028:温泉に入ろう 二
「なんで富士山……」
あっけにとられ、あたしは呟いた。
「ふじさんとはなんじゃ」とコズサ姫。
あたしはゴシゴシ目をこする。
こすった後も、見えるのはやっぱり富士山──のタイル絵だった。
「いやー……お風呂屋さんの壁に山の絵、あたしがいたところでも定番だったんです。富士山っていう日本一高い山なんですけど」
重い扉の向こうは、異世界の温泉だった。
中は少し暗い。
小さな明り取りの窓からほんの少し光が差し込んで、あたしの首から下げた“鬼の眼”も淡く光る。
もうもうと湯気が立つなか目を凝らせば、壁に沿うように石造りのお風呂があった。真ん中にかけ湯のための小さな噴水、その周りには木でできた手桶や椅子が積まれている。
噴水は洋風なのに手桶は和風なんだ、なーんて感心しながら浴場の壁面に目をやり──そこであたしは目撃したのだ。
それはそれは見事な、富士山のタイル絵を。
「竜巻山か。少し窓を大きく取ればファタルの山並みが見えるというに、何ゆえ竜巻山なのかのう」
「やっぱ風情が違うんじゃないでしょうかねえ……」
「たしかに名峰、しかし本物が一番じゃ。おじいさまの城からよく見えたのが思い出される」
すっぽんぽんのコズサ姫は手桶を掴み、噴水へと近寄った。
あたしはタオルを持ち込んで、いちおう前を隠してるんだけど……なんというか、この姫様は恥じらう様子もなく実に堂々としておいでだ。何もかもが小学生サイズで、つるーんとして、ぺたーんとして、腕や足の細いことったら。
お風呂のために召使が三人いるくらいだから、このあたりの感覚は庶民とは違うのかもしれない。
いやむしろ、わざわざ隠してるあたしが変なのか……?
「最後におじいさまの城に行ったのは、いつであったか。たしかわらわが本当の子どもだった頃じゃ」
そう言いながらコズサ姫は、ざばーざばーと頭からお湯をかける。「かけ湯をするくらい知っておる。常識じゃ、常識」だって。
あたしも手桶にお湯を汲んで、その中に手をつけた。
「あぁぁ……あったかぁい……」
「よう温まりや、サトコどの。コジマばかりに長湯を楽しませるのでは、しゃくにさわるしの」
そう言って、にーっと笑う。あ、なんか久々に見たかも……コズサ姫お得意の、悪い笑顔!
この悪い笑顔のせいで大変な目に遭ってるわけなんだけど、あまり責める気になれないのはどうしてだろう。この姫の人間的魅力ってやつなのか、それとも温泉で懐柔されてしまったのか。
長い黒髪を髪留めでまとめてあげると、じつに満足そうなイイお顔。
お湯に足先をつけると、それこそ凍っていたのが溶けてくようだ。
「あぁぁ、あったかぁい……こーゆーの久しぶり、高二の修学旅行以来かなあ」
「サトコどの、しゅうがくりょこうとは?」
姫様はばしゃばしゃ湯船で泳ぎながら首を傾げる。
お行儀は悪いけど、これぞ子どもの特権だ。
「あー、なんて説明するのがいいかなあ……あたしのいたところ、子どもは皆学校に通うんです」
「がっこうとはなんじゃ」
「同じ年の人たちと集まって色々勉強するんですけど、修学旅行っていうのも勉強の一環で」
「ふむふむ」
「事前に行先の歴史とか頭に入れてって、皆で名所旧跡を回るんです。楽しかったなあー。
ガイドブック見ながら友達とどこ行くか決めて、ご飯をどこで食べるか、お土産はどうするか……」
「がいどぶっくとはなんじゃ」
「後で見ますか? 荷物の中に一冊入れて来たんで」
見る、と答えてにっこり笑い、コズサ姫は湯船の中でうーんと手足を伸ばした。あたしも足を伸ばして、お湯の中で爪先に手を伸ばす……ウッ、届かない。
両手にお湯を掬うと無色透明。ほんの少し口に含むと無味無臭。でも水道水とは全然違う。
この温泉、汲んで行きたい。
これでパンを捏ねたらどうなるだろう。しっとりするのか、ふんわりするのか、それともぎゅっとしまるのか──あとでコジマくんに相談してみよう。あの子の魔法のリュックなら、空のペットボトルくらい出てきそうだ。
「まこと、いい湯じゃ。久しぶりに入るが変わっておらぬ」
「この温泉、来たことあるんですか?」
「ファタル詣出の宿の一つじゃ、最後は三年前だったか」
三年前というと──ああ、そうか。事件があった年の。
レオニさんに教えてもらったから知っている。
コズサ姫を狙って流鏑馬の射手に扮した曲者がいたこと。レオニさんがそれを追ったこと。
鬼神の如き働きで、アルゴさんが姫様を守ったこと──
「聞きました、なんか色々大変な年だったって」
「然様か」
「レオニさんが流鏑馬をやって、もう一人がその……」
「わらわの命を取りに来た──覚えておる」
浴堂の天井に声がこだまし、ふんわりと降りてくる。
その声、まるで大人のようで──さっき湯船で泳いでた女の子は、本当の歳よりぐっと大人びた表情で目を伏せた。
「あやつの腕には、いまも傷がある。醜い傷跡じゃ」
そう言って浴槽にゆっくりもたれかかる。
ダメですよ、そんなこと言っちゃあ……そう言いいかけて、あたしはすぐに口をつぐんだ。姫様はどこか遠くを見つめたまま、ぽつりぽつりと言葉をつなぐ。
「あやつの傷の数だけ、わらわは命拾いした。腕に、背に、脚に──大した忠義者じゃ。だがのう……」
姫はあたしを見た。そして力なく笑った。
「見ている方は堪らぬ……わかるか、サトコどの」
──あたしには、きっと一生わからないだろう。
子どもの頃から命を狙われ続け、ことあるごとに身を挺して守ってくれる人がいる。
自分の代わりに傷つき、戦い、影に日向に仕えること……十年。
「輿入れの話がなければ、あやつの人生もまた違っていたであろうにの。
それこそ気立ての良い内儀を貰うて、子どもの一人や二人もうけておったやもしれぬ」
何て言えばいいの? こーゆー時。
胸のあたりがぐっと押されたみたい、苦しい。
気立ての良い奥さん。
可愛い子ども。
自分の同世代や年下や部下たちが家族を築いても、アルゴさんにはそれが許されない。
ただひたすら、この美しい姫を守るだけ。
それだけ。
「さて、一旦あがるとしよう。のぼせてしまいそうじゃ」
ああ重い、重い、重すぎる。何も考えずに修学旅行の話なんかしちゃった自分が恥ずかしい。あたしってほんとバカ、ほんと平和ボケ、自分で自分が嫌になる!
──と口には出さなくても顔には出ていたに違いない。
きっと空気を変えたかったのだろう、コズサ姫は明るく元気よく湯船から上がった。肌が上気してほんのりピンク色。あたしも慌てて後に続く。
コジマくんが持たせてくれた魔法の小瓶の中身を掬うと、姫様はそれを手桶に溶かしはじめた。
あ、これもしかしてあたしがやるべき?
いやでもプライド傷つけそうだし、ここは黙って見てるべき?
「コジマを連れてきたのは正解であった。河でも風呂でも、いなければいないで何とかなろうが、いればいたで重宝するやつじゃ」
手桶を覗くと、中身のお湯に不思議なとろみがついている。ちょっとぬるぬるした透明の液体。かすかに甘い匂いがする。
コジマくん、これで髪洗うって言ってたけど……どうすんのこれ、頭っからかぶればいいの?
怪訝な顔をして手桶を見つめていると、隣でコズサ姫がにまーっと笑った。
「やって進ぜようか、サトコどの」
「……え!?」
「座ってじっとしておれ」
「えぇ! いやいいですよそんな、恐れ多い」
「よいよい、気にするな。後でアルゴにこう言うてくれれば良いのじゃ、『コズサは一人で風呂に入れるし、人を風呂に入れてやることもできる』と」
「えぇぇ」
う、うーん。
とりあえずあたしは言われるがまま、洗い場の木の椅子に腰掛けた。
なんだなんだ、この展開……異世界のお姫様にお風呂で頭を洗ってもらうって。戸惑うあたしの髪にぬるぬるを塗りつけて、コズサ姫はガシガシ洗い始める。
それがけっこう痛い。
ガシガシ。
ガシガシ。
ぬるぬるはその触感と色を変え、頭の上はホイップクリームみたいなふわふわでいっぱいになった。すごい、ほんとうに魔法のアイテムだ。
そのときガラガラと大浴堂の戸が開いた。
入ってきたのは、デッキブラシを手にしたおばさんが一人。きっとここで働く人だろう。
あたしはホイップクリームを乗せたまま、ひとつ会釈をした。
「あらあ、お客さんいらしたの。すいませんねえ」
「いえ……」
「いつもはこの時間だあれも居ないんですよ。あと小一時間もしたら、混んでくるんだけどねぇ」
そう言いながら手桶や椅子を整え、あたしたちから少し離れた場所をデッキブラシでこすり始める。
姫様はそれをちらっと横目で見ると、別の手桶に湯を汲んだ。泡だらけのあたしに「では流す」と声をかけ、ざばーと一気にかける。
ホイップクリームはぱちぱち弾けるように消えていった。
ぷはぁ、さっぱりした──よし、次はあたしが姫様を洗う番。
「お客さん方、湯治でいらしたの?」
掃除のおばさんがあたしたちに声をかける。
どうやら姉妹かなんかと思っているようだ。交替で洗いっこして、仲良しねぇ──だって。
「ここのお湯はね、ほーんとにいいんですよ。アタシは生まれも育ちもここなんですけどね、この歳になってもどこも痛くないですから」
コズサ姫の頭にぬるぬるを流して、ホイップクリームを泡立てる。顔の周りに落ちてきた泡を両手に掬って、姫様はふーっと息をかけた。
クリームはぱちぱち弾けて、そのたびにキラキラ光の粒になる。
「何年か前にはエードの偉い方々もこちらにおいでなすったんです。アタシも何人か、お背中流させて頂いたもんですよ」
おばさんはブラシをかけ終えて額の汗をぬぐい、あたしたちが泡をまき散らしてる洗い場の方にやってきた。手桶にお湯を汲んで、床のふわふわを流していく。
「アタシはお目にかからなかったんですけどね、お姫様も一緒にいらしてて『大層おきれいな方だった』なんて当時の番台は申してましたけども」
流しまーす、と声をかけるとコズサ姫はきゅっと目を瞑った。小っちゃい子みたいで可愛い。
ざばーと流すとホイップクリームが一気に弾ける。
パチパチ、パチパチ。
おばさんは床に流れ落ちたふわふわのかたまりを流しながら、こちらに目を向けた。
「そんなにキレイなお姫様なら一目見たかったなんて思ったもんですけど……こうして見ると、そうでもないって風ですよねえ」
こうして見ると?
胸の奥がざわついた。
まるでここにいるのがエードの姫だと知っているかのような。
姿も変わってるし、お忍びだし、第一こんなに可愛いのに。
この人、いったい何言って──
「でもせっかくですし」
あたしは胸元の“鬼の眼”を握りしめ、振り返った。するとあたしの真後ろに──
「お背中、流しましょうか? お姫様」
おばさんがいた。
デッキブラシを握りしめ、大きく振りかぶり──
あたし目がけて振り下ろした!




