029:濡れ手ぬぐい
風切音とともにデッキブラシが迫る。
ダメだ、もうダメだ今度こそ。
頭割られる。
あたしの頭、ブラシで割られる!
──こぉーん!!
あたしはギュッと目を瞑り、その瞬間、天井高くイイ音が響いた。
頭は割れてない。
恐る恐るまぶたを持ち上げれば、目の前にはあのおばさん。頭の上にはデッキブラシ。その竹の柄と十字に組み合う手桶の取っ手。それを構えているのは──
「さ、せ、ぬ……!」
──コズサ姫!!
姫様は両脚を踏ん張り、細い両腕でデッキブラシを受け止めていた。
ぎりっ、と歯を食いしばる音。
あたしの頭上でブラシと手桶はがっちり組み合い、あたしを挟んで二人は睨み合っていた。
うそ。
うそ。
あたしはもうパニック状態。腰が抜け、声も出ない。
「おちびちゃん、魔法使うのかい……!」
「それが……何じゃ!!」
姫様はデッキブラシを跳ね除け、さっと後ろに退いた。おばさんも同様に退きブラシを構え直す。
さっきあたしたちに「仲良しねぇ」と言ったのと同じ口で、おばさんは言った。
ぞっとするような低い声で。
「お言い。さっきのお姉さん──どこに隠した?」
そうか。
姫様は魔法を使ったのだ。あの練習中の目隠し魔法を、あたしにかけたのだ。
心臓がばくばくする。
あたしはなるたけ気配を殺し、四つん這いでそっと移動した。離れなきゃ、なるべく早く、できるだけ遠く……!
「今なら許してあげるんだけどねぇ……お言い、ちびちゃん。今すぐに」
あたしは半分くらい泣いていた。
だって昨日の夜から数えてもう三回目だ。何かというと襲撃されて、お風呂でもなんて信じられない。
ああもうどうしてついて来ちゃったんだろう、やっぱりあの時断るべきだった。そしたら今頃こんな目には遭ってなかったのに。
いつも通りお店でパンを焼いて、接客して、それがあたしの身の丈に合ってたのに。
「さあ、お言い」
せめて助けを呼ばなくちゃ。あの三人を呼ばなくちゃ。
扉を開けて、呼ばなくちゃ。
大きい声を出せと言われたけれど、それはできない。目隠し魔法の意味がなくなってしまう。そもそも怖すぎて声が出ない。
ああ早く、早く、手も足も上手く動かせなくてもどかしい。
自分の体なのに、まるで言うことを聞いてくれない!
「言わぬ! この口裂けようともッ」
凛とした声に、あたしは四つん這いのまま振り返った。
コズサ姫は手桶を真正面に構え、暗殺者に対峙していた。
強い瞳で睨みつけて──でも、その両膝は小刻みに震えている。
怖いんだ。
本当は姫様も、怖いんだ。
だったらあたしじゃなくて自分を隠せば良かったのに。姿を隠して浴堂の扉をくぐり、走り出て助けを求めれば良かったのに。
「そう……なら、目ェ瞑りな。強情なおちびちゃんッ!!」
ブラシと手桶のぶつかる音。
一回、二回、姫様はブラシの急襲から身を避けた。
でも次は避けられなかった。
掬い上げるように迫るブラシが、小さな体を跳ね上げる!
──コズサ姫の体は宙を舞い、洗い場の床にぶつかって一回バウンドし──
そのままぴくりとも動かない。
うそでしょ。
口の中がカラッカラに乾き、血の気が引いて体感温度が一気に下がる。
おばさんは頭を巡らしてあたしを見ると、ニヤーっと笑った。
ああ、そうか。
目隠し魔法は、解けてしまったんだ……!
「おやまあ、そこにいらしたの」
こいつは何もできない、そう踏んだのだろう。おばさんはあたしの横をすり抜け、浴堂の入口まで悠々と歩いて行った。
まるで「まだ掃除中なんですよ、すいませんねェ」とでも言うように。
そしてデッキブラシを扉の取っ手に差し込んだ。
……閂だ。
実際あたしは何にも出来ず、浴堂に閉じ込められるのを震えて見てただけ。
「……お気の毒にねェ、お姫様」
姫様、生きてるよね。
死んでなんかいないよね。
あたしは半泣きで腰を抜かしたまま、コズサ姫が倒れている方に必死で這って行った。おばさんは追いかけてくるわけでもなく、あたしの情けない姿を見て笑っている。
背筋が寒い。唇が震える。指先も。
やめてよ姫様、あたしなんか庇ったってしょうがないじゃない。子どもの体で、子どもの力しか出ないのに。
大人に敵うわけないじゃない。
「西に行かれちゃァ困るんです……御世継が出来ちゃァ、困るんですよ」
ひたひたと近づく足音に、意識と視線を引き戻される。おばさんは手桶を両手に掴み、ニタァと笑った。
「お嫁に行かれないようにしましょうねェ」
あたしは姫様の体を両腕で抱えた。息をしてるか確かめたくて、お顔を上に向ける。
床に叩きつけられたときに噛んでしまったのだろうか。薔薇色の唇の端に血が滲んでいた。
──それを見た途端──
今までとは違う震えが、あたしの全身を襲った。
お腹の底がかーっと熱くなる。
それはあっというまに背筋を駆け上がり、頭の中でぎゅんぎゅんと渦を巻き始めた!
「大したお顔じゃないですけどね。形が変わっちまえば、あった話も無くなるかもしれないし……」
姫様の小さな体を、あたしはギュッと抱きかかえた。
お腹と頭の熱いものが全身を駆け巡る。手に、足に、指先に、わなわなと震えがくる。
視界が真っ赤に染まる。
──おばさんはあたしの目の前でぴたっと止まり、両の手桶を振りかざした!
「お顔を潰さなくても、子どものできない体にすりゃァ」
しっかりしろ、サトコ。
しっかりするんだ。
目を逸らすな。
負けてたまるか。
やられっぱなしで、このままで堪るもんか!!
「不憫な赤ん坊も生まれずに済みますからねェ……!」
「ふざけんなァァァーーーーーーーーー!!!!」
あたしの口から、言葉が爆発した。
おばさんは一瞬びくっと震え、振りかざした手桶をそのままに、驚いた様子で目を瞠る。
あたしは必死で口を動かした。
「な、何よあんた、さっきから黙って聞いてれば!」
腕の中のコズサ姫がかすかに呻き、細い指先がぴくりと動いた。
おばさんの顔が歪む。
一瞬「うっ……」と引きそうになるけれど──でもダメだ、気持ちだけでも負けるわけにいかない!
「じじ、自分の恋愛とか人生とか全部投げ打ってるんだからねっ! 背負ったモンの重さも覚悟の深さも、何にも知らないくせに! 嫁入り話潰すなんて、か、か、簡単に言ってんじゃないわよ!! 顔をダメにするとか、赤ちゃん産めないようにするとか……あんた、あんたねぇ……!」
震えがおさまらない。
でも、恐怖のせいじゃない。
脳内ではアドレナリンが「ぶわあぁぁ!」と行き交っていたに違いなく、あたしは極度の興奮状態だった。
全身に鳥肌が立ち、もう一度言葉が爆発した!
「あんた……それでも女の端くれかーーーッ!!」
腕の中で「サトコどの?」と小さな掠れ声。
完全に頭に血が上っていたあたしは、ハッと我に返った。
い……言った……
言い切った……
生まれて初めて啖呵というものを切ってしまった──までは良かったけれど、その後どうすればいいのかわからない。
視線を下げれば、コズサ姫が驚いたように目を瞠り。
視線を上げれば、おばさんの顔がぐしゃりと歪む。
「言いたいことはそれだけかい。お姫様」
そのとき、急に浴堂の向こうが騒がしくなった。やめて下さいとか、困りますよお客さんなんて声が聞こえた後──
バンッ!
と扉を押さえていたデッキブラシが弾け飛ぶ!!
「チッ」
おばさんは一つ舌打ちすると、明かり取りの窓の方へ走り出した。逃走を図ったのだ。
しかし、窓の真下に異変が起こる。
そこには大きなタイルの壁。日本一の霊峰、富士山を描いた見事な壁。その山腹にびしっと音を立てて亀裂が入った──その次の瞬間。
ドォン──!!
富士山が“噴火”した。
山腹から上のタイルがすべて吹き飛び、破片がバラバラ降り注ぐ。
もうもうと立ち込める土煙。行く手を阻まれて足を停め、おばさんは腕で頭をかばった。そのとき浴堂の扉が開け放たれて──
そこに、彼らがいた。
「遅いッ!」
そう一声飛ばしたコズサ姫、だけど声色に安堵をにじませて。
申し訳御座いませぬ、と答えてアルゴさんはあたしを見た。そして言った。
「よく耐えた」
ああ──
それを聞いた途端、安心したのか何なのか、あたしは全身の力が抜けてしまった。さっきまで震えていた指先が、今度は痛いくらいにしびれている。
逃走を阻まれたおばさんはアルゴさんをキッと睨みつけた。左右の手桶を構え、足を前後に開いて腰を落とす。
対するアルゴさんは何も獲物を持っていない。
この人、また丸腰だ……!
「キエェェーーーーッッ!!」
「姫様ーっ、サトコさーん、御無事ですかーっ!? ちょっと手間取っちゃいましたけど間に合って良かっ……きゃー!! なんて! あられもない! 御姿!!」
おばさんが怪鳥のような叫びを上げて跳躍するのと、コジマくんが騒がしく駆けつけるのと、その後ろで顔を真っ赤にして口元に手をやるレオニさんとあたしの目が合ったのは──ほぼ一瞬のうち。
だったと思う。
さーっと顔から血の気が引き、すぐにかーっと熱くなる。
そ、そうだ。
そうだった。
あたしも姫様も正真正銘のすっぽんぽんだった!
「ぎゃーーー!! 見ないでっ、見ないでーっ」
「み……見てません、見てません! 隊長これを!!」
そう言ってレオニさんは何かを投げる。
跳躍したおばさんの手桶攻撃を左右に躱しながら、アルゴさんはそれを片手で受け取った。
ぱん! とイイ音をさせて両手に握り直したそれは──濡れ手ぬぐい、だった。
「立てますか?」
ぽかんと座り込むあたしと姫様に、レオニさんが肩からバスタオルをかけてくれた。あっこれ、あたしが家から持参したやつ……
恥ずかしいやら、情けないやら、ホッとしたやらで、あたしは思わず俯いた。レオニさんがあえて目線を外してくれてるのが、もう余計に恥ずかしい。
でも恥ずかしがってるような場合じゃない。
実際のところ、あたしはまだちょっと立てなくて……首を横に振った。
「ささっ、今のうちに御召し物を! サトコさんもぼさーっと座ってる場合じゃないですよーほら立って、がんばって!」
コジマくんに支えられて何とか立ち上がる。そのまま扉に向かおうとしたけれど──姫様が動かない。
すっくと立って、コズサ姫は見つめていた。
手ぬぐいと手桶の戦いを、見つめていた。
「もうすぐじゃ……もうじき終わる」
アルゴさんが右腕を一閃させ、手ぬぐいでおばさんの腕を打つ。
いつのまにかおばさんは防戦に回っていた。二度、三度、そして四度目、手ぬぐいは手桶の柄に捲きついて、それを遠くへ弾き飛ばした!
「ちくしょうッ」
片方だけになった手桶をおばさんは渾身の力で投げつける。一瞬怯ませ、その隙に今度こそ逃走するつもりだったのだ。
しかし、その渾身の一投もアルゴさんは手ぬぐいで叩き落とし、一気に距離を詰めた。
動きが早すぎてあたしの目では捉えられない。ただ「バチーン! バチーン!」と布で打つ音だけがする。
濡れ手ぬぐい、おそるべし。
これでもかとばかりに打ち据えると、アルゴさんは静かに手ぬぐいを納めた。
おばさんは戦意を喪失したのか、意識を失ったのか──その場にくずおれる。
あたしはあんなに怖い思いをしたのに、この人にかかると拍子抜けするほどあっという間で……
「捕縛しろ」
レオニさんに命じると、アルゴさんはコズサ姫の御前に進み出た。
そしていつものように片膝ついて頭を垂れた。
「ひいさま、御無事で何より」
「……」
「サトコどのを庇われたこと──御立派でした」
「……」
「誇らしゅう存じます」
くしゃくしゃっ、とコズサ姫はお顔を歪めた。
唇をへの字に曲げ、眉根を寄せ、大きな瞳にはみるみるうちに涙が溜まっていく。
そして、ぽか、とアルゴさんの肩のあたりを打った。
二度、三度。
ぽかぽかぽか。
そしてバスタオルがはだけるのも構わず、アルゴさんの首っ玉に両腕を巻きつけて──
「うわぁぁぁん!!」
と、大きな声で泣いたのだった。




