姫様はすごく立派だったのだ。

 手の甲でぐいと目元を拭い、御召し物を羽織って背筋を伸ばし、きりっと前を向いて一言「見事であった」と仰せになって──その後、貴賓室の奥の間に引っ込んで、アルゴさん以外はお人払いしちゃったわけなんだけど。


「……でもしょうがないですよ。だってデッキブラシで突き飛ばされて、あちこち打ったみたいだったし。それもあたしを庇ったからだし……許すも何も」

「然様か」

「泣ける相手がいるんなら、泣いたって……」


 そう、あたしだってあの時泣きたかった。

 だって怖かったし、安心したし、なんでこんな目に遭うのーって文句を言いたい気持ちもあったし。

 でもなんだかタイミング逃しちゃったというか──姫様に先を越されたというか。

 だから正直、アルゴさんに抱きついて泣いてるコズサ姫が羨ましかった。

 少しだけ。

 ほんの少しだけ。

 でも家ならともかく、そんなこと出来る相手あたしにはいないし……家だったとしても、おかーさんは泣いてる娘に「よしよし」してくれるタイプじゃないし。

 で、涙はぴっと引っ込んじゃって、そのまま服を着てここでこうしているってわけ。

 ……はっ。そういえばあたし、この人たちの前ですっぽんぽん……おお、なんてことなの。

 思わず俯き、両手で頬を押さえる。

 それをじーっと見ていたコジマくん、急にばくばくとおにぎりを口に詰め込みだした。そしてモゴモゴとのたもうた。


「隊長ひゃん! さっきのくへもの、どこのどいつなんでふぉーねっ!」

「……どうした、急に」

「いーえっ、レオニひゃんがなかなか口割らないってゆってたから僕、気になっふぇ!」


 そして湯呑をぐびーっと傾けて「ごくん」と飲み干し、目をキラッキラさせて宣言する。


「今から! 僕が! 尋問しに行きます!!」

「……何を言ってるかわかっ」

「僕こう見えて無慈悲なんです。きっとあのおばさんもぺらぺら喋っちゃいますよ! それにこれでも大魔法使いマーロウの唯一の弟子ですからね、魔法絡みなら任せて下さい、きっと役に立つはずですから! お休み中の姫様のことはサトコさんたちにお任せして! 隊長さんも行きましょーよ、ねっ? ねっ? 」


 妙にやる気満々のコジマくん、帽子を被り直して杖を握ると、元気よく立ち上がった。「行きますよっ隊長さん!」と声をかけ、貴賓室の扉をバーン! と開ける。

 そして、さっさと行ってしまった。

 アルゴさんはしばらく訝しげな顔つきでいたんだけれど──あたしを見て、レオニさんを見て、「なるほど」と呟いた。


「……仕方あるまい。サトコどの、ひいさまを頼む」

「あ、はい」

「レオニ」

「はいっ」


 跳ねるように立ち上がったレオニさんを、アルゴさんは手招きし──何事か、耳打ちした。

 レオニさんの視線が泳ぎ頬が赤くなる。「あの、隊長それは」と言いかけたのをを遮って、


「では」


 とアルゴさんはあたしに会釈した。そして扉をくぐり、後手にぎぎーっと閉めて──行ってしまった。

 後に残されたあたしたちは、何だかぽかんとしちゃって……


「あの……アルゴさん、なんて?」


 そう訊ねたあたしに、レオニさんは気のせいか頬を染めたまま呟くようにこう答えた。


「……紳士たれ、と」

「……」

「……」


 あたしたちは無言で、互いに耳まで赤くして、しばし見つめ合った。

 つまりどうやら──

 コジマくんとアルゴさんは“気を利かせて”あたしたちを二人っきりにした、ようだった。




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